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3:いけないと知りつつ、求めた
あれは二度目に食事に連れて行ってもらった時だったと思う。
夏の終わり。暑さが少し和らいで、昼よりも夜に鳴く虫が多くなってきた頃。
都内のホテルで四川料理を食べた後、月瀬の車の中でのこと。
月瀬は無駄なことは言わないが、口数の少ない人ではなかった。
言うべきことを言い、聞くべきことを聞く。
おかげで真稀も月瀬と会っている間気まずい思いをすることはなく、普段はできるだけ人と疎遠でいるようにしているので、母が亡くなって以来唯一対話を楽しめる相手でもあった。
「折角の休日に呼び出してしまってすまなかったな。今回は少し急な連絡になってしまったが、無理な調整をさせたりはしなかっただろうか」
「いえ、そんな…!いつも大した予定はないし、むしろお忙しいのに気にかけていただいてありがとうございます」
「…君は普段休日には何をして過ごしているんだ?」
大した予定ないし、のところを気遣われてしまったのだろうか。
「そう…ですね…。家事をして…勉強をして…日用品を買い足したり…?」
「………それは今時の男子高校生の一般的な過ごし方か?」
「ええと……」
たぶん違うだろう。
クラスメイトは放課後や休みの日にどこかに遊びに行く約束をしたりしていて、たまに真稀も誘われるが、行ったことはない。
誰かと一緒にいることは、素直に好きだと思う。学校でも全く孤立しているわけではないし、近所の人と立ち話をすることもある。
ただ、特定の人間と深く関わることは避けなければならない。
だから、休日は大人しく家にいることにしている。
「えっと、月瀬さんは学生の時、お休みの日にその頃流行っていた遊びとか、何かしていたんですか?」
あまり家にいる理由についてつっこまれても困るので逆に問い返すと、月瀬は虚を突かれたように固まった。
「……………………いや。……………………していないな…」
その、『相手につっこんだ手前物凄く考えたけど思い浮かばなかった』というような間が。
自分よりもずっと年上の人にそんな風に思うのも失礼かもしれないが、なんだかかわいくて。
「……そんなに笑わなくてもいいだろう」
憮然とした声に何とか笑いを収めつつ「すみません」と謝った。
「やっぱり、学生の本文は勉強、ですか?」
「まあ、そうだな。空いた時間は読書ばかりしていたと思う」
真面目そうな見た目を裏切らない青春時代だ。
「俺も…本は好きです。色々なことを知ることができるし」
娯楽としてというよりヒトであるために必要な情報源です、とは言えないけれど。
「…そうだな」
柔らかい同意をくれた、微かに口角を上げた横顔が優しくて。
真稀は何だか落ち着かなくなって視線を前に向けた。
ああ、既にこの時には。
特別な人になっていたのだろう。
***
週末の歓楽街。
夜だということを感じさせないほどの明るさと賑やかさだが、そこには人の持つ暗闇や欲望が渦巻く。
覗けば覗き返す闇が、そこかしこの路地裏の暗がりに広がっている。
「相変わらずすげー上手だね。よっぽど好きなんだな、コレが」
男は息を荒らげ、揶揄と共に跪いた真稀の髪を掴んだ。
「っぐ……」
無遠慮に喉奥まで押し込まれむせそうになっても、欲しいという飢餓感の方が勝り、体が自然にそれを受け入れてしまう。
今はとにかく欲しくて欲しくて、たまらなかった。
例え母のためだったにしても、気にかけてくれて、何よりこのことが公になれば困ることになるだろう月瀬には本当に申し訳ない気持ちはあるが、発作のようにやってきた飢餓感を、気力で紛らわせられたのはほんのわずかな時間だった。
飢えるまでの時間があからさまに短くなっていくことに恐怖感をおぼえながらも、少しでも本能に天秤が傾けば足は夜の街へ向かう。
より良い場所を探す余裕もなく前と同じ場所に立ってすぐに「よかった、また会えた」と寄ってきた男の顔を、真稀は覚えてはいなかったが、今はありがたかった。
口内のものが震え、喉奥に注ぎ込まれる白濁。
――それを美味に感じることを疎ましく思う心すらも今は遠かった。
「…ホント、良かったよ」
精気が体に吸収されるのをぼんやりと感じていた真稀の頭を、その男は馴れ馴れしく軽く叩いた。
