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10:訪れた朝

世界の『コア』めがけて飛び込もうとした細い腕を、力強い手が掴む。 その瞬間、まるで唐突に霧が晴れたようにクリアになった視界。 塔の上に広がる不思議な空間。どこまでも続く水面は夕暮れのような紫色の空の下、波紋も浮かべず静かに揺蕩っている。 目前には『コア』らしき薄紅い光を放つ巨大なクリスタル。美しいが、人の血を吸ったかのような色は、同時に禍々しさを連想させた。 乱暴なくらい強く引き寄せられて、その勢いのまま男の胸に倒れこむ。 反射的に「すみません」と謝ろうとして見上げた、その先には。 「月瀬、さん…」 そのひとは、よく知っている、とても好きな人と同じ顔をしていた。 スーツ姿ではない、神父の着ているカソックのような服の上に黒いインバネスコートという、着ているものに違いはあるけれど、月瀬その人のように見える。 苦しそうな表情を見て、自分の選択が彼を深く傷つけたことを知った。 これでは、彼を、この世界を救うことはできないのだ。 拒絶しても、何度も何度も手を伸ばしてくれたひと。 愛しさがこみ上げて、そっと、その頰に手を伸ばす。 「一緒に、考えませんか?」 「一緒…に?」 「どちらかが犠牲になるとかじゃなくて、…もしかしたらどうにもならないかもしれないけど、それでも、みんなで幸せになれる方法がないかどうかを。…最後まで諦めずに探したいって言ったら、一緒に考えてくれますか?」 突然様子が変わったことに驚いたのだろうか。彼は、虚を突かれたように目を瞬かせた。 この人の、表情が変わる瞬間が好きだ。 厳しそうな目元が、優しく和らぐところを見てはいつも胸を焦がした。 やがて彼は、「そうだな」と破顔して、 時は止まった。 自分以外のものが、キラキラと、砕けていく。 どうして、と思った時には、何もない場所に立っていた。 何もない。 立っているつもりだが、地面がないのでそれを己に対して証明出来ない。ただ真っ暗な場所だ。しかし見下ろす自分の姿は鮮明に見える。 そこに突然人が現れた。真に瞬く間の出現に驚くと、彼は少し笑って、『こんにちは』と挨拶した。 『彼の心を救ってくれてありがとう、別の世界のおれ』 『マサキ』だ。 夢の中では常に『マサキ』自身のぼやけた視点だったため、その姿を見るのははじめてだった。 顔立ちは同じだと思うが、『真稀』よりも一回り小さく、年ももっと幼いように見える。 その体は痩せて、服から覗くどこにも傷跡があり、長らく容赦のない虐待を受けていた痛々しい姿には、まるで人間の臆病さや醜さが刻まれているようで、『魔王』が心を痛めたのも頷けると思った。 真稀が『マサキ』であるときは、痛覚などはなく、視界もぼやけているため現実感は乏しかったが、それは『マサキ』の気遣いだったのだろうか。 真稀が言葉を失ったのを見て、『マサキ』は少し困ったように微笑んだ。 そういえば感情が伝わってしまうのだと思い出し、真稀はそれ以上考えるのをやめる。 『マサキ』は、最期の選択以外を悔いてはいなかった。勝手な同情で彼の人生を貶めるようなことはしたくない。 「救ったって…、でも…世界が」 『どちらにしてもこの世界の終わりは、大いなる…によって定められていたこと。だけど、間違った選択をした後悔をおれはどうしても捨てられなかった。彼に、彼の愛する世界で、幸せになって欲しかった。世界と繋がったおれは、少しだけ事象に干渉出来る力があって、違う世界の彼にその魂を重ねることができたんだけど』 「魂を…重ねる?」 ピンと来ない。『マサキ』は聞かれてええと、と考えた。 『転生っていう概念が近いのかな?』 「じゃあ、俺も、『マサキ』の転生?」 『うん、ただ『真稀』を転生させたのはおれじゃない…。『魔王』の転生が生まれた世界に『マサキ』が生まれたことによって、彼は自分が管理していた世界からの干渉を受けるようになってしまった。おれは『月瀬崇文』に…本当は、おれのことを思い出さないで欲しかったのに』 なら月瀬は、誰かを救えなかった前世の記憶にずっと苦しんできたのだろうか。 失う恐怖を、ずっと感じ続けてきたのだろうか。 「でも、『マサキ』じゃないなら誰がそんなことを…?」 『ごめん、それはおれには………。でも、だから『真稀』にも干渉した。