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2:想うが故に交わらない

『君は生きて、幸せになって欲しい』 どうしてそんなことを言うのかと、涙が溢れる。 大切な人を犠牲にした世界に幸せなんてどこにもない。 貴方にこそ、生きて欲しいのだと。 優しい手を振り払い、 ――… *** 「和食はあまり口に合わなかっただろうか」 はっと顔を上げると、月瀬が気遣わしげな表情を浮かべてこちらを見ていた。 その後ろには春らしい桜の描かれた襖。 障子を通して優しい色合いになった日差しが、控えめに室内を彩っている。 ああそうだ、今日は後見人である月瀬に近況を聞かせて欲しいと食事に誘われて、何も考えずにラフな格好で出掛けたら、新宿の高層ビルの上階にある個室の和食のお店で、今は場違い感をひしひしと感じながらお造りをつついていたところだった。 月瀬は今日も黒地に銀のピンストライプの入ったスーツに、ターコイズのカフリンクスが良く映えて、どこからどう見てもエグゼクティブな人種だ。 せめて制服で来ればよかったと後悔しても後の祭り。 「ち、違います、美味しいです。ただ、きちんとしたコースのお料理は初めてで、ちょっと緊張してます」 フォローを入れながら、人と食事をしている最中にぼうっとしてしまうなんて、と己を戒めつつも、ちらっと自分が何を考えていたか反芻しようとしたが、結局忘れてしまっていた。 たまに夢に見る情景の残滓が、微かに残っている気もする。 「えっと…月瀬さんは、こういうところでよく食事をするんですか?」 「プライベートではあまり利用しないが、仕事で人と会うときなどには都合がいいからな」 「仕事……」 貰った名刺によれば国立自然対策研究所危機管理室室長という肩書きが書いてあった。 検索してもどんな施設なのか見つけることはできなかったが、室長というのだから立場のある人だ。 「具体的にはどういうお仕事を…?」 「非人為的な事象への研究成果を現実的に運用することを考えることが私の仕事だ」 「……………………ええと」 「人為的でない災害から民間人を守るための手段を研究し、それらを適切に運用できるように各方面と折衝を重ねること、と言い換えると少しはわかりやすいだろうか」 すみません。やっぱりよくわかりません。 からかわれているのだろうか。 「じ、自衛隊?」 災害から民間人、のくだりへの連想に、月瀬は「実を言うと元自衛官だ」と微かな自嘲を浮かべた。 そんな表情をするということは、自衛官だった頃に何かあったのだろうか。 初めて会ったときから気になっている、瞳の奥に過ぎる深い悔恨の色と、何か関係があるのだろうか。 「俺には難しいことはよくわからないですけど……自衛官も今のお仕事も誰かを守るためのお仕事ですよね。すごく素敵だと思います」 自分の事情を鑑みれば正職につくのは不可能に近いと思われる真稀には、そんな月瀬はとても眩しく映った。 真稀には、異形の血が流れている。 母は自分はサキュバスという淫魔なのではないかと言っていた。 なのではないか、という曖昧な表現は、幼い頃に親を亡くしているため本人も薄ぼんやりとしか理解していないせいだったようだ。 ヒトが食物から摂取するものを、精液から摂取しなくてはならない体質。 ソープ嬢をしているのは効率的な摂取のためでもあると語った母は、真稀を見て「あらでも真稀は男の子だったわね困ったわね」と結んだ。 困ったわねじゃないよ特に同性に対してそんな気持ちになったこともないしどうしたら。大丈夫よ世の中にはいろんな趣味の人がいるから。いや俺自身がそういう趣味じゃないって話なんだけど。空腹は何にも勝る調味料よ真稀。 そんな噛み合わない掛け合いをしながら。 異性が相手だろうと、子供がたった1人で生きることに苦労などいくらもあっただろうに、母はただ少女のように笑っていた。 この世界の異物として殺されても尚、母は何一つ恨まずに逝った。 だから真稀も人へ憎しみを抱かずに済んだが、同時に自分も同じように異物として始末されるのだろうと思うと、悲しかった。 人でない自分は、やはりこの世界に不要なものなのだろうか。 いつまで生きられるのかもよくわからないけれど、誰か一人でいい、自分のした事で幸福を与えることができたら。 きっと、真稀も母親と同じように笑って逝ける気がした。 少なくとも4年前の春には、そんな希望を抱いて生きていた、けれど。 *** 繁華街の路地裏を逃げ出し、どうやって安アパートの自分の部屋まで帰ってきたのかよく覚えていないが、真稀は鍵をかけて顔を洗って汚れた服も脱ぎ捨てて、スマホの電源を落として布団をかぶって全てを遮断した。 とんでもないことをしてしまった。 自分のせいではない、体質のせいだと醜く言い訳したがる心を押し留めながら、頭を抱える。 目をきつく閉じても逃れることのできない、あの時の彼の驚愕の表情。 「最低だ………」 むしろ月瀬の方がそう思っているだろうと知りつつも、呻かずにはいられなかった。 今まで、ギリギリだったとはいえ衝動に抗えなかったことは、なかったのに。 相手の体の自由を奪い、発情を促す異形の業を使ってまで、あんな……。 「(もし、月瀬さんだったから我慢できなかった………とかだったら俺は……………)」 はっきりと自覚はしていなかった。 だが、月瀬からの連絡を楽しみにしていたのは確かだ。 簡潔だが気遣いを感じる文面や、厳しそうな口元が微かに和らぐ瞬間を、他の誰にも感じたことがないくらいに好ましく思っていたことも。 