少しだけ正気が戻ってきて「どうも」と小さく返す。
「ええと、じゃあ、お金を」
特に金は必要としていないのだが、初めての客に無料でいいと伝えたところ訝しがられたので取ることにしていた。
「そのことなんだけどさ、今、仲間も呼んだから、みんなで楽しまない?必要ならカネも払ってやるけど、カネなんかいらなくなるくらいいいもんあげてもいいよ、君になら」
それが、非合法な何かなんだろうと予想はできたしもちろん興味はない。
まして多人数に寄ってたかって輪姦されるなど御免こうむりたい以外の何物でもなかった。
何のために恋人……『特定の供給源』を作らずにいるのかといえば、食事として以上の行為をしたくないからだというのに。
「すみません、俺、今日はもう帰――」
必要なものはいただいた。金など貰わなくてもいいのだ。
真稀は踵を返そうとして、しかし強い力で腕を引かれ、そのまま壁際に強く押し付けられる。
「待てよ」
「っ…………」
至近の、エモノのカラダ。
鼓動が大きく音を立てて、収まったはずの飢餓感がまたぶり返して正気を霞ませた。
「はは、何その顔。帰るふりなんかしちゃって、ほんとは期待してるんだろ?あれだけ上手いんだから後ろも使えるよな。————楽しもうよ」
力が抜けて、これは本格的にまずいと理性が警鐘を鳴らすが、本能はただ飢えを癒すことを欲して呼吸が乱れる。
数人の足音。「へー、そいつ?」「わりとかわいいじゃん」「ま。たまには男もいいか」声が遠くに聞こえる。
アルコールの香りが、鼻をついた。
「んじゃ、行こっか」
「っや…………」
どこかに連れ込まれたら容易に逃げられないだろう。
抗おうとしたが、頭の片隅で「もういいんじゃないか」という声がする。
結末はともかく飢えだけは満たせるだろう。
ならばもう、それでいいのではないか、と――
「何をしている」
低い、声音が、真稀の正気をつなぎとめた。
「みりゃわかんだろ、声なんかかけるなよおっさん」「あ、もしかしてこの子のお得意さん?何なら混ざる?」
下品な笑い声が聞こえたかと思うと、
「ぎゃっ」
次いで、悲鳴。
「テメェ、何しやがっ…ぐっ……!」
どさ、どさ、とにぶく人の倒れる音が響いて。
黒い影が、力なく座り込む真稀の前に立った。
「月瀬、さん……」
呆然と呟けば、深い黒色と視線が交わった。
「大丈夫か?」
頷いたものの、衝動は去ってはいない。あまり大丈夫ではなかった。
「……強いんですね」
なんとかして飢餓感を紛らわせようと、現状に対する素直な感想を口にしてみる。
いともたやすく成人男性を四人も気絶させてしまったが、エリートという言葉の似合う月瀬からは荒事の得意そうな雰囲気はない。
「護身程度にな。民間人数人を鎮圧するくらいならなんとかなる。……どうした、立てないのか?」
「大丈夫、なので……ちょっと外してもらえると……。た、助けていただいてありがとうございました」
震える唇で何とか訴えたが、月瀬は表情を険しくして真稀を立たせようとする。
「この状況で君を置いて帰れるわけがないだろう。送っていく」
「お、俺、一人…で歩けます、から」
月瀬に何と言われようと、真稀にもこのまま帰るわけにはいかない事情がある。
それに今にもまた先日と同じ過ちを犯しそうなのをすんでのところで耐えているのだ。
自衛のためにも大人しく帰ってくれと叫びたかった。
半ば引きずられるように自宅まで戻ってきたが、正気でいられたのはそこまでだった。
扉が閉まるなり、玄関先で、求めた。
自分のことも相手のことも何も考えられない。
ただ目の前の陽物にむしゃぶりつき、飢えを満たしたくて。
注がれた瞬間、そっと頭を撫でられたように思って、胸がぎゅっとなって、力が抜けて意識を失った。
翌日、事情はどうあれひとまず飢餓感は治まったので登校した。
早朝ベッドの上で目覚めた時には月瀬の姿はなく、ローテーブルの上に書き置きがあって、曰く『ゆっくり休むように』………。
几帳面に並ぶ文字を何度も辿ってから、真稀は頭を抱えた。
前回は売り言葉に買い言葉だったとか、なんとなく理由付けができたような気もするが、二回目ともなるとどういうことかと普通は考えるだろう。
真稀が話せないと言ったから聞かないでいてくれている?
