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第1話
音がする。
静かで物悲しいと哭 く、旋律のように。
はかなく、寂しく、震える音がゆるやかだが確実に息の根を止めていた。
古びた几帳 と屏風 で仕切られた一角に、ソレよりもずっと真新しい畳が据えられ、新しい茵 と袿 に押し倒されたひとりの童は、灰白 の大きな狼に馬乗りにされ、着ていた直衣 を破り捨てられると、おのこであるのにも関わらず処女を奪われて犯されていた。
たっぷりと真っ直ぐな長い髪は茵に乱れ、使い込まれているお下がりの烏帽子 は真新しい畳の上に転がっている。
色白な肌に食い込んだ牙と爪が痛々しく、目を伏せたくなるほどだ。
蔀戸 はあまり光を通さないので、室内は灯籠 の光だけで薄ぼんやりと明るいだけだった。
フと、茵を囲う几帳が揺れ、陰からたおやかそうな風情の黒灰 の狼が現れた。
静かな足音を聞きつけ、灰白の狼が童に埋めていた顔をゆっくりと上げる。やがてその童の顔から血色がすっと消え、まったく動かなくなってしまった。
ソレを横目に茵の傍 らに腰を落とし、黒灰の狼が首を傾げる。
「何だ? また息絶えたのか?」
いっていることは冷酷なのに、穏やかで澄んだ声音は耳に心地よかった。
だが、その反対側の一角に置かれた古びた唐櫃 に、息を殺して身を隠している童 はまったく生きた心地がしていない。
悪夢をみている気分だ。抱き殺された童が他人であったならまだしも、彼は知人だ。ソレも、師範の嫡男で、兄弟子。兄者と呼べる親しい間柄なのだ。
ソレに、必ず迎えにくるといった赤褐 の狼は現れず、その代わりに現れた灰白の狼はもう残忍でおぞましいのだから。
物の怪だと兄弟子らに追い廻される姿をみただけなのに、従者らしき黒灰の狼にしつこいくらい追い廻されたのだ。
兄弟子に貰った呪符でなんとか、逃げ延びたのにこの有り様である。
その黒灰の狼も同じだが、まだひとに手をかけていない分恐ろしさは軽減されていた。
何度か瞬きをして低いが張りのある声をだす灰白の狼は、ゆっくりと上体を起こして童から離れた。
「普通の童だったのだろう。コレがもし、番 になる嫁ならばそう簡単にことは切れんからな」
「なるほど、今回もまたハズレだったということか………」
黒灰の狼は少々難しい顔をした。
狼人の第二の性であるアルファの子が産めるのは、ひとの子のオメガだけ。
そして、ひとの世で成人したオメガは発情期がきても発情をしない。
そう、第二の性は必要がないと判断すると開花せずに閉じられるからだ。
もしアルファの狼人同士で子ができるなら、こんな苦労もこの後味が悪いこともないハズである。
当の本人がその苦悩を一番よく知っているから、割が合わないのだろう。
黒灰の狼の金色の美しい水晶体が、明後日の方向へ動く。
さて、第二の性とは性別以外の性のことで、アルファ、ベータ、オメガという三つの種類に分けられる。
各々に大きな特徴があって、例えば、アルファは数は少ないが多芸多才の持ち主で器量もよいとされ、ベータは数は群を抜いて多いがどれに対しても斗量帚掃 で第三階級 扱いであるとか。
また、オメガは数が最も少ないが無芸大食であるとか、性交鬼畜だとか、羊頭狗肉 もよいところだとか、ま、いろいろだ。
灰白の狼が鼻腔から長い息を吐いた。
長い間があったのも関わらず、黒灰の狼の呟きに応じる。
「そうなるな。毎度、抱いてみないことには解らんというのもいささか面倒なことだ」
一番がっかりして当然な彼だが、黒灰の狼の意図を汲む。
「ま、発情期がくるまでは覚醒しないというのがひとの貞 らしいからな。お前も大変だな」
軽率にも当たるいい廻しに、灰白の狼が呆れる。
「おいおい、他人事だな」
怒ってないという態度を取れば、黒灰の狼は大輪の花のように優しく微笑む。
なんというか、茵で息絶えた童以外にももうひとり童がいたのだが、ソレをこの黒灰の狼が逃がしてしまったのだ。
直ぐに後を追ったのだが、途中で見失ったらしくこうしてのこのこと戻ってきたというところである。
微笑は、面目ないという彼なりの詫びの顕 れなのだろう。
そして、その童が目と鼻の先にいるということに、彼らはまだ気づいてはいなかった。
灰白の狼は袿の袖を噛んで、几帳の間をすり抜ける。冷え切った床板が四肢の肉球の体温を奪い、感覚が直ぐになくなってしまった。
長いたっぷりの毛があるのだから寒くないと思われがちだが、そうでもない。火桶 のそばが大好きな猫のように、できることならばずっとしがみついておきたいくらいなのだ。自慢の長い尻尾だって、油断をしていたら霜焼けになってしまうのだから。
咥えていた袿を器用に首を振って背の上に乗せ、無駄な体温が奪われないようにする。
「ヒョニ、俺は先に戻っておる。後始末は任せたぞ」
振り返ることもせず、灰白の狼はそういい捨てる。
妻戸 を少し開くと、凍えるような冷たい風が凛とした月光を伴って吹き込んできた。
天道よりも劣るが、正面の庭にある堀池の水面下を照らすには丁度よい灯火 だ。
