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1.盲目にキス
〈十皿目以降 5/23キスの日SS・ツイッターに上げた小話〉
ふと──キスがしたくなった。
春の暖かな日差しが差し込む、魔王城の魔王執務室。
そこでいつもどおりに書類を捌いていたアゼルは、突然の欲求にペンを持つ手を止め、その欲求の矛先である人物を脳裏に思い浮かべる。
黒と言うには優しい木陰色の髪。
瞳は夜明け前の海の色だ。
呼びかけると、彼は振り向く。
翻る木の葉のように、優しい挙動で。
その瞳がアゼルを映し出すと、引き結ばれた薄い唇がほのかに緩み、アゼルの名を紡ぎながら形を変え、そしてたおやかに微笑む。
ただの薄桃色の柔らかな皮膚だが、彼のものとなればどうにも心惹かれてやまない。
気がつくと、指が己の唇をなぞっていた。
ああ、だめだ。仕事にならない。
なんせ完全に無意識だった。
胸に募り始めた恋しさに従い、アゼルは上質な書斎椅子からカタリと立ち上がる。
部屋を出て、心が求めるはただひとり。
会いたいと思ったのならその衝動を抑えることなどできやしない。そういう存在。
城の通路を慣れた足取りで進み、はやる心を持て余しながら私室へ向かう。
たかが私室。されどアゼルにとっては愛しの彼と詰まるささやかな宝箱である。
どんな誂えの箱でもリボンでも、彼が詰まるものは世界に等しい夢の入れ物だ。
この時間なら彼は部屋にいるだろう。
もしくは厨房かもしれない。どちらでも構わない。甘皮一枚早く触れたい。
そしてあの甘い唇に──とびきりの愛をこめたくちづけを。
トクトクと急く鼓動を感じながら、ずいぶん長く感じた道のりを歩ききり、扉を開く。
部屋の中には変わりなくまろやかな空気を纏った愛する人が、窓のそばにある二人がけの小さな丸テーブルについて、本を開いていた。
刹那、濃緑の書籍に火花のような嫉妬を覚える。一部切り取り灰にしたい。
縁に触れた指先。
自覚はあるが、どうしようもない自分の嫉妬深さは無機物にも及ぶのだ。
「アゼル? どうした」
扉の開閉音から来訪者に気がついた彼は、うつむき気味だった顔を上げ、憎らしい紙束から逸らした視線でアゼルを捉えた。
嫉妬なんて忘れた。
たったそれだけで、たまらないほど鮮やかな歓喜が花咲く。自分は今間違いなく特別な存在だ。世界が羨むスペシャル・ワンだ。
アゼルは返事をせず、軽くなった足取りで彼のそばに立つ。
彼は不躾なアゼルの行動を咎めることもなくクスリと微笑み、ただアゼルの次を待つ。
威圧的で無愛想な魔王である。
彼のように微笑むことはほとんどない。
行動は本能的なくせに、人格はまるで素直じゃないオレ様なカッコつけ。
甘くされるほど言葉尻がツンケンと尖り、会話の節々に彼を雑に表す語感を散りばめ、ストレートな語彙力だけが欠如した魔王。
そのアゼルがそれほど自分の欠点を気にせずいられるワケは、彼が木漏れ日のような人だからだ。
暖かい日溜まりではなく、涼やかな日陰でもなく、眩い日差しを遮りながらもわずかばかり暖かで、わずかばかり優しい木漏れ日。
「ん?」
人よりほんの少しだけ、人に心を傾け寄り添う男。
それが彼。唯一無二の愛しい人。
「ッこ! …………ンゥンッ」
しかしそんな彼が深い包容を宿した瞳で見つめてアゼルの挙動を待つものだから──仏頂面のはにかみ屋という難解な性分が疼き、アゼルの頬はじわじわと赤く染まってしまった。
カッ! と目を見開き無意味に咳払う。
ついさっきまで疾く疾くとせいていた心が恥ずかしそうにうちに篭る。
いや無理だ。
抱き寄せて唇を奪う? 無理だ無理だふざけるな死にたいのか瀕死のくせにいやまぁ悪くないが無理だなにかと無理だ。──この目は無理だ!
「シャル、その、なんだ……め、目を……そう。目を瞑れ。なるべく強く」
脳内大噴火のアゼルはキョドキョドと視線を彷徨わせしばし思案し、それから急かすでもなくのんびり待つ彼に、苦し紛れの策を仕掛けた。
「俺がいいというまでだぜ」
「目を? よしきた」
「絶対あけんなよ、絶対だぞ」
なんの疑いもなく素直に目を閉じる彼に念を押す。ちょっとというかかなり心配なくらいスムーズに閉じられたが、ひとまずよしとしよう。
アゼルはゴク、と唾を飲む。
目の前には視界を遮り無防備にこちらを向いて待機する、硬派な男。
落ち着いた大人の男だ。
鍛えた体。男らしい精悍な顔立ち。派手さはないが地味なカラーがむしろ似合う凛とした佇まい。なのにどこか無防備である。
窓から吹き込む風が滑らかな白い頬を撫で、黒い前髪が微かに額でそよぐ。
そんな芸術的な情景に、不埒にも自分は口付けようとしているのだ。
背徳すら感じる。
幾度となく交わした行為であっても、改めると顔の熱は上昇していく。
「……っ」
意を決して、アゼルは目をキツく瞑り、彼の唇あたりに火照った顔を突き出した。
──ゴツンッ。
「ム゛ッ」
「イ゛ッ……!?」
が、物の見事に衝突事故。
慌てて目を開くといきなり頭突きを食らった彼は文字通り面食らい、何事かと目玉をぱちくり困惑させながら自分の鼻を押さえている。
どうやら自分は薄闇の中で照準が狂い、彼の鼻に顔面ごとぶつかったらしい。
「ッ、……〜〜〜〜〜〜ッ!」
恥ずかしいやら情けないやらバツが悪いやら。
アゼルは口元を押さえてトマト色に染まり、岩と化して黙りこくった。
この状況をどう説明しろと言うのだ。
再度仕切り直せって? ふざけるなとっとと殺せ。
黙り込むアゼルを、痛みにプルプルと震えつつ混乱した目で見つめる彼。さぁ殺せ。すぐ殺せ。
ややあって、彼は自身の鼻から手を離し、なるほどと頷き微笑んだ。
そしてそれを不思議に思う間もなくアゼルの頬にそっと手を添えて挟み込むと、優しく引き寄せ、アゼルの鼻頭に唇で触れる。
「へぁ……?」
ちゅ、と短いリップ音。
間抜けな声が漏れた。
夢にまで見た薄桃色の湿った唇が静かに離れ、アゼルはそれを狐につままれたような顔で赤らんだ頬のまま、視線で追いかける。
なにが起こったのかわからない。
わからないが、鼻先から甘い刺激が全身に染み渡っていく気がする。
「アゼル」
そうだ。自分の名はアゼリディアス・ナイルゴウン。アゼルだ。だからどうした。
「鼻にキスがしたかったんだろう? ふふ……情熱的なお前の愛に、俺もお返し、だ」
──ああ……照準のズレを鼻キス目的だと勘違いをして、仕切り直したのか。
ミスして頭突きになったと思っている。
なので気にしていないというアピールがてら、正しい鼻キスをいっちょうお見舞い。お前の愛はちゃんと伝わったぞ、という圧倒的フォロー。
なるほど。なるほど。勘違いだ。
……悪くねぇな。
「でもこう、はは、唇同士を重ねるキスよりなんだかくすぐったい。またしよう、アゼル」
不意打ちにやられてフリーズしつつも勘違いを正すことなく、湯気が出そうなほど逆上せた頭をコクコクと無言で上下に振るアゼルであった。
どんなキスでも大正解。
彼とキスなら大歓迎。
アゼルはいつだって彼──シャルしか見えない盲目のロマンチストなのである。
了
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