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11:青空の下で笑う貴方と

寝室のドアをくぐり、先程別れを告げたばかりのベッドに再び横になるように促されて、素直に従う。 その傍らに座り上から愛しげに見つめられると、望んだこととはいえ恥ずかしくなってつい目を逸らした。 逃がした視線の先には、サイドテーブルに積まれた本がある。 「本…たくさんありますよね」 壁一面の本棚という、寝室というよりも書斎のような部屋だが、掃除のために入った書斎らしき部屋は更に上で、書庫のようになっていた。 しかも専門書から文芸書にノンフィクション、ライトノベルに参考書、図鑑から児童書まで、本屋のような品揃えだ。 それらは一冊として粗雑に扱われているものはないように見えて、月瀬らしくてあたたかい気持ちになる。 気をそらした真稀に、月瀬は性急に行為の続きを求めるではなく、言葉の先を促すように頭を撫でてくれる。 心地よさに目を細めながらそれに甘えた。 「おすすめとかあったら教えて欲しいです」 「それは、君がどんな本が好きかによってだいぶ変わってくるな」 「俺が好きそう…とかではなく、月瀬さんの好きな本が知りたいかな…」 「私の?」 「はい。本だけじゃなくて、服とか、食べ物とか、何でもいいんですけど」 言い終わる前にふっと影が差して体温が近づいたかと思うと、こめかみにキスが落ちる。 離れていくのが寂しく思えて、反射的に見上げた月瀬は、慈しむように真稀を見ていた。 「こうして、ともに過ごす時間が増えれば、きっといくらでも知る機会があるだろう。私も、もっと君を知りたいと思っている」 そんな真稀を喜ばせるようなことを囁いた唇は、寂しいと思った気持ちを汲んだかのように、再び降りてきた。 頰を、そして唇を啄まれて、欲しいと思う気持ちが恥ずかしさに勝り、自ら口を開いて求める。 「……ん……っ、」 おずおずと首に腕を回すと、ぐっと腰を抱かれて密着する体に鼓動が跳ね上がった。 口腔内を舌に探られ、流し込まれる唾液を飲み込むと、媚薬でも飲まされたかのように体が熱くなり、それだけで中心が兆してきてしまう。 「つ、月瀬さん…、あの、俺…」 不意に脳裏を掠めた懸念に、息を乱しながら情けなく彼を呼んだ。 「い、いまは、おなかいっぱいで……っ」 「…そんな気分には、ならないか」 月瀬が体を離す気配がして、慌ててシャツを掴んで引き留める。 「違…っ、お、俺…その、空腹じゃないときでも、してもらっていいんですか…?」 真稀の体のためと思わなくても、触れたいと思ってくれるのだろうか。 「私は、君が空腹な時以外は君に触れてはいけないのか?」 困ったような顔で逆に問い返されて、首がもげそうなほど横に振った。 「お、俺は…っいつでも、月瀬さんがしたいと思ったこと、…して、欲しいです…」 彼にされて嫌なことなんか、きっと一つもないだろう。 「真稀」 静かな声が、そっと名前を呼んだ。 今まで誰からもこんなに丁寧な音で呼ばれたことはない。 至近の真摯な双眸には、頼りない顔をした自分が映っている。 慈しむ仕草で乱れた髪を撫でられて、わけもなく泣きそうになりながら言葉の続きを待った。 「私のことを知りたいというのならば、まず、私も君のことを欲しいと思っていることを、覚えておいて欲しい。遠慮などされるよりも君の感じたことを素直に口にしてくれたほうが嬉しいことも」 低く、優しく紡がれた気持ちに、胸がぎゅっとなった。 すぐに躓く真稀の手を、月瀬はいつも優しく引いてくれる。 嬉しくて、懸命に頷いた。 「す、すぐには難しいかもしれないけど…頑張ります」 最後まで言わせてもらえず、深く、唇が重なる。 「ん…っ、ん、ぅんっ…」 恥ずかしいと思いながらも、声が漏れるくらい夢中になってしまう。 重なる体温。 触れ合っている箇所が、熱くて、頭が痺れて、いろいろなことをまともに考えられなくなる。 ぼーっとなったところで、服を脱がされた。 月瀬さんも、と、彼のワイシャツに手を伸ばしたが、上手くボタンを外せない。 その震える手をそっとどけて、自らのボタンも外していく姿に見とれていると、全裸になった月瀬が苦笑した。 「そんなに見つめられると、少し緊張するな」 「俺は、いっぱい緊張してます」 ボタンを外すこともできないくらい。 