そこでふと、母の体質について知っていた、という可能性があることに思い至った。
そうするといろいろ辻褄は合う。
…父親である可能性も俄然高まるのだが。
実父であった場合、より一層色々とまずい気がする。
後見人にまでなっているのに、父親であることを明かさないのはつまり、明かしてはまずい事情があるからだ。
「(迷惑だけはかけたくない…どうしたらいい?)」
悩みながらキャンパス内を歩いていると、この後同じ講義を取っている知り合いが声をかけてきた。
「千堂、もう体調大丈夫なのか?」
「うん、なんとか」
心配かけてごめん、と笑って見せたが、相手は安心しなかったようだ。
「あんまり顔色良くないけど…」
彼は真稀の顔を覗き込むと、言葉を切った。
「お前さ……」
「何…?」
「ちょっといいか?」
唐突に腕を掴まれて生徒の行き交う廊下を横切る。
「あの、もうすぐ講義始まるけど、どこに…?」
「…………」
応えない相手に何か嫌な感じがして、止まってもらおうとしたが強い力で引きずられる。
連れてこられたのは使用されていない教室だった。
鍵をかけると真稀を床に引き倒し、のしかかってくる。
「何、を…」
「俺にこうされたくて出てきたんだろ?大人しくしてろよ」
「そ、そんなわけ…!」
見上げた先の真稀を見る欲望に濁った瞳は明らかに正気ではなかった。
ぞっとした。
さほど親しくもなかった相手を豹変させてしまう己の業の深さに。
なんとかして振り払うと、真稀は大学を逃げ出した。
恐い。
通い慣れた学校も、誰もが見知らぬ人に見えて恐ろしかった。
アパートの部屋へと戻ってきた真稀は、いつかのように布団をかぶって全てを遮断した。
もう何も考えたくなかった。自分の体のことも、これからのことも。
絶望しかけた心に、力になりたいと言ってくれた月瀬の言葉が浮かんでくる。
彼は、こんな自分でも訳がわからない事態に、一体どんな風に力になってくれるというのだろうか。
安定した供給源になってくれる?あるいはセックス依存症とかで心療内科にでも連れて行ってくれる?
そんな社会的リスクを負わせたくはないし、精神科も外科も医療が役に立つとも思えない。
できることなどあるはずもないのに。
真稀は丸まって目を閉じて心を閉ざした。
…このまま、存在ごと消えてしまえればいいのに。
***
遠い、異世界で。
自分の育った村の人たちに『魔王』と呼ばれていたその人は、深い闇の色をしていた。
目がほとんど見えないので、顔立ちはわからない。
落ち着いた低い声と、時折不器用にそっと頭を撫でる手が心地よかった。
『私はただの管理者だから、君の目や体の傷を治してやることができないのが悔やまれるな』
この世界の人たちを助けるために人柱になるんだから別にこのままでも何の問題もないと告げると、彼に悲しみの色が広がった。
どうしてこのひとは、こんな自分を犠牲にすることを惜しんでくれるのだろうか?
よくわからないが、きっと、とても優しいのだろう。
最期にこんな優しさを向けてもらえるなんて、そして誰かのために役に立つことができるなんて。
自分はなんて幸せなんだろうと思った。
失わせることもわからずに、最初のうちは笑っていられた。
彼が、
『君のような人こそ生きるべきだ。私の力をすべて開放すれば、この世界を……そう、君が生きている間くらいは生き永らえさせられるだろう』
……そんな風に、言い出すまでは。
***
「………………」
暗い部屋の中で覚醒して、自分が眠っていたことに気づいた。
いつもの、夢。
小さい頃から何度も見る悲しい結末のファンタジー。
何かに影響されたのか、幼少期にその類のものを熱心に読んだ覚えはないが、リアルな五感を伴ってそれなりの頻度でやってくる。
夢の中の自分は、視覚と聴覚は幼い頃から受け続けた虐待でかなり弱まっているけれども、温度や物質の核の持つ色を感じ取ることができるので生活に不便はしていないという、夢の中でくらい普通の人間でいさせてくれてもいいのに、やはりヒトとは違う存在だった。
内容はいつも同じなのだが、何故か今回だけはラストの情景が違ったなとふと反芻する。
曇りガラスのような視界が一瞬クリアになり、手を伸ばす漆黒の『魔王』は、月瀬の顔をしていた。
馬鹿な、と思う。ただの夢だ。
彼に出会う前から見ている夢だし、自分に優しくしてくれる人のイメージをただ重ねているだけだろう。
ああ、だけど夢の中の自分には、確かな存在理由があった。
一般的な幸せとは程遠いかもしれないが、今の自分からすれば羨望を感じてやまない。
自分をことさらに不幸だと思ったことはない。
けれど今はただ苦しかった。
精気を求めるヒトとは違う体が。ヒトと同じようにただ生きて行くということすらもままならない己が。
全ての事実が、真稀という異形の存在を否定しているように思えて。
八方塞がりなこの状況に追い詰められて、孤独で、苦しくてたまらなかった。
「月瀬、さん」
夢の中で優しくしてくれたひとと、力になりたいと言ってくれた月瀬がだぶる。
名前を口に出したら、泣きたいような、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなって、
――真稀は衝動的に床に投げ出された鞄からこぼれ落ちているスマートフォンに手を伸ばした。
今、俺の部屋に来られませんか?
