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第3話 ぷにぷにしてて、まあるかった
鼻先にヒラリと舞い落ちた花びらを君が取ってくれた。笑って「付いてるよ」って教えてくれて、そして、軒先に座り、散りかけの桜を見上げて眩しそうに目を細めた。
――綺麗だね。
そう言ってくれた郁と目が合ったら、ついさっき花びらが落っこちて留まっていた、郁の指先が触れた僕の鼻先が。なんだか少しくすぐったく感じた。
十二歳の郁。
その日の晩、唯一の家族だったりょうちゃんがいなくなってしまって、六年ぶりの親類のうちに慣れてなくて緊張してるのが、物静な食卓じゃ笑ってしまうほど伝わってきてさ。こちらも緊張してしまうほど。
僕の料理も大して美味くなかったんだろう。
なにせ、こちらも両親を亡くしたばかりで、自炊は初心者だったから。
黙々と食べ続ける郁に「どう? あんまり美味しくないかもだけど」って言ったら、美味しいですなんて敬語で答えて。ずっと敬語のなのがまた、六歳までの君を色濃く記憶している僕の耳にちっとも馴染まなくて。笑ってしまったんだ。
気、使わなくていいよ。僕、君のオムツ替えたことだってあるんだよ? って言ったんだ。そしたら、郁が「えっ!」っていきなり大きな声を出して、真っ赤になってしまった。
だって、生後半年までうちにいたんだ。替えたことあるに決ってるだろう? むしろ、率先して替えてたくらいだよ。十六歳にしてオムツ替えの上手いこと。りょうちゃんがやるより手早くて、同じ男だからかなぁ。僕が替えてあげると、きゃっきゃって笑って嬉しそうにしてたよ? そう自慢気に教えてあげた。
可愛かったなぁ。
「……さん」
すごく恥ずかしそうで、でも、それが僕には可愛らしくて笑ったんだ。声に出して笑った。
そしたら、君が反撃してきた。
「……ひこ、さん」
――俺、料理してたんで。俺、十二だけど、たぶん、文彦さんより料理上手だよ。とりあえず、フライの衣の付け方の順番くらいは知ってるし。
知らなかった。でも、知らないでしょ? そんなの。卵、小麦粉、パン粉かと思うでしょ? 小麦粉、卵、パン粉、の順番なんて知らない、でしょ?
ええええ! って、驚いたら、君がまた笑った。あそこで、涙を流すことも忘れてしまっていた君が、今度は声に出して笑ってくれた。
君が笑うなら、フライの衣の付け方くらいいくらでも間違えようと、その時思った。
「文っ!」
「ふごっ」
そう思ったら、また鼻先がくすぐったくなったのを今でもも鮮明に覚えている。
「起きなよ。もう七時」
十二歳の郁はもう少し、こう輪郭が柔らかくて、ほっぺたも桜色でそれで、こんなに低い声なんかじゃ。そんな喉仏だって……。
「何? 寝惚けてる? そんな隙だらけの寝顔晒してると、おはようのチュ―するけど?」
「!」
半分夢の中だった。ほわりと手を伸ばしたら、その手を大きな手に掴まれて、ベッドに縫い付けるように押し戻された。と、同時に乗っかられて重たいと、ベッドがぎしりと音を立てた。
「い、郁っ」
「おはよ」
「ちょ、こら、重たい。それと鼻摘んで起こすのやめてと、この前言ったでしょ」
「……」
「こら、どいて」
「……」
「こーら」
本当に重たいんだよ。ほら、身じろぐことすらできない。
「いーく!」
「はいはい」
「っ」
どく瞬間、またベッドが音を立てて、スプリングが揺れる。
「もう。普通に起こしてと何度も」
「いや、普通に起こしても起きねぇじゃん」
「ふぐ……」
それは、いかんともしがたい、わけで。
「俺、今日から新学期」
「あ、うん。それは承知して」
「そんで、今日から弁当」
「え! あ、そうだっけ? えっ?」
新学期って、始業式だけじゃなかったっけ? あれ? そんな俺の思考を読めたみたいに、郁が三年だから違うんだってばと笑った。
十二歳の頃のサラサラヘアーは、ツーブロックのなんだか大人びた髪型に変わった。
「へーき、もう作った。そんで、文の昼飯分はラップかけてある。チンして食べて」
「ごめっ」
「いいよ。別に。昨日、今日、取引先に見せる織物で寝るの遅かったっしょ」
ベッドの端に郁が腰をかけた。十二歳の郁よりも、もっとずっと料理が上手になった。もちろん、俺の作る料理と雲泥の差がある。器用なのは誰に似たんだろうね。りょうちゃんはお世辞にも料理が上手とは言えなかったから。だから、上手になったのかな。中学一年生で二十八の僕が感動するくらいだった。久しぶりにちゃんとしたご飯食べたって言っちゃったくらい。
「目んとこ、クマできてる」
「っ!」
十二歳の郁よりもずっと背が伸びて、十二歳の頃よりも、手が大きくなった。目元をなぞる指はもう硬くて別人みたいだ。ぷにぷにしてて、まあるくて、柔らかかった指先。
「ちゃんと、食ってよ?」
「も、もちろんっ」
「あんた、細すぎ」
「え、標準でしょ。っていうか、これ以上太くなったら大変。もう三十四なんだから、メタボとか」
「っぷ」
笑うことないだろ。けっこう本当に気にしてるんだから。僕、郁みたいに運動得意とかじゃないからエクササイズとか絶対にしないだろうし。だから余計に気になるんだよ。
少し怒った口調で抗議をしてみた。でも、ホント、三十四なんてね、高校生の郁にはわからないだろうけど、色々ある意味で気になるお年頃なんだから。
「や、むしろ、文は三十四に見えねぇし。二十代前半って言っても通るよ」
「何言ってんの。そんなの通るわけないでしょ」
「通るよ」
「通らないってば」
「……通るよ」
「とお……」
何の話してたんだっけ? 会話の主旨迷子になりかけたところで、目が合って、言葉が止まった。
「と、とにかくお弁当ごめん」
「いいよ。別に、お礼は、キスでしてくれれば」
ぷにぷにしてて、まあるかった指は、今は。
「…………」
今は、硬くて。
「…………な、何言ってんの。もうそんな年じゃないでしょうが」
男の手をしてる。
「おーい! いーくー!」
「! ぁ、あの声、秀(しゅう)君じゃない? ほら、待たせると悪いから。あ、ありがと、僕の分も作ってくれて。お昼」
ほらほらって、郁を急かしつつ、僕も本当に起きないといけないからと布団から抜け出した。
「いいってば。文の分作りたかったし」
十二歳の頃は「文彦さん」だったのが、今はまるで、男の人みたいに「文」って呼ぶ。いくら言い直させても、ちっとも直らないからもう諦めて「文」って、そのまま――。
「それじゃ、行って来ます」
「い、ってらっしゃい」
高校生になった君は、まるで男の人にみたいに、文って、僕のことを呼ぶ。
「いーくー!」
「あー! 今、行く」
僕はその度に、あの春の日にまだ中学生だった君が触れた鼻先がくすぐったくて、なんだか、とても、落ち着かない。
「いってきます」
「いって、らっしゃい」
落ち着かない。
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