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4:それはとても好きな音だった
中3の冬――…
真稀が学校から帰るとアパートの部屋の鍵が空いていた。
…母は必ず鍵を閉めるのに。
嫌な予感がして中に入る、と物が倒れ、散らばっており、母が倒れているのが見える。
「母さん……………!」
慌てて駆け寄り抱き起こすが、その体はすでに冷たかった。
「そんな……」
あまりに突然のことで、一瞬どうしていいかわからずにいると、母の体はぼんやりとした光を放ち始める。
『真稀』
「母…さん…?」
脳に響くような声に周囲を見回しても、ここには自分と母以外の何者も存在しない。
では、この既に生の気配を感じられない母の体から?
『ごめんね真稀、私うっかり殺されちゃったの』
「……うっかり?」
シチュエーションにそぐわないあっけらかんとした口調にがくっと力が抜けた。
『人ではない存在を狩るハンターだかなんだかにね。起きてたらもう少しなんとかなったかもしれないんだけど、寝ボケてたから。あなたが成人するまでは…と思ってたんだけど、まあそう都合良くはいかないのが人生よね。私を殺した男は、母を殺した男に似ていたわ。きっと血縁よ』
「いやあの待って、寝ボケ……って、ハンター?初めて聞いたけどお祖母ちゃんは殺されてたの?なんかもう全然話が見えないんだけど⁉︎」
人の話を聞かない母とは、いつも噛み合わない。
よくこんな調子で客相手の水商売をずっとやってきたものだ。
『真稀のことには気づかなかったはずだけど、念の為に引っ越しはしたほうがいいわ。お店の方には私は死んじゃったって連絡して、それまでのお給料早く振り込んでもらいなさいね。私達人ならざる者は、正体を隠して生きていくしかないけれど、真稀は上手くやるのよ』
腕の中の母の姿が薄れていく。
肉体はすでに消滅していたのだと知った。
「ちょっと待って、急すぎるよ、なんかもう少し…」
『私はずっと私のしたいように生きたわ。だから貴方も、貴方の生きたい道を行きなさい』
「………母さ………っ」
最期に、微笑んだ顔が見えた気がした。
腕の中にはもう何もない。
人ではなかったから…遺体すら、残らなかった。
残ったのは、荒れ果てた部屋と、真稀だけ。
あまりにも――そう、あまりにも母らしくて、涙は出なかった。
悲しみもヒトを恨む気持ちも、ともすれば育ってしまいそうではあったが、元々淡白な母子関係だったことと、何より誇らしく逝った母の死を汚したくはなかった。
彼女は自分で言った通り、自分のしたいように生きたのだと思う。
真稀が一人で生きていくために、母がいなくて困ることはほぼなかったと言っていい。
家事能力の欠如していた母に代わって家の事は全て真稀がやっていたし、難しい字や文章は読めないというから学校関連の書類も小さい頃から自分で処理していた。
金銭面にも心配はなく、真稀は年齢と保証人にできるような人がいないこと以外は何も不安ではなかった。
高校には入学できるのだろうか。
それだけは少し気がかりだ。
母は自分が行けなかったからと、真稀には高校に行って欲しいと常々言っていたから。
『運動部の先輩と秘密の特訓とか、先生と放課後の個人授業とか、突如告白してきた幼馴染に教室で押し倒されるとか、そういう青春を過ごしておかないと!』
…と。
それは青春というよりアダルトな何かのような気がしなくもなかったが、特に困窮はしていなかったため通うことを前提で学校とは話をしている。
ふと、父親のことが頭をよぎったが、いくら能天気な母でも、相手が頼れるような状況にあれば間際にそのことを真稀に伝えただろう。
「片付け…しようかな」
現実的なことがまず先だと、真稀はゆるゆる立ち上がった。
この頃はまだほとんどヒトと同じ食事をして生きていられたから、身体のことはそれほど懸念事項に含まれていなかった。
衝動は気力で抑えられるものだと、甘く考えていた。
月瀬がやってきて、後見人になってくれることになった時も、成人するまでなら隠し通せるだろうとたかを括っていたのだ。
こんな風に巻き込んでしまうなんて、夢にも思わずに。
***
母が亡くなってほぼ丸四年後の深夜、否、もはや早朝に近い時間。
真稀は落ち着くと、母の死因、自分を淫魔だと言っていたこと、真稀も同じ体質であること、だから人間の精液が必要で夜の街に立っていること、全てを話した。
こんな突拍子もない話を月瀬は最後まで黙って聞いてくれた。
あまり驚いた様子がないのは気を遣われているのか、それとも知っていたからなのか。
月瀬と母との関係について気にはなるものの、今はそのことを訊ねるほどの心の余裕がなかった。
「君の話はよくわかった。覚悟がいっただろうによく話してくれたな」
そこで一旦言葉を切った月瀬は…きっと言葉を探してくれているのだろう、真稀は沈黙が怖くなって「ずっと黙っていてすみませんでした」と頭を下げた。
「後見人を辞退していただいても構わない」と、言葉を重ねようとしたところへ。
「…つまり『それ以上の関係を求めない安定した供給源』がいれば当座の君の悩みは解消するということだな?」
……………………はい?