羞恥だけでなく、不相応なのではないかと、逃げ出したいような気持ちもまだ、ある。 「でも…もっと、触って欲しい…です」 月瀬は、真稀の願いを叶えてくれた。 首筋から鎖骨をたどる唇。 熱い掌が胸を撫でると、微かに引っかかった小さな突起をキュッと摘む。 「っ……ぁ、う、や……!」 びりっと痛みと快感の間のような感覚が体を走って、息を乱して体を捩った。 片方を指で、片方を唇で弄られて、直接性器に触れられるのとは違う、もどかしいような刺激なのに中心から先走りが漏れるのを感じた。 気持ちがいい。だけど、もっと直接的な刺激が欲しい。でも触られたらすぐに終わってしまいそうでもう少しこの切ない甘さに浸っていたいような気もするし。などとまとまらない思考で葛藤していると。 「………っ、あっ?」 彼の手が胸から腹に滑ったとき、なんだかくすぐったいような、たまらない感じがしてびく、と体が跳ねた。 困惑のうちに、反応が大きかったからだろう、それは更に与えられる。 「ふぁ…!つきせ、さ…っ、それ、あ、ぁ…へ、ヘン…」 腹を撫でられているだけで身体中熱くて、思わず彼の手を掴む。 「どうした。気持ちよくは、ないか?」 息を乱し、頬を紅潮させ、中心は弾けそうなほど昂っていて、月瀬からしたら快楽に溺れているように見えるのだろうというのはぼんやりとわかるが、それとは少し違った。 「あ…っあの…そこ、もらった精気が溜まるところで…っ、触ると、むずむずして…っ、ほしい、みたいな…感じが…っ」 必死の訴えを聞いて、月瀬は「ほう」と興味深そうな顔になる。 「確かに、丹田は『氣』の集まる場所だとされているな」 するりと撫でられて、ひくっと息を詰めた。 「ほんともう、そこ、だめ、です…って、あ、や…っあ」 過敏な反応が楽しいのだろうか。強弱をつけてしつこく撫でられて、泣き声をあげて首を振った。 体の奥が、欲しい、と声をあげる。 性欲と食欲の境界があいまいになって、身体中を満たすご馳走のことで頭がいっぱいになって。 微かに残る理性は、もっと普通に行為を楽しみたいのに、と小さく抵抗したが、圧倒的な本能の前に勝てる術などない。 「月瀬、さん…っ欲し、い…っ」 欲望に押されるまま、口を開く。 下手をすれば、虜にするような能力を使ってしまいそうで、必死に耐えた。 「満腹なのではなかったか?」とからかわれても、もう言葉遊びをするだけの余裕はない。 泣き出してしまいながら、必死で懇願する。 「おねが…、つきせさんの、いっぱい、ほしい…っ」 言い終わるか終わらないかのうちに、やや性急に体がひっくり返された。 後ろをぐいっと開かれて、確認するように、指が内部を探る。 濡らしてもいないのにスムーズに飲み込まれていくが、それは本当に欲しいものではなくて。 「…これなら、そのまま挿れても大丈夫そうだな…。もしも、あまり辛いようなら言ってくれ」 何でもいいから早く欲しくて、ガクガクうなずいた。 腰を抱えられて、ぐっと熱塊を押し込まれて。 「あ……ぁ…っあ……っ」 灼熱が、奥まで到達する。 待ち焦がれていたと言わんばかりに、貪欲にキュッと食い締めてしまった。 背後で息を呑む気配がしたのもわからないくらい、とにかく欲しくて、どうしようもなくなっていて。 だから、月瀬がらしくなく激しく抽挿を始めても、ただ、悦びの声が漏れるばかりだった。 「あ……!あ!いい……きもち、い…!」 気持ちいいけれど、欲しいのはその先の。 灼き切れそうな熱が、身体中を駆け巡る。 それを散らそうとシーツをたぐり身を捩ると、「そろそろ出すぞ」と月瀬の掠れた声が聞こえた、ような気がした。 「はやく」とか言ったような気もするが、何を言っているのかなど意識できていない。 中で、ずっと待ちわびていたものが、弾ける。 それは、あまりにも慣れぬ身に過ぎた快感で。 満たされる余韻を味わうこともなく、真稀の意識はそれで途切れた。 ふっと意識が浮上する。 一瞬自分がどうして眠っていたのかわからなくなり、隣を見れば朝と同じ構図で、しかし既にきちんと服を着て本を読んでいる月瀬がいて、ようやく前後の記憶が繋がった。 「…すみません、俺…寝ちゃって、ましたね」 「いや、私の方こそ、君がかわいいので我を忘れた。どこか不具合はないか?」 