3 / 12
異国の音色
時分は五月雨へと入ろうとして、やや鬱々とした気が都を覆いつつあった。
雨はしとしとと長引き、あちらこちら湿気を帯びて、肌寒い日もあれば蒸し