月瀬からの予想外の質問、いや音こそ疑問形ではあったものの結論だろうか、とにかく想像だにしていなかった言葉に、真稀はぽかんと固まった。
『実は知っていた』とか、『これ以上関わりたくない』とか、『理解はしたがとりあえず病院行け』とか、そんな事実や忠告はいくらでも予想していたが、この、普通の人からしたら異常な話を受け入れた上でのポジティブな対処が返ってくるなどと、誰が思うだろう。
一瞬何を言われたのかわからずに首を傾げ、……たしかに、要約するとそうなる…のだろうか?と納得しかけて、いやいやおかしいだろうと打ち払う。
「ならば私にも役に立てることが」
「いや待っ…何を言おうとしてるんですか!」
真稀の混乱を気にもとめず更に大変な結論に至ろうとしているのを慌てて止めた。
「…………?…………私は何か変なことを言っているか?」
言っていますものすごく言っています。
安アパートのラグもないフローリングに姿勢も良く座る男は、自分が何を言っているかわかって言っているのだろうか。
確かに真稀も「安定した供給源にでもなってくれるのだろうか」と思ったりはした。
だが、それはあくまで自棄的な思考の産物であり、実現して欲しいと思ったわけでは断じて無い。
「その、今の話で俺が言いたかったのは、俺と関わることは月瀬さんにとってリスキーだっていうことで…」
「自分の決断の責任くらいは自分で取れるつもりだが」
「そ、そういう問題じゃ、なくて…」
「…無論、選択権は君にあるので、私を信用できなければそれでも構わない」
真稀があまりにも食い下がるからだろうか、ややトーンを下げてそんなことを言い出す。
「っそ、そんな言い方はずるいです…!」
「ずるい?何がだ?」
「そんな、だって…」
差し出された手を取らないことは遠慮ではなく拒絶だと言われてしまったら、安易に手を引いて欲しいと言えなくなってしまうだろう。
わからない。何故この人がこんなことを言い出すのか。
望むまいとする心を、どうして根こそぎ折ってしまおうとするのか。
後見人に、と申し出てくれた時は、押し切られてしまったが、今度ばかりはただ流されるわけにはいかないのだ。
「…母は、妖魔を狩るハンターとかいう人間に殺されたんですよ…?俺だっていつ狙われるかわからないし、母への恩だというのなら、母は自分のしたことに見返りを求める人ではなかったし、俺も法的に成人には満たないとはいえ、もう一人で生きていけないほど子供でもない…もう十分なはずです」
義務ならばもう十分果たしてもらっている。
「…俺は、貴方を、社会的にも身体的にも危険にさらしたくなんかない…」
項垂れると、近づく気配がして、頭を撫でられた。
「…君は優しいな」
あたたかい声音に胸がぎゅっとなる。
…優しくなんかない。ただ、怖いだけだ。
普通の人間ではない真稀が月瀬の重荷になることが。
ただ彼の身を案じるわけではない、保身からこんなことを言っている醜い自分に気づかれてしまうことも。
力なく首を横に振った真稀に、月瀬は言葉を重ねた。
「君の力になりたいと思うことに、彼女は関係ない。君と過ごした時間の中で、君自身に好感を持ったから思うことだ」
そんなことを言われたらまた涙が出そうだからやめて欲しい。
「そ、そんなこと言ってるとまた俺に襲われますよ」
「私がそのことに対して拒絶や不満を口にしたことがあったか?」
「それは………」
まぜっ返したのに、また返ってくるのは真摯な言葉だ。
そう、一度もない。
いくらヒトと違う真稀にだって、こんなことを普通は受け入れたりしないということくらいわかる。
好感を持ったと言った…つまり真稀自身に好意があるということ?