「かわ…………、だ、大丈夫です」 普通のヒトとは違って、最終的にエネルギーが供給される行為なので、例えば際中に何らかの傷ができたとしても、すぐに治ってしまう。 もちろん疲労感もなくて、とても元気になっているのが、何だか恥ずかしい。 「(しかもなんか途中から……あれじゃいつもの『食事』と同じだった……よな……)」 甘い雰囲気よりはその時は恥ずかしく思わず済むわけだが、相手があんなに飛んでしまっていて、月瀬は楽しめたり気持ちよくなれたりしてるのだろうか。 甚だ心配だが、それを直球で聞く勇気は、まだない。 「(でもあれは、月瀬さんも悪い。うん、俺は、途中でやめてって言っ……たかどうか微妙に定かじゃないけど一応止めたような気もするし)」 勝手に結論づけていると、本を置いた月瀬が時計を見た。 「もう昼だな」 「お昼ご飯…食材があんまりなくて、買い物に行きたいです。よければ、い、一緒に」 「ならば、昼食がてら出掛けるか」 勇気を出して誘えば、難なく頷いてもらえてホッとする。 身支度をするべくもそもそと起き上がった。 「俺、ちょっとシャワー浴びて着替えてきますね」 「…一緒に入るか?」 アウターひとつあればそのまま出掛けられそうな格好の月瀬は、既に体を洗う必要などないだろうに、そんな冗談で真稀をからかう。 「で、出掛けられなくなりそうなので一人で大丈夫です!」 いつかのように慌てて逃げ出せば、笑われた気配がして、意外に悪戯好きだよなと赤い顔でこっそり文句を言った。 心が通じ合った、甘い一日があった翌日。 つつがなく大学から帰宅し夕食を作っていると、スマホが着信を知らせた。 『おっす。今大丈夫か?というか尻は無事か?』 鷹艶からのいきなりのあまりな出だしに菜箸を取り落とす。 この場合無事とはどういう状態を指すのだろうとかうっかりまともに考えかけたが、「今は夕食を作っていただけなので大丈夫です」とスルーを決め込んだ。 『そうか、つっきーがご機嫌すぎてちょっと、いやだいぶ気持ち悪かったから心配してたんだよな』 一昨日の夜からの甘い展開をうっかり思い出してしまい赤面する。 機嫌は、よかったと思う。 出掛けに「夜まで会えないことが残念だ」とキスして抱き締められて、正直午前中は上の空だった。 駄目だ。話題を変えなくては何かいらないことを言ってしまいそうだ。 「え、えー…と、あ、先日は本当にありがとうございました。護衛とかしてもらってたことのお礼も言えてなくて、気になってたんです。いただいたお電話で申し訳ないんですけど…」 『あー、いいって。全然大したことしてないし。ちっとだけだったけど久々のキャンパスライフも楽しかったしな』 確かに、楽しんでいたように見えたな、と賑やかな様子を思い出して微笑ましい気分になる。 突然いなくなって、残念に思っている人もきっといるだろう。 そういえば、と、真稀は先日三本足の鴉が警告のようなことをしてくれたことを話した。 『エッ、八咫烏が来た?うわ、まじかー…』 何やら、電話先で頭を抱えているような気配に焦る。 「あ、あの、何かまずかったんでしょうか…」 『いや…、この間新宿中央公園のあたりを通ったから、熊野神社にちょっと寄って『俺の目が届かないときは真稀のこと頼む』みたいなことをかるーく頼んじゃったんだよな……あー…だって結局真稀を守ったのつっきーとおまけで勇斗だろ?八咫烏は直前に警告したくらいじゃん。なあこれ借りになる?またなんか神様に無理難題とかふっかけられんのやだよもう』 語られた内容の次元の違いにあまりピンとこないながらも鷹艶の苦悩を感じて、なんだか申し訳なくなる。 「…すみません…俺のために…」 『いや、すまん。真稀は何も悪くないから。はあ…仕方ない、酒でも持ってお礼に行くか…』 「それ、よければ、俺も行ってもいいですか?俺のためにきてくれたんだから、お礼言いたいです」 『おお、そりゃ熊野さんも喜ぶわ。神様っつーのは俺がいくら頼んでも、好きでもない奴には何もしないからな。真稀はきっと気に入られてるんだろ』 「そ、そうなんでしょうか…」 自分にも母と同じ血が流れているのなら、神様には嫌われそうな気がするのだが。 過去、熊野神社にお参りに行った覚えも特にはない。 『それはそうと、今回捕まえた奴らの中に、もしかしたらお前の母親の仇がいるかもしれないけど、実検して拷問とかする?』 