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1:貴方にだけは知られたくなかったのに

「悪い悪い、ついかけたくなっちまった」 下卑た笑いが降ってきて、千堂(せんどう)真稀(まさき)はゆるゆると目を開けた。 ようやくありつけた今夜の客は、人の顔を汚しておきながら、自分は軽く身支度を整え、事前に伝えた金額をぞんざいに押し付けてくる。 無気力に見下ろした札の上に、ポタッと男の生臭い体液が垂れた。 「ま、悪くなかったよ」と踵を返した男の後ろ姿に心の中で不満をぶつける。 飲ませてって、言ったのに。 理性が微かな声で止めたが、顔についた精液を拭って舐めた。 正気なら吐き気をもよおすような行為だが、…ただ、空腹だった。 「何見てんだ手前ェ…あ、もしかしてあいつのお得意さんかな?ハハッ…お先」 ぼんやりと立ち上がれずにいると、暗い路地裏から通りに出るあたりで今の客が誰かと話しているのが、聞こえてくる。 この場所に立つようになって数ヶ月、確かに再び足を運んでくる客もいるが、そういう客は大抵後ろも使わせてほしいと求めてくるから面倒だ。 この場を離れるか、 …ああだが、飲ませてもらえなかったこの身体は、まだ熱く精気を求めている。 普通の客だったらありがたいんだけど…とゆるゆると立ち上がりながら男の去った方向に顔を向けた真稀は、 ………そこに信じられないものをみた。 「……千堂君……?」 低く、いつもは落ち着いて耳触りのいい声が驚愕をにじませて自分を呼ぶ。 深夜の薄暗い路地裏だろうと真稀にはその人が誰だか確信できた。 今、この場所で最も会ってはいけなかった相手。 「…月瀬(つきせ)、さん」 それは自分の後見人である月瀬崇文(たかふみ)だった。 月瀬と初めて会ったのは、真稀が母親を亡くしてすぐのことだ。 その昔真稀の母に恩を受けたのだという。 その「恩」について彼は多くを語らなかったが、ソープ嬢をしていた母の客だったのだろうか。 生地も仕立ても良さそうなスリーピーススーツをかっちりと着こなし、後ろに撫でつけられた漆黒の髪と切れ長の瞳。 少し神経質そうにも見えてしまう硬質な雰囲気をまとった大人の男の人と、いつまでも子供みたいで出来の悪い姉のようだった母親とが一つも結びつかず首を傾げたが、何故か真稀自身も月瀬を知っているような気がして、突然の訪問を素直に受け入れた。 一瞬、父親という言葉が脳裏をよぎる。 後から聞いた年齢によれば、年はほとんど母と変わらないようなので、ありえない話ではなさそうだ。 あるいは、母を恩人だとかいうくらいの間柄だったのなら、もしかしたら真稀も小さい頃にでもその姿を見たことがあったのかもしれない。 身よりもなく、遺骨もなかったので仏壇も作らず、できれば引っ越したいと思っていたので荷物もほとんどないような真稀の部屋を訪れた月瀬は、母の遺品に手を合わせてから「君さえよければ」と少し緊張した面持ちで切り出した。 「恩人の息子である君を援助させてもらえないだろうか」 「援助……ですか?」 「彼女は天涯孤独の身の上だと聞いている。君は年の割には落ち着いて見えるが……社会的にみればまだ保護者を必要とする年齢だ。身の回りに里親や後見人になってくれそうな人はいるのか?」 もちろん何のあてもない。 だが、誰かの世話になるという選択肢は初めからなかった。 「すみません、お気持ちは有難いと思いますけど……」 母の死因、自分の出生、自分を取り巻く込み入った事情に善意の人を巻き込むわけにはいかない。 首を横に振った真稀だったが、何故か月瀬も譲らなかった。 粘り強く説得され、最終的には真稀が「それでこの人が納得するなら数年くらい……」と押し切られてしまう。 中学すらも卒業していなかった自分が一人きりで生きていくことには不安がある、というのもあったが、月瀬崇史という人間に好感や興味を持ったのも大きかっただろう。 学校に通い一人で生活していくには問題ないほどの蓄えはあったので、明かせない真稀の事情にできる限り巻き込まぬよう一人暮らしをさせてもらうことだけは約束して、月瀬は後見人になったのだった。 それから四年の歳月が流れ… たまに会って食事をしながら近況を報告したり、迷惑などかけることのないよう真面目に生活して、後見人と被後見人としていい関係を保てていたと思う。 そう、あと少し。 ……月瀬が後見人でなくなり、彼が真稀の事情に責任を負わなくて済むようになるまであと少しだったというのに。 「君は……どうして、」 微かに震える声で問われ、もうこの現状を誤魔化しようはなかった。 近付く靴音に、この暗い路地裏から逃げ出しそうになるが、そうしても何の解決にもならないことはわかっている。 「大学から君に病欠が多いと連絡を受けた」 「…………すみません」 病気。 確かにこれは悪性遺伝子病と呼んで差支えのない症状。 飢餓感に蝕まれ、講義に集中できないどころか他の生徒を襲ってしまいそうで、最近は大学に行けない日が増えていた。 結局月瀬に迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて、俯く。 「責めているわけではない。事情を聞かせて欲しい。…何故、こうなる前に相談してくれなかった」 責めていない、そう言いながらも覗き込んだ視線は非難を含んだ険しいものだ。 これが褒められた行為ではないことくらいきちんとわかっている。 だけど必要だから。 自分もやりたくてやっているわけでもないのにそんな視線を向けられて、酷く理不尽に感じ、同時に悲しくなった。 好きでこんな体質に生まれたわけではない。 「…………相談に乗って欲しいって言ったら、月瀬さんが俺の相手をしてくれるんですか?」 思わず、こぼれた皮肉。 「何を言っているんだ、私は」 冗談が聞きたいんじゃないと、咎めるような口調にぐっと唇を噛む。 「とにかく戻ってきちんと話をしよう」 「っ………」 腕を掴まれて、近くなった男の体温が唐突に頭を痺れさせた。 欲しい。 抗えない飢餓感。 駄目だ、と止める心の声を、生への渇望が、理性を凌駕した瞬間。 真稀は掴まれた手を振り払い、男を壁に押し付けた。 「っ真稀……!?」 「……欲しい……」 熱に浮かされたような声は、遠く。 獲物を縛り付け、発情を促す瞳が赤く光れば、月瀬の体温が上昇したのを感じ、そのまま跪き、前をくつろげる。 ――欲しい。 「ッ……………」 息をのむ音がやはり遠くで聞こえ。 まるで何日も何も食べていなかった人がごちそうにありついたかのような、歓喜。 奥までくわえ、音を立ててすすり上げて、早く欲しいと急き立てた。 卑猥な音と低く呻く声。 待ちわびた、体中を満たす、力。 「ンく………は……美味し……」 夢見心地で口の端からこぼれたものまで舐めとり、恍惚に目を細める。 そして。 「…………っ…………ぁ……………」 うっかり見上げた先の呆然とした表情の月瀬と目が合って、 ――真稀に唐突に正気が戻った。 「ごめん……なさい……」 他に、言えることは何もなくて。 「千……」 「ごめんなさい!」 その先を聞きたくないと、真稀はその場から逃げ出した。 消えてしまいたかった。 異形のこの業を、 ――貴方にだけは知られたくなかったのに。

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