それはものすごく安易なハッピーエンドかもしれないが、月瀬は『それ以上を求めない安定した供給源』だとも言った。
言外に心は求めていないのだと言っているも同じだ。
どうしてと、訊きたかった。
だけど、とずるい心が囁く。
どのみち供給源になってくれると言っているのだから、厚意であると突きつけられるよりも、好意かもしれないと思っていられる方が幸せなのではないか、と。
大切な人を『ただの供給源』なんかにしたくはないけれど。
もうこれ以上、…月瀬自身を拒否するということが演技でもできない以上、彼を思いとどまらせる理由を考えつきそうもない。
「…後悔、しますから」
そんな日は来ないで欲しい気持ちと裏腹の捨て台詞が、降参の合図だった。
震える手を彼のベルトにかける。
なんてことをしてるんだという心と、月瀬が招いた事態だと開き直る心と。
『試してみればいい』
と月瀬は挑発した。
自分が真稀にとって『安定した供給源』たり得るか試せと、そう言うのだ。
好意のある人に、そんなことをしたくはない。
だけど、好意があるからこそ、どんな口実でも触れたい。
相反する感情に、心はずっと混乱を続けていた。
それでも座る月瀬の足の間に蹲るように膝をつき、前をくつろげて取り出したものに口をつければ、本能が勝って。
「ん………っ」
当初反応していなかったそれも、丁寧に舌を這わすことで育っていく。
今は、これまでのように相手の発情を促す力を使っていない。
羞恥を殺しきれずに鼓動がうるさいが、純粋に真稀のしたことで感じてくれているのかと思うと嬉しかった。
先端を口内に導きちゅくっと吸い付けば、先走りの味がして頭が痺れる感覚がある。
欲しい、と、思う心は思慕か飢餓感か。
急き立てられるように深くくわえて、喉奥で扱くと月瀬の呼吸が乱れたのがわかってぞくぞくした。
はっきりと愛しさを自覚しそうになるのを戒めて、主導権を本能へと譲ってしまう。
…試しているのは、真稀の心ではないのだから。
「…………っ」
卑猥な音を立てて何度も扱き立てると、にわかに苦しげな息をした月瀬のものが、口の中で震える。
空腹を満たされると唐突に眠気が襲ってきて、どれだけ本能に支配されているのかと頭の片隅で冷静な自分が嗤うが、何故か抗い難く、目を閉じた。
願望が聞かせた幻聴だろうか。
意識が落ちる寸前、ご褒美のように優しく頭を撫でた月瀬が、
「まさき」
綺麗な音で、名前を。
***
――呼ばれて、振り返ると。
かつん、と鳴った自分の足音が、慣れなくて少し驚く。
それは『魔王』の住むところにやってきてすぐのこと。
名前を聞かれたので、昔母親にそう呼ばれていたことを思い出して伝えると、彼はもうずっと呼ばれていなかったその名を呼んでくれるようになった。
マサキ、と。
低く落ち着いた声で呼ばれることはとても気持ちがいいのだと知る。
聴覚は視覚ほど悪くなっていなくてよかったと、そう思いながら声の主の元へ歩いた。
「服は大丈夫そうだが、靴が合わないなどということはないか?」
「はい……不思議な感じがしますけど、大丈夫です」
名前を呼んでくれただけではなく、『魔王』は風呂や着替えを用意してくれた。
お湯で体を洗ったのは初めてだったし、きちんとした服を着たのも、靴を履いたのも初めてで、とても不思議な思いで真新しい布地をさわってみる。
自分は村の人達に『魔王』の『贄』になれと言われてここに来たはずなのに。
綺麗に装う事が、『贄』になるには必要なんだろうか。
彼はまだその時ではないという。
早く村の人達の力になりたいのに。
その時、というのはいつですか?と訊ねると、彼は逆に問いかけてきた。
「君は、自分に暴力を振るい続けた人間達が憎くはないのか」
…と。
憎い?そんな風に考えたことはなかった。
暴力に付随する怪我や痛みも、自分は『魔女の子供』だからヒトよりずっと治りが早いから怖くはない。視覚も他の感覚で補うことができるから、そもそもいらないものだったのではないかと思っている。
「普通の人はそういう風に思うんですか…?だから、おれに暴力を振るった人達は、おれの反応が思ったようなものじゃなかったから悲しい気持ちになっていたんですか?」
憎い、と言うのなら周りの人をそんな気持ちにさせてしまう自分こそ憎まれるべきだ。
「君は………………」
素直な気持ちを話せば、彼は悲しみの中に困惑を混ぜて絶句した。
やはり、自分は村の人達がいってた通り、『災厄』なのだろう。
その時、というのが来てくれれば、きっとみんな安心して暮らせるようになるのに。
母親以外に初めて名前を呼んでくれた、この優しい『魔王』も。
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