衝動的に打った文字がトーク画面に表示されたと同時に、横に表記された今の時間が目に入り、ギョッとした。
午前二時。
自分は一体どれほど眠っていたのか。
完全に頭が冷えて、取り返しのつかないことをしてしまったと慌てたが、削除の仕方がわからず、パニックになっている間に既読がついてしまった。
とりあえず『すみません、寝ボケました』というフォローを入れてみたが、それはいつまでたっても未読のままだ。
戯言だ、非常識な奴だと、怒って再び寝てくれたならそれでいい。
電話を入れて何でもないことを更に説明するべきか、寝ていた場合それこそ迷惑ではないかと散々おろおろして、いくらなんでもここに来るまではしないだろう、もしも来るとしたら一言入れるタイプの人だと結論付けて、ひとまず落ち着くことにした。
シャワーでも浴びて、明日からどうするかを考えていかなくては。
そしてまず朝になったらもう一度月瀬に謝罪をしようと。
そんな風に少し持ち直した真稀がようやく身を起こしたところで、外の階段を足早に上る音がしてビクッとした。
このアパートでこんな時間に出入りするのはせいぜい自分くらいなのに。
一瞬母の死が頭をよぎったが、違うと頭を振った。
「千堂君、いるのか?」
月瀬だ。
深夜だということを慮ってか潜められた問いかけに、驚きで一瞬こたえられずにいると、「開けるぞ」とドアが開いた。
真っ暗な部屋に明かりが灯る。
「…月瀬さん」
明るさに目を細めたが、現れたのは確かに月瀬だった。
こんな夜中に、どうして。
「…どうして、」
「ああ、勝手に入ってすまない。…鍵が刺さりっぱなしになっていたからな。何かあったのかと思って入らせてはもらったが…不用心だから気を付けた方がいい」
何でもないようにテーブルに置かれる鍵。
どうして、
「どうして、来ちゃったんですか……」
「…どうして?呼んだのは君だろう。…それとも何か、君は何者かの人質になっていて、後見人である私を呼び出すように言われただけだったとか?」
冗談のつもりだろうか。今この状況で、全然笑えない。
少しシワになったワイシャツにネクタイもしていない、髪もセットしていなくて明らかに休んでいたところを急いでここまで来た体だ。
その冗談面白くないです、と言おうとして、唇が震えた。
「っ…………」
咄嗟に噛みしめたが、こぼれるものはとまらない。
ただ、苦しくて。
それをどうにもできなくて衝動的にすがるような真似をしたけど、信じてなんかいなかった。
力になるなんて口先だけだろうと。
そう、思っていたのに。
「つきせさ……」
情けない顔をしてるだろう、ひくっとしゃくりあげると月瀬は表情を和らげた。
「…ようやく、君の方から連絡をくれたな」
「ごめ…なさい、俺……っこんな、時間に…っ、迷惑ばっかり…っ」
泣き出してしまった真稀の頭を、そっと、遠慮がちに撫でる手があたたかい。
涙でにじんだ視界は、夢の中の世界に似ていた。
もしもこれが彼からしたら母への恩だったとしても、それでもこんな深夜に、あんな一言で駆けつけてくれる人にこれ以上隠し事をしたくない。
既に知っているか、あるいは頭がおかしいと思われるかもしれない。
それだとしても、今の自分の状態を話しておきたいと思った。
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