ただ夢を見せるくらいしかできなくて…それでもきちんとした教育の受けられる世界で、色々な人と交流をすれば、違う未来が描けるかもしれないって、思ったから』 「…ごめん、ずっと、わからなくて。失いそうになるまで、ずっと逃げ出すことを考えてた」 『マサキ』はそっと首を横に振る。 『『月瀬崇文』は『真稀』を守れたことできっと救われたよ。…おれは、伸ばされた手にすら気付けなかったから』 悲しそうな横顔。だがそれは一瞬で、すぐに元の穏やかな表情を取り戻す。 『もうすぐ、夢が覚める。…おれが傷つけた人を、どうか幸せにしてあげて』 「『マサキ』はどうなる?もう、会えないのかな」 『おれは、夢の残滓みたいなものなんだよ。違う世界の、時間の軸すらあやふやな、誰かの見る夢、遠くに見える星みたいに。だけど、おれたちは同じ存在でもあるから、おれも『魔王』も、いつでも『真稀』の側にいる』 「それじゃあ、またね、で別れる。夢なら、自由に見ていいと思うから、今度は四人で会いたい」 暗に会えないと言われたことはわかったが、我儘を言った。 願うことは、きっと罪ではないから。 『マサキ』はそれを聞くと目を丸くして、それからじわりと傷跡だらけの頬を綻ばせた。 『…それは、とってもいい夢だね。楽しみにしてる』 夜明け前の深い闇に光が差すような、眩しくてあたたかい笑顔だ。 ああ、自分もこんな風に笑えるようになりたい。 握手をした。ガサガサの、やはり傷跡だらけの手だった。 でも、『マサキ』は今、自らの力で望む未来をその手にしたのだ。 『またね』 「うん…近い、うちに」 言葉を交わせば、徐々にあたりを光が包んで、『マサキ』の笑顔は見えなくなった。 光が収束する。 そっと瞼を上げると、見慣れないということに少し慣れてきた天井が視界に入った。 朝日がブラインドの隙間から差し込んでいて、その明るさにいつも目覚めるよりも遅い時間であることがわかる。 「起きたか」 傍らから聞こえてきた、低く、落ち着いて耳触りのいい声。 今、夢の中で『マサキ』を呼んだのと同じ声だ。 『マサキ』の聴覚は視覚ほどではないが少し聞こえにくかったから、それまで同じものとして認識したことはなかった。 「お…はようございます」 緊張しながら顔を向ければ、裸のまま上体を起こし、枕を背凭れにこちらを見ている月瀬がいて、ドキドキして挨拶を噛んでしまった。 優しい眼差しも引き締まった身体も朝日の中で見るとより眩しくて、反射的に逃げ出したくなるのをぐっとこらえる。 もう、好きになってはいけない人ではないのだから逃げる必要などないのだ。 …とはいえ。 「何故、隠れる?」 「いえ…あの、眩しかったり恥ずかしかったり色々ありまして…」 笑い混じりの問いかけに、結局逃げ込んだ上掛けの中からもごもごこたえれば、そうか、と頷いた気配がして、優しい手に上掛け越しに頭を撫でられる。 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「~~~~~~~~~~」 辛抱強く撫でられて、根負けしてそっと顔を出した。 そんなに優しい目で見ないで欲しい。また潜りたくなる。 「今日は仕事のことは考えなくていいと言われてしまったからな。君ももっとゆっくり寝ていて構わないぞ」 そう言われても、すっかり目も覚めてしまったし、互いに昼までごろごろ、という休日を過ごすタイプではない。 起きて朝食を作りたい気持ちもあったが、もう少しだけこうしていたい気もして、横になったまま会話を続けた。 「…月瀬さんは、夢、見ましたか?」 あれは本当に、共有している記憶なのだろうか。ただの真稀の夢だった可能性もある。 唐突と思われる問いかけに、しかし月瀬は驚いたり誤魔化したりすることはなく、素直に頷いた。 「前世は異世界の管理者…か。あまり、よくある娯楽小説風ではなかったが、昨日ようやく伸ばした手が届いたところだ」 冗談めかしたその言葉だけで、あの結末をも共有できていたことがわかり、ほっとすると同時に、少し胸が痛んだ。 「『魔王』は、少しは救われたんでしょうか?」 「ああ、君のおかげだ」 穏やかな表情。きっと月瀬の中でも一つ区切りがついたのだろう。 良かったと思いながらも、真稀は首を横に振る。 「俺じゃなくて、月瀬さんのおかげだと思います」 「私の?」 