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第4話 隙間
両親は染色士として、織物職人として、小さいけれど織物工場を営んでいた。
その両親を不慮の事故で亡くしたのが、僕が二十七の頃。郁の母、りょうちゃんが亡くなったのと偶然にも同じ年の出来事だった。
高校を卒業して、他の織物工場で経験を積んでいた僕の修行九年目のことだった。突然、工場長が険しい表情で僕を呼んだ。
――ご両親が、事故で……。
その瞬間、指先から体温が消えたのを覚えてる。見たわけではないけれど、自分の指が青白い氷に変わっていくような錯覚を覚えた。
そして、通夜に葬式、田舎だから、親戚に色々教わりながら。あと、うちの親が営んでいる工場のこと。従業員が何十人もいる、僕が修行のために世話になっていた工場とは違って、とても小さく、パートさんも二人だけ。でも、工場を畳まず、修行があと一年残っていたけれど、僕はそのまま後を継ぐことにした。
儲かる仕事じゃない。それでも、このうちで聞こえる織物機の音は好きだったし、両親が続けていたこの仕事を継ぎたいと思って修行をしていたわけだから。親戚は反対していた。一人息子、若輩者の僕が工場を継いで、経営不振にでも陥ったら、何かしらの火の粉がこっちにって思ったのかもしれない。
でも継いでよかったと思っている。
「……サラダは、冷蔵庫に入ってる、のね」
郁を引き取ることができたから。
テーブルの上、朝、郁が言っていたとおり、テーブルの上にはラップされた僕の食事があった。今日は、オムライス。僕の好物にしてくれたんだ。じゃあ、郁のお弁当はチキンライスに玉子焼きかな。ミニトマトが僕にはついてるけれど、郁はどうしたんだろう。トマト苦手だから。
「あ、カリフラワー入ってる……」
冷蔵庫を開けたら、小さめのサラダボールの中にゴロゴロと僕の苦手なカリフラワーが入っていた。
つまり、俺は嫌いなミニトマトを、だから僕も苦手なカリフラワーを食えよ、ということなんだろう。その代わりに、好物のオムライスにしてやった、と。
「……ありがと、郁」
郁は高校三年生になった。今日から。進路は、もう僕にとって郁は家族なんだから、大いに甘えてくれていいんだと話したけれど、なんだか納得してなさそうな顔をしていた。進学したいのならしていいんだよ。そのくらいの預貯金はどうにでもなるし、ならないのなら、引き取ったりは――。
「……」
いや、あの時はそんなことまで考えてなかったな。
ただ、あの悲しみに今にも息をすることすらやめてしまそうな郁をどうにかしたかったんだ。なんでもいい。ヨチヨチ歩きでスミレの花を僕の目の前に降らせて笑った郁でいて欲しかった。
そのことで頭はいっぱいだった。
気がついたら郁の手を取っていた。
「さて、と」
ぐんと伸びをして、敷地内になる織物工場へと向かう。
昨日、遅くまで色を見ていた糸を、もう一度、陽の下で見てみないと。室内での発色は気に入ったけれど、太陽光の時のは、まだなんともわからないから。
縦と横、ただ糸を組み合わせて作る織物はシンプルだけれど何千もの糸を扱う繊細な仕事だ。
僕が工場を開けるのは八時。でもパートさんが来てくれるのは九時。その一時間の間に雑務、事務処理なんかを片付けるんだけど。
「おはようございまぁぁす」
工場の鍵を開けていたら、隣の林さんが門のところから顔をひょっこり出した。
「あ、おはようございます」
田舎だから、プライバシーはあってないようなものというか。ご近所付き合いは深い。とくに、うちは工場がここにあるから、音も立つし、気を使う。
「回覧板。来週、お掃除の週だそうよ」
「あ、どうも、ありがとうございます」
「あれねぇ、朝からご苦労様ねぇ。もう大変じゃない? 一人身だと何かと大変でしょう?」