その中央の小島にかかった渡り橋が白く輝いている。おそらく、製錬の白色金がふんだんに使われているのだろう。
紫帽子の魔女が通り過ぎるのを待ち、改めて室内を顧みる。
灰白の狼は黒灰の狼 の姿も茵に横たわっていた童の屍 もないことをしっかりと確認してから開いた妻戸を閉め、とたとたと覚束ない足取りで几帳に向かって歩き、屏風とその間をすり抜けてひとつも乱れていない茵に身を投げた。
「ああ、疲れた。何でひとの世はああ瘴気 が濃いんだろうな」
ぼそりと呟く灰白の狼は、ひとの世から無事に異界に戻ってきたようだ。
通過門は、時空門。彼の異能のひとつである時空渡りを使用したまで。
この異能は、ひとの世と異界を自由自在に往き来できるモノで、彼 がというよりも狼人の貴族なら全員が持っているという極一般的な特技 だ。
因みに、黒灰の狼 は第三階級 なので魔法石という高価な品物で往き来している。
「アイツはいいよな。瘴気に当てられることもないし………」
嫁探しもしなくともいいと、この異能を使って生涯の嫁である番を探しにひとの世にいくことに大いに不満を持っている灰白の狼は、茵の上に寝そべったままごろごろと右往左往する。
その間、三角の耳がピクピクと動く。漸く本来の聴覚が戻ってきたようだ。
毎回、ひとの瘴気にアテられ、能力が衰退する狼人というのも存外可笑しな話だと、灰白の狼は息を吐く。が、元々、狼人は瘴気に対して耐性がある。
そう、あの国の瘴気は別格なのだ。ひとことでいえば、尋常ではない。
つまるところ、類稀な才能の持ち主であるアルファだけに齎 す凛とした静寂の不愉快さと、そのアルファの精神だけを蝕るあのもったりとねとねとした喉の奥からぐわっと絡みついてくるような特異な粘着質さは悪質。もう異常としかいいようがない。
その原因は、あの国の特徴ともいえる風水というモノの所為だろう。
風水は魔方陣とよく似て、使い方をひとつ間違えるとおおごとになる。
要するに、あの国は風水の使い方を誤っておおごとになっているのだ。
恐らく、その基盤として使われている五神相応 というごてごてのガチガチの堅物頑固和郎は、あの国の造りに合っていて合っていないのだろう。
確かに中央に自然界の強者である黄竜 を構えているから、みるからに完璧な防壁で強行な護りである。
だが、群を抜いて集束する瘴気の抜け道を賄うことができない。普通は鬼門から内に溜まった瘴気を外に追いだすのが定石だが、ああも目詰まりした鬼門から瘴気を抜けさすのは流石に至難の業。
この状況下で有無をいわさず強引に瘴気を追い出すとなると、相当な動力と時間が必要になる。ま、あの国にそんな膨大な労力と暇があればの話だが。
茵の上で右往左往していた身体を一旦止め、灰白の狼は天井をみる。
あの国はせいぜいもって、二百年といったところだろうか。
ああ、歯痒いと再び右往左往と茵の上を転がりだす灰白の狼は、あの国を残すのには遷都 、若しくは奠都 するほか解決する手段はないと思っているようだ。
とはいえ、ひとの世に口出しするつもりは毛頭にない。が、ひとの世が瀕死になれば狼人社会にも影響がでてくる となりゃそりゃ愚痴のひとつやふたつもでるってモノである。
ソレに、向こうにいく度に物の怪に間違われて祓 われそうになったりするから、たまにはこういう胡散ばらしも必要になる。
ああだこうだと灰白の狼が小言を漏らしていると、その足元辺りから小さな物音がした。
ソレは、狼人の姿に戻ったときに着る衣が入った唐櫃からだ。直ぐさま起き上がってそっと摺 り足で近づくと、うっすらと蓋が浮き上がっている。
ホンの僅かだが、灰白の狼以外の気配も漂っていた。
間髪入れずに、蓋を持ち上げる。
「誰だ? ソコにいるのは、もう解っているんだぞ」
その間、強めの風が吹きつけてきて、妻戸を揺らす。
持ち上げた蓋を盾代わりにし、身構える灰白の狼は、驚いた目で室内の隅々をくまなく見渡した。
だが、室内のあちらこちらは先程と寸分たがわず同じで、塵 ひとつ落ちていない。
コレだけ物のない室内に、身を隠すことは困難なハズだ。
灰白の狼はしかつめらしい顔で、持ち上げていた蓋を戻した。
「気のせい? いや、そんなハズはない。ひとの世ならまだしもココは異界 なんだぞ」
自分の庭で空耳などあるワケがない。聴覚だって戻っているのだから。
なら、何処だ?と腕を組み、灰白の狼はちらと唐櫃に視線を戻した。
信じがたいがそうだとしか思えず、もう一度その蓋を持ち上げた。
すると、息の根が止まるのかと思うほど見開かれた双眸 が黒曜 の煌 めきを宿し、櫛 で解いたような美しい漆黒 の長い髪がひとつに纏 めて結 わえた童がいるではないか。
しかも、先刻、黒灰の狼 が逃がした童だ。草の根を踏みながら、中庭の方に向かって逃げていったのを彼と一緒にみたハズなのに。
だが、真っ青になった童の手に握り締められている呪符 をみて、灰白の狼は成るほどと納得した。
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