「月瀬さんが、逃げてばかりの俺をちゃんと捕まえてくれたから。だから俺も、あれじゃ駄目なんだって、気付くことができたんです」 安易にヒトであることを捨てるな、と。 ヒトであることを諦めそうになったとき、いつも月瀬が引き留めてくれた。 応えたかった。その想いに。 生きろと言ってくれた、夢の中のあの人にも。 想いを込めて見つめると、伝わったのだろうか。 「……そうか……私にそんな風に言ってもらえる資格があるかはわからないが…君がそう思ってくれることは嬉しい。……ありがとう」 真稀の言葉に、そう言って微笑った月瀬の顔は、夢の最後に見たあの人と同じだった。 その後、起き出して朝食を作った。 昨日は買い物に行かなかったし、ここ数日ここから出ていくことばかり考えていたため買い置きの食材もあまりなかったが、卵はあってほっとする。 月瀬は甘い卵焼きが好きだ。 料理の味付けもどちらかといえば甘辛なものが好きらしく、普段の厳しそうな雰囲気とのギャップがちょっと可愛い。 またこの広いキッチンで月瀬のために料理ができる幸せを噛みしめつつ、用意ができたので、ソファで新聞を読んでいた月瀬をダイニングテーブルへと呼ぶと、彼は食卓につくなり眉を顰めた。 「真稀、君の分は随分少ないようだが…、食欲がないのか?」 「あっ、いえ、その………」 心配気に曇らせた表情で指摘され、真稀は目を泳がせる。 体の調子はここ最近感じたことがないほどにいいのだが…。 正直に言うのは恥ずかしいが、「私のせいか」などと言い出されてしまっては隠しておくこともできない。 一膳の半分に満たない白米と数切れの卵焼きを前に、もそもそと口を開いた。 「月瀬さんのせいというか…お陰様と言うべきことなんですけど、幸せで胸がいっぱいで食べ物が喉を通らないというか…エネルギー満タンすぎて食物から栄養を摂取しなくても大丈夫みたいというか……そういう感じで……」 知らなかった。 口からよりも直腸からの方が摂取効率がいいようだとか、そんな恥ずかしいこと。 「……あ、そ、そういえば母もそうでしたよ。朝まで帰ってこなかった日はよくそう言って――――――」 恥ずかしさを紛らわそうとするあまり爽やかな朝食の席に不似合いなことを言ったような気がして、真稀は顔を赤くして途中で黙った。 伝わったのかどうなのか「まあ、具合が悪いのでなければいいが…」と箸を手に取りながら濁してくれた月瀬にほっとする。 しばし箸を動かすばかりの沈黙があり。 ふと真稀は、今の自分の失言のお陰で聞いておかなければならないことを思い出した。 どんな真実が出てくるのか、正直蓋をしておきたい気持ちもあったが、はっきりさせておいた方がいいだろう。 「あの…今更かもしれないですけど…」 「ん?」 「月瀬さんは母とはどういう関係だったんですか?恩っていうのは…」 「……………………………」 勇気を出してはみたものの、難しい顔をして黙った月瀬にぎくりとして、弱気が頭をもたげる。 「あっ、言いにくいことなら、無理には…っ」 「実は…君のお母さんとは面識はない」 「え……」 あまりに意外過ぎる言葉に、目を見開いた。 「それじゃあ、恩っていうのは口実……?」 確かに、月瀬は母の思い出などを真稀に語って聞かせたりはしなかった。 驚いたもののそれなら納得できると思ったが、月瀬はそれには首を横に振った。 「いや、恩はある」 「?どういう……」 「君を産み、育ててくれたことだ。彼女がいなければ私は君に会うことができなかった」 「っ……………」 そんなことを。 真顔でさらっというのはやめてほしい。 鼻の奥がツンとして、机の下でぎゅっと拳を握りしめる。 恥ずかしいのに嬉しくて、嬉しいのに涙が出て、涙が出ているのに笑ってしまう。 悲しくなくても涙が出るなんてこと、この人に会うまで知らなかった。 他にも、彼の言葉で気付けたことがある。 いつでもそばにいると言っていた『マサキ』も、あの街になくなったと思っていた母の生きた痕跡も、自分が生きている限り、確かにここにあるのだ。 「あ…いや、その、さも知り合いであるかのように振る舞ったことは、すまないと思っているが、だが、見知らぬ男が突然訪ねてきて保護させてくれなどというのは不審だろうと思ってだな」 泣き出した真稀が騙されてショックを受けたとでも思ったのだろうか、慌てて的外れなフォローをしている月瀬が、可笑しくて愛しくて。 