ご近所付き合い、もね。悪い人ではないんだけれど、こういうときはちょっと困ったなぁ、なんて思ったり。
「あー、いえ、もう慣れたものなんです。もう何年もやってるし」
「……」
「小さな工場なので、お嫁さんに来ていただくにも、苦労ばかりかけそうですから」
「でも、いい人くらい、いるんでしょ?」
「あー、あはは」
困ったなぁ。あ、そっか、今日から林さんのお子さんも学校か。朝の時間に余裕があるんだ。
「いい人なんていないですよ」
「あらぁ、もったいない! でも、そうよねぇ、この辺りじゃ、お相手探すのも大変よねぇ」
「いやぁ……」
「すんませーん、成田染料でーす」
もう回覧板の内容なら今、林さんが教えてくれたし、このまま、左隣のおうちに回覧板を持って行くことで、おいとましていただこうかなと思ったところだった。助け舟が現れてくれた。
「あ、おはようございます!」
急いで駆け寄ると、林さんもスッと退場してくれた。
「染料、急ぎっつってたので」
「ありがとうございます」
染めも自分でやるんだけれど、染料そのものは染料屋さんにお願いしていた。父が経営していた時からずっと継続して取引をさせてもらっている成田さん。たしかここも代変わりをして、最近、息子さんになった。
「茄子紺と葡萄、っすよね」
「あ、はい」
紫の濃い色を頼んでたんだ。
成田さんがサンプルの染め布を陽の下で見せてくれた。高校を卒業してすぐ両親のお店を継いだって言ってた。高校生の時は野球がすごく上手かったって。背もかなり高くて、一斗缶を軽がると持ち上げてしまう。ピッチャーをやっていたと、成田さんのお母さん、先代の奥さんがうちの母と話してたのを覚えてる。
(さっき、捕まってましたね)
「えっ?」
背の高い成田さんが腰を折り、前かがみになって、耳元でそう言った。
「助け舟になりましたか?」
「あー、あはは、はい……あ、いえ、その」
「大変っすよねぇ。俺もよくご近所さんにお嫁さん早くもらえって、孫の顔見せてやれって言われるんすよ」
あはは、って笑った。孫とかお嫁さんとか、所帯を、とか、田舎の人は本当に好きだから。
「でも、成田さんは」
「いないいない、いないっすよ」
「でも、カッコいいから」
「え? 俺、カッコいいっすか? あざっす。でも、相馬さんこそ、モテそうっすよ」
「それこそないですよー」
茄子紺と葡萄、とても似た色なんだけれど、茄子紺のほうが、うーん、日に当たると青みが強くなってちょっと硬い印象になるかもしれない。金糸に合わせて、だと、そうだなぁ。
「ないんすか?」
染料は買っているけれど、それを調合して使うのは自分自身。千本以上ある糸を重ねて織っていくのはとても繊細かつ、大きくなればなるほど、その繊細な違いも大きな差になって、見栄えを変えてしまうんだ。
だから、目を凝らして、その二色の布を糸に解して、大きな大きな布に織りなおす想像に忙しかった。
「……ないん、すか? 相馬さん」
「? 成田さん?」
「相手とか」
「……」
相手、あぁ、結婚とか、の?
――いいよ、別に。文の分作りたかったし。
ふと、郁の顔が浮かんだ。
「ないですよー。僕はこの工場と、家族養ってければ、それで充分ですから。やっぱり、葡萄にします」
「……」
「成田さん?」
彼は、何かを考えて、そして返事をすると伝票を切ってくれた。
「まいどありー」
「ありがとうございます」
相手、か。相手なんていない。
――文。
高校を卒業してすぐ、織物工場で修行を積んでた。その最中、あと一年というところで両親が他界して、そこから慌しく、七年間、この工場と、あと、郁を育てることに没頭してきた。だから、ないよ。相手なんて、そんな人は。
したことないんだ。恋愛を、ずっと、そんなものをする隙、なかったから。
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