「(どっちにしても普通に犯罪だよな………)」 真稀の事情は月瀬には関係ないのだ。 …いや、自ら保護者を買って出たのだから全く無関係ではないのかもしれないが、真稀が(たとえ信じてもらえなくとも)きちんと事情を話していたらそもそも後見人の話はなかったことになっていたかもしれないし、やはり彼は被害者だろう。 「(許してもらえなくても…やっぱり謝らないと…)」 軽蔑されただろうと思うと、身が竦む思いがするが、このまま布団をかぶっていれば時が解決する類のことでもないとちゃんと分かっている。 真稀はとりあえず身を起こして、深呼吸をしてからスマートフォンの電源を入れた。 幸い…というべきなのかはわからないが、他ならぬ月瀬のお陰でここしばらく真稀を苦しめていた飢餓感は消えている。 立ち上がった画面には、予想はしていたが月瀬からのメッセージが届いていた。 震える手でアプリを開くとやはり簡潔な文面が表示される。 『不躾に踏み込んでしまって気分を害しているかもしれないが、とにかく君と話をしたい。  話ができる状態になったら顔を出してくれ。  外で待っている。』 「………っ外!?」 この真冬の深夜に外で!?と慌てて立ち上がり、ほとんど反射的にドアを開けた。 「月瀬さんすみません…!」 夜の闇と錆びていて今にも折れてしまいそうな手すりをバックに立っていた彼に、とりあえず頭を下げる。 「俺…あの……さっきは……!」 頭を下げたまま言葉を探していると、 「………とりあえず中に入れてもらっていいだろうか。あと、君は何か着た方がいい」 困ったような声音を受けて見下ろした自分は肌色だった。 「…………え………?」 そういえば服を脱ぎ捨てたことを忘れていた。 どうりで寒いと思った。 ……………とか呑気に思ってる場合じゃない!罪を更に重ねてどうする俺………! 「す、すみません!」 適当な服を手早く身につけ、月瀬を招き入れる。 彼が部屋に上がるのを一瞬躊躇ったのは…たぶんまたあんなことをされないかと警戒してのことだとは思う。 絶対に何もしないと言うべきなのかとも思うけれど、これを機会に月瀬が後見人を辞退するというのならば、下手に潔白を主張するよりも都合がいいのではないかと思えて、ただ中へと促した。 空調を入れる余裕などなかったせいで室内は冷え切っていて、吐く息が白いほどだ。 室内だからだろう、月瀬が律儀にコートを脱いだので、慌てて空調を入れた。 座布団もない1Kの部屋で小さなローテーブルを挟んで座る。 月瀬は、怒っているというよりは考え込んでいる風で、真稀は何はともあれ謝罪を重ねた。 「さっきは本当に…不快な思いをさせてしまってすみませんでした。しかもこんな寒空の下でお待たせしてしまって…」 「相変わらず…娯楽のない部屋だな」 「え?」 真稀の謝罪に対しての返答ではなかったので、何のことだろうと聞き返してしまう。 …が、やはりそれにも説明はなかった。 怯む真稀の瞳を、深い、漆黒の瞳が覗き込む。 「先程のことは…君が望んでやっていたことか?」 「え…あ…の…」 「私にはそうは見えなかった。君はずっと年頃の若者らしい娯楽も求めず、真面目に倹しく生活していたようだし、ならば真面目な人間を演じすぎて抑圧された心がああいう気晴らしを求めるようになった?それもあまり当てはまらないように見える」 急に始まった分析に口をはさめず背中を嫌な汗が伝う。 頭がおかしいと思われても、真実を話すべきなのだろうか。 真稀が望んでやっていたことではない、と思ってくれていたのだという事実が、少しだけ背中を押す。 「あの…月瀬さん…」 「私は、君が本当に望むように生きて欲しいと思っている。君のお母さんもそれを望んでいるだろう。そのために力になれることがあるのならなんでも話して欲しい」 続いた言葉に、冷水をかけられたかのように頭が冷えた。 そうだ。 月瀬は別に真稀個人への厚意からここまで親身になってくれているわけではない。 母への恩があるから、こうして気にかけてくれているのだ。 どうして忘れていたのか。 月瀬は出会ってからほとんど母の話をしなかった。 だから勘違いしていたのかもしれない。 俯いて、膝の上の手を握りしめた。 次に顔を上げた時には、ちゃんと笑顔を作れたと思う。 「ありがとう、ございます」 きちんと、話さなくては。 「あんなことをした俺に、月瀬さんがきちんと事情を聞こうとしてくれたこと、すごくありがたいと思います。…でも、ごめんなさい。今はうまく話せる自信がないので、聞かないでいただけると助かります」 真稀が話をする気がないことが伝わったのだろう。 一つ息を吐いた月瀬は「わかった」と頷いた。 「今は聞かない。だからこそ、君の保護者として深夜に繁華街をうろつかないようにと注意させてもらう」 なかったことにして、後見人を続けてくれるらしい。 真稀の胸中では終わりにならなかったことに喜びと落胆が複雑に絡み合う。 「君にとって私が見知らぬ他人であることはよく承知している。…だが、本心から力になりたいと思っている人間がいることをどうか忘れないで欲しい」 そう言って立ち上がった月瀬を見送ることもできずに俯いていた。 そんなにも母から受けた恩は重いものなのだろうか。 もうこれ以上彼を巻き込みたくないと言う気持ちと、慕わしい気持ちとが混ざり合って、一人きりになった部屋の中、真稀はぎゅっと胸を押さえた。

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