「よかったです……、母の、代わりとかじゃなくて」 「代わり?………ああ、……なるほど」 「父だったらどうしようとかも思ってました」 「…そうか、そうだな。よく考えてみれば当然の発想だ」 月瀬が「父親…か」と若干遠い目になっているのには気付かず、涙を拭うと湯が沸いたのでお茶を入れるべく立ち上がった。 「月瀬さんは俺が『マサキ』の転生だって最初から知ってたんですか?」 急須を傾けて、新緑色の煎茶をゆっくりと抽出しながら話を続ける。 「いいや。先日少し話した通り、君のお母さんが亡くなったことで、件の組織が日本でも活動しているという情報が私の方に上がってきた。私の手元には情報を扱う部署から、超自然的な事象に関する報告が一旦全て集まってくる。その中に、君のお母さんの情報もあって、写真の面差しが夢に出てくる少年に似ている気がして個人的に調べたら、君に辿り着いたんだ」 真稀は完全に母親似だ。 年々似てくる気がするのが、我ながらちょっと複雑ではある。 「あの世界のことは夢でしかないと思っていたから、もちろんよく似た別人だという意識はあったし、自己満足だとはわかっていたが、放って置けなかった」 「俺が『マサキ』だと思ってたわけじゃないんですね…」 「君が私を見て何かしら反応をしていたら、もしかしたら確信したかもしれないが、特にそんな様子も見られなかったからな」 「そうですね…、夢の中では『マサキ』の磨りガラスレベルの視界だったのでかなり最近になるまで気付かなかったです。声も、少し違う音で聞こえていたし。どこかで見たことあるような気がする、程度には思ってはいたんですが」 「それほど彼の視力は悪くなっていたのか……。動作に淀みがないので、酷い近眼くらいの認識だった」 月瀬が表情を曇らせたので、真稀は慌てて「本人はあまりそのことについては気にしたり不自由したりしてなかったですけど」とフォローした。 『マサキ』は自分のことで悲しい気持ちになって欲しいとは思っていないだろう。 湯呑みを差し出すと、短く礼を言って受け取った月瀬は、言葉を続ける。 「ずっと転生だなどという考えには至らなかったが、…あの路地裏で君を見つけたときから、人と人ならざるものの狭間で苦悩して身を引こうとしている君が、夢の中で己を犠牲に世界を救おうとした少年とだぶって、意識しないまま混同していた部分もある。…名前も」 「名前?」 「何も気付いていなかったのか?私は元々君をファーストネームで呼んではいなかっただろう」 「…………………………あっ」 言われてみれば、そうだ。 夢と混ざって全く違和感を感じていなかったが、いつから名前で呼ばれていた? 月瀬も後から気付いたのだという。 「不審に思われていなかったのならよかったが」 「たぶん、あれ?って思ってもそっとしておいたと思います。月瀬さんに呼んでもらえるの、嬉しいですし」 月瀬の声で名前を呼んでもらうのは、好きだ。 つい、真稀、と至近で囁かれた昨夜のことを思い出し、頬が熱くなってしまう。 朝から自分は何を考えているのかと一つ首を振って視線を前方に戻すと、月瀬が眉間を寄せて考え込んでいるので、焦った。 「す、すみません、俺、変なこと言って」 「………いや、ところで君は今日何か予定はあるのか?」 「え?いえ、特には…」 突然の話題転換に驚きつつも、家事をしたいくらいで何の予定もないので素直にそう伝えると。 「それは何よりだ。そんな顔の君を外に出すのは心配だからな」 「えっ…俺、そんな変な顔してましたか?」 邪なことを考えていたのが駄々漏れだっただろうかと、慌てた真稀に月瀬が笑う。 「変ではないが…可愛いからできれば二人きりの時にだけ見せて欲しい顔だ」 「そ…………」 甘い、欲望をちらりと覗かせる 瞳に覗き込まれて顔を赤くして言葉を失う。 月瀬こそ、そんな顔は他の人に見せないで欲しい。 俯けば、真稀、と優しく呼ばれて、伸びてきた手に頭を撫でられて、陥落した。 「…月瀬さん」 「うん?」 「もっと…近くで、もっといっぱい触って欲しい、…です」 机越しなんてもどかしいと、蚊の鳴くような声で訴えれば。 「私も、もっと君に触れたいと思っていたところだ」 と、立ち上がった月瀬に、腕を取られ寝室に連行された。

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