人ならざるものを討滅したいと強く思っている人達は、大抵家族や大切な人を、そうした存在に殺されているのだと月瀬に聞いていた。 母が殺されたからだけではなく、ターゲット以外をも暴力に巻き込んで平気なことは本当に許せないことだとは思う、けれど。 「そ、そういうのは、いいです。その人たちは然るべき処分を受けるんですよね?俺が個人的に復讐したりするのは、結局その人たちと同じことをしているだけだと思いますし、鷹艶さん達にお任せします」 そうか、と嬉しそうに笑う気配がして、真稀は自分の考えが正しかったのだと知る。 たぶん、仇討ちをさせて欲しい、などと言い出したら、この人は止めただろう。 他ならぬ、真稀のために。 そういう人だ。会って大した時間は経っていないが、わかる。 神社を通りかかっても、わざわざ寄って知人レベルの他人のために祈ろうという人はそうはいない。 『ところで、八咫烏が視えたってことは、真稀は視える人なんだよな?』 「人ではないもののことですよね?普通に、見えます」 『んじゃ、その能力を活かしてアルバイトをする気はないか?三食おやつに彼氏つきの職場で』 「え…それって、国立自然対策研究所で、ですか?」 『ああ、つっきーとは部署違うけどな。視える奴って意外と少なくてさ。どいつもこいつも陰謀とか破壊活動は得意なんだけど』 アルバイトをする必要は当座のところはなくなったわけだが、自分の力を活かせる場所があるというのは魅力的な話だった。 今日も通学中、視えすぎて少し疲れたので、その制御法などももしかしたら聞けるかもしれない。 「や、やりたい…です、けど」 『んじゃこっちは話通しとくから、真稀はつっきーにおねだりしといて。おっぱいのひとつも揉ませりゃ懐柔できるだろ』 鷹艶に迷惑がかかったりはしないだろうかと聞こうとしたところをこの言い様で、持っていた菜箸を再度取り落とした。 「男の胸…にその価値はありますかね」 『俺にはよくわからんが、好きな奴の体ならどこ触っても嬉しいんじゃね?』 「い、いざというときの手段の候補にいれておきます…」 尻は、だとか、好きな奴、だとか、鷹艶は自然に二人の関係を受け入れているようだが、それでいいのだろうか。 からかっている風にも聞こえないが、つい赤面してしまう。 顔の見えない通信手段でよかった。 声音だけならば何とか平静を装える。 その後ほどなく帰宅した月瀬と夕食を摂って、鷹艶から電話がかかってきた話をした。 「鷹艶がそんなことを?」 「その…アルバイトに、お邪魔してもいいでしょうか…」 学業も家事もおろそかにはしません、と緊張しながら重ねると、月瀬は微かに口角を上げた。 「…私が反対すると思ったか?」 「そう…ですね。俺はたぶん微妙な立場だと思うし、月瀬さんの仕事に支障が出そうであれば、きちんとそう言ってもらえたほうがありがたいとは思います」 無闇に反対されないだろうが、あまりいい顔をされない可能性は高いと思っていた。 月瀬の気の進まないことをする気はない。 「君の立場に関しては、鷹艶のところならば治外法権だから何の問題もないだろう。身の安全という面でも、ある意味どんな場所よりも安全なところだと言える。…本当は、君をこちら側に巻き込みたくはなかったが、自分のことを知るためにも、鷹艶のそばにいることは悪くはないと思う」 懸念は杞憂だったようで、胸を撫で下ろす。 月瀬にしても鷹艶にしても、事情のある存在を抱え込むことで増える面倒ごとはきっとあるだろうに、真稀のためになることややりたいことを優先して考えてくれていて、本当にありがたいと思う。 「ありがとうございます、俺、頑張ります」 「…鷹艶を筆頭に個性的な奴等ばかりだから、あまり毒されないようにな」 半ば本気での忠告を、月瀬なりの冗談と受け止め、頷く。 「(よかった、懐柔策を発動させなくてよくて……おっぱいには自信がないし……)」 平らな胸にそっと手を当ててしまった真稀は既に、鷹艶に若干毒されていた。 八咫烏のことと、熊野神社にお礼参りに行く話をしたところ、月瀬が「私も是非礼を言いに行きたい」と言ってくれたので、休日に二人で出掛けることになった。 『二人が行くなら俺行かなくてもいいんじゃね?八咫烏によろしく言っといてくれよ』 鷹艶がそう言って遠慮したのを、気を遣わせただろうかと心配したところ、月瀬には「いや、それはただ単にあの男が行きたくなかっただけだ」と断言される。 本人曰く、『神様なんてロクでもない厄介ごとばっかり押し付けてくるから出来る限り関わりたくない』だそうで、当たり前だが神様と関わるような事態になったことのない真稀からすると、単純にすごいことなのではと思うのだが、思わず月瀬に聞いてしまった。 「鷹艶さんって…何者なんですか?」 「……本人は、異世界から転生した勇者ではないと言っていたが」 強さといい、人柄といい、記憶がないだけで可能性はありそうなチートぶりだと思う。逆異世界転生とでもいうべきか。 こんなことを言うところを見ると、月瀬もそんな可能性を考えたのだろうか。 蔵書の充実ぶりを考えれば、そういった本を読んでいてもおかしくないとは思うが、転生した張本人である自分達がこんな話をしているというのはなんだか面白い。 境内に入っても八咫烏は出てくることはなく、持参した清酒を拝殿に供えさせてもらって、粛々とお礼参りを終えた。 公園の方に向かって歩きながら、熱心に手を合わせていた月瀬に聞いてみる。 「何かお願いをしたんですか?」 「無論、君の無事の礼と今後の加護を」 「えっ…それは、その、ありがとうございます…」 すっぱりと言い切られて、恥ずかしくなってもごもごとお礼を言う。 「君は?」 「俺は…先日のお礼と…」 ……途中から盗み見た月瀬の横顔に見とれていたなんて言えない。 「な…内緒、です」 「ほう」 「あっ、ほら、こういうのは、言うと叶わないって言いますから!」 「なるほど。では叶った時に教えてもらうとするかな」 素直に納得してくれた月瀬に、後ろめたい気持ちしかない。 こんな邪念ばかりのお礼参りでは八咫烏も呆れてしまったのではないだろうか。 月瀬が手配してくれたという昼食の予約時間までまだ少し時間がありそうだったので、中央公園を散策することになった。 「今日は少しあったかいですね。天気もいいし」 見上げた空は気持ちのいい明るい青。 気温も二月にしては高くて、風もあまりなく、木々の間から差し込む日差しがやわらかい。 園内で思い思いに過ごす人々はみんな楽しそうだ。 そこには怯えも悲しみもない。 きっと、それぞれに悩みはあるだろう。 けれど、ここは滅びゆく世界ではなく、誰にも未来が、希望があるのだと思うと、嬉しかった。 「…月瀬さん?」 「…ん、…ああ、そうだな」 返事がないので振り返ると、月瀬は首を一つ振ってすぐに隣に並ぶ。 「何か気になることがありますか?」 聞くと。 「いや…君が幸せそうで、見とれていた」 こんなことを言うから、うっかり漫画のようにずるっと滑りそうになった。 外であまり動揺させるのはやめてほしいと、赤い顔で抗議する。 「な、何を言ってるんですか…!」 「…本当だな」 納得されても。 隣を歩く男は、今日は黒いコートではなく、ボルドーカラーのトレンチコートにチョークストライプの入った深いネイビーのスーツ、ワイシャツがグレーのギンガムチェックなのがいつもよりごく僅かにカジュアル感を感じさせるが、このままで十分ビジネスシーンに突入できる装いで、とても昼日中から甘い言葉を吐きそうにもない雰囲気なのに。 「月瀬さんは、楽しそうですね…」 「君を見ていると楽しいからな」 「俺は…別に面白いことをしているつもりはないのですが…」 「言い換えようか。君といると楽しい」 「それは………俺も、そうです………」 自分が幸せになることで、誰かを幸せにできる。 きっとこれは『マサキ』の望んだ光景だ。 もちろん、真稀もそれがとても嬉しい。 「月瀬さんが楽しいのは、俺も嬉しいので」 「………………………」 「月瀬さん?」 「いや、…行くか。君があまりかわいいことをいうので早く二人きりになりたくなった」 「ええっ?」 スイッチの入るような何かをいってしまっただろうかと考えてみても、思い浮かばない。 個室の店にしておいてよかった、などと言われても反応に困る。 歩く方向が公園の出口へと変わり、真稀は慌ててそれに続いた。 並んで歩きながら、見上げた横顔は穏やかで。 名前を呼べば、柔らかく笑いかけてくれる。 真稀はこの幸福に少しだけ泣いてしまいそうになりながら、何よりも大切な人に一番の笑顔を返した。

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