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麗人のくちびる
都に雪解けが訪れた。まだまだ水も空気も澄みきり冷たいが、春の気配に誰もが浮足立つような心持ちであった。
それは或る貴族の邸も多分に漏れず、新たな季節を前に明るい忙しなさがあった。
美しい長持ちが門を通り、東の対へ運び込まれる。
「ご苦労だった。すみれ、荷運びたちに水を」
「はい、旦那様」
娘の嫁入りのため、仕立てさせた長持ちを前に、是愛は眉根を寄せていた。そんな是愛の心情を感じ取ったすみれは、笑いを堪えながら荷運びたちの応対に去っていく。
「嫁入り、か」
喜ばしいことである。適齢期を迎えても、詳細の分からぬ病を理由に延ばし延ばし続けてきた婚姻だ。娘……玻璃乃の夫となる青年とは元来付き合いは深く、豊かな家である。なんら心配ごとなどはなく、喜ばしい以外の何ものでもない。
では、胸に渦巻くこの不確かな感覚は一体何か。
「本当に美しい長持ちでございますね」
「ああ、すみれか。そうだろう……玻璃乃の晴れの日だからな、恥ずかしくないように」
荷運びたちは帰ったのか、すみれは衣をするすると引きずりながら長持ちの隣に立った。
「ええ、ええ。姫様もお喜びになるでしょう」
長年玻璃乃に連れ添い、嫁入りにも同行するすみれは目じりに鳥足のような皺を寄せ、とことん微笑む。その笑顔を正面に受け止められない是愛は、ある答えを見つけた。
(そうか、私は寂しいのだな)
答えに気付き、気の抜けた笑みをこぼした是愛は、はたと声をあげる。
「……ところで肝心の玻璃乃は」
「そういえば、先ほどから姿を見ていませんね。耶雉さんのところでしょう」
「まったく、支度の一つもしないのだから」
身の回りの世話を女房がするのは当然のことではあるが、玻璃乃は大量の読み物を所持しているのだ。それくらいは自ら包んでほしいものである。
「連れてくるか」
「承知いたしました。私は荷を作り始めておりますので……」
「ああ、頼んだぞ」
そうして是愛は、西の対へ足を向ける。西の対には是愛が寝室としている塗籠と、玻璃乃が耶雉に与えた居住空間がある。当初は異邦人として耶雉を嫌っていた是愛は、対を同じくすることを不愉快に思っていた。しかし、彼を妻として、また夫として迎えた今となっては、不思議と遠い頃のことのように感じた。そんなことを反芻しながら、耶雉の居間に仕切られた几帳に歩み寄る。
「……あ」
その刹那、怪訝な声が響き、是愛の足はぴたりと止まる。
「……玻璃乃さま……そんな、あっ」
「耶雉、じっとしていてちょうだい。お願い……嫁入り前の、思い出に……」
「ああ……玻璃乃さま…………」
消え入るような耶雉に、たまらず几帳を跳ね上げる。
「そこで何をしているんだ!」
「きゃっ、お、お父様……急に開けないでください!」
すると几帳の中では、玻璃乃と耶雉が対峙していた。――化粧道具を両手にした玻璃乃と、水干をまとった耶雉が対峙していたのだった。
「あ、こ、是愛さま……!」
「もう! わたくしの楽しみを邪魔しないでくださいませ」
立腹する玻璃乃はまるで少女だ。妻となることを控えた女性とは思えない可愛らしさをもっている。
「それで、それは何を……」
「分かりませんの? 一度でいいから、耶雉を白拍子のように着飾りたくて」
そう言いながら父の存在は流すことにしたのか、玻璃乃は手にしていた頬紅で耶雉を彩り始める。
「ごめんなさい……是愛さま」
「いや、君が謝る必要はないだろう。むしろ娘の我が儘に付き合ってくれて、苦労をかけるな」
「ひどいわ、お父様ったら。耶雉の味方ばかりして」
「……そういう訳では……」
ぽんぽんと淡い桜色に頬を色づけると、玻璃乃は満足げに笑んだ。
「なんて綺麗なのかしら……。あとは口に紅を付けて終わりだけれど、この色選びが肝要ですわね」
「そういうもの、なのですか」
「ええ。そういうもの、ですわ」
玻璃乃は広げた化粧道具から、貝に乗せられた紅を一つ一つ摘まみ上げては耶雉の顔に合わせ、考えこんでいる。
「……ううん……そうだわ、あちらの部屋にまだあったはず。耶雉、少し待っていてちょうだい」
「は、はい」
活発に動く玻璃乃は、几帳をすり抜ける前に父に鋭く振り返る。
「お父様! くれぐれも、わたくしの邪魔をしないでくださいませね!」
やがて玻璃乃が立ち去ると、耶雉は改めて頭を下げた。
「ごめんなさい、玻璃乃さまのこと叱らないでください」
「……さすがに叱りなどしないさ。ただ、君も嫌なことは嫌だと断りなさい」
「嫌ではないです。……玻璃乃さまと過ごす時間も、少ないですし……」
やや視線を落とした頬に、長いまつ毛が影を作る。常と違い目元に艶やかな色を差し、頬には桜の花びらを乗せたような淡い色が咲いていた。
「美しいな……」
「え……?」
「ああ、いや、その……」
思わず、といった様子でもれ出た是愛の言葉に、耶雉はぱっと顔をあげる。
「……君は何もしなくとも、美しいと思っていたが……化粧をすると、瞳の青が際立って麗しい」
「是愛さま……そんなに見られると……恥ずかしいんです」
かの堅苦しい人が、こうして耶雉の見目を褒めるのは初めてに等しく、なんとも言えない気持ちが胸にせり上がる。耶雉の頬は差した色以上に、熱く染まっていた。
「さあ耶雉、口紅を差しますわよ! ……どうかしたの?」
威勢よく戻る玻璃乃は、なんだかそわそわする父と耶雉に首を傾げる。しかしそれもすぐに吹き飛ばし、紅差し指で色を掬った。
「耶雉、顔をこちらへ――」
「その紅にするのか?」
玻璃乃が耶雉へ向き直った瞬間、是愛が手元を覗き込んだ。
「なんですの? 突然……」
「そちらの紅よりも、こちらの方がいいだろうに」
「……え?」
そう間の抜けた声を発したのは、玻璃乃か耶雉か。はたまた二人か。
「どういうことですの、いきなり口を挟むなんて……」
「私は単に、こちらの紅の方がよかろうと」
「まあ! わたくしの紅のことすら、気にかけたこともなかったでしょうに!」
玻璃乃は驚きつつも、ゆるゆると芽生えた対抗心に火が灯り、その提案を一蹴する。
「いいんですの。こちらの方が目元がはっきりと艶やかに見えるのですから」
「いや、こちらの方が顔色は明るくなるのでは?」
父と娘が、紅の色で揉めている。それも、一人の宦官の化装のために。
「……あの」
たまらず耶雉が声をかけると、さすがに彼らはぴたりと口を止める。
「唇は二枚ありますし、上と下で分けて塗っては……」
どちらも引けない父娘は、奇妙なその提案を受け、それぞれが挙げた紅を唇に引いていく。上唇は玻璃乃が彩り、下唇は是愛が染めあげた。
「まあ……!」
「…………む」
二つの色調が微妙な陰影を生み出し、耶雉の表情を新たにした。それは玻璃乃の言う通り目元を際立たせ、是愛の言う通り肌は透き通るように華やいだ。
「ああ……なんて綺麗なのかしら。こんなことなら絵師を呼びつけて屏風絵にでもするべきでしたわ……ねえ、お父様?」
「うむ、確かに……」
「そ、そのように褒められると、困ります……」
耶雉は手持ち無沙汰で、おろおろと首を振る。
「はあ……素敵な心覚えをありがとう、耶雉」
うっとりとしつつ、どこか切なさを帯びて、玻璃乃は耶雉の手を取った。そしてその姿を目に焼き付けるように、真っ直ぐに見つめる。
「……あ、そういえば。お父様、何かご用でしたの?」
はたと思い出し、父の方を振り返ると、そちらもすっかり忘れていたという様子で我に返った。
「そうだ。嫁入りの長持ちが届いたぞ。すみれが支度を始めたようだから、お前も手伝いなさい」
「あら! そうだったのね! ……うう、名残り惜しいけれど、すみれのところへ行かなくては……」
「はい。玻璃乃さま、僕も……ふふ、楽しかったです」
これだけ喜ばれていれば、耶雉も不愉快を覚えはしない。何度も何度も耶雉を見返りながらも、玻璃乃は東の対へ渡っていった。
「そろそろ、僕も着替えますね」
「ああ、そうだな……ん?」
化粧の騒動であまり目を遣っていなかったが、耶雉が身にまとう水干に見覚えがあることに気付いた。淡い白藍をした、薄手のその衣。是愛の視線を感じて、耶雉はその答えを与えた。
「……この水干、玻璃乃さまが、どこかから持ってきたみたいで」
「やはりか。私が夏に着ているものだろう……まったく、あの子は」
耶雉の返答に腕を組み、やれやれとごちる。
「ふふ、そうかとは思いました。だって……是愛さまの匂いが、僕を包んでくれるんです」
そう言うと、耶雉はそっとその衿元を持ち上げるようにして顔に近付ける。
「ちょっと恥ずかしいですが、嬉しかったです」
そんなことを言いのけて含羞む耶雉に、こみ上がる気持ちを抑えることはとうに出来ず肩を引き寄せる。やや足元を崩しかけた耶雉の体を水干ごと抱きしめて、唇を触れ合わせた。
「ん……っ」
唇を吸い上げ舌を滑り込ませると、温かな痺れが背を走る。
「……ん、は……っ」
ぬらくらとした舌が絡みあい、混ざり合う唾液が水音を立てた。呼吸を求めて唇を離すと熱い吐息が頬を掠めていく。
「はあっ……あ、……紅が……」
「すまない、そうだったな……」
わずかに色移りした唇を耶雉の指先が拭うと、離れる前にその手を掴み指と指の狭間に舌を這わせた。
「ひぁ……まって、くださ……だめ……」
口付けの直後に皮膚を刺激され、耶雉は体から力が抜けてしまいそうな不安から是愛にしがみつく。手の平まで甘く啄まれ、益々体は言う事をきかなくなった。
「はっ……是愛さま……意地悪です……」
「……あんなに愛らしいことを言われたら……どうしようもなく、君が愛おしくて……」
耶雉の腰にしっかりと腕を回し、今度は触れるだけの口付けを落とす。
「……僕は少しだけ、僕が羨ましいです」
「なぜ?」
是愛の首に腕を絡ませながら、耶雉はほんの少し拗ねを見せた。
「化粧をしていると、あんなに是愛さまに褒めてもらえるんですから……」
「……妬いているのか?」
「違いますっ、お餅なんてやいてないです!」
本当に言葉の意味が分かっていないのか、故意にそうしているのか。ふいと逸らされる首筋に顔を埋めて、耶雉の耳元を唇で探っていく。
「分かった。どんな姿でも変わらず君を深く想っているか……たくさん伝えていこう」
「……やっぱり、意地悪です」
そう呟いて、是愛の鎖骨に額を預けるようにもたれる。水干を持ち主へ返すため、耶雉はするりと懸緒を引き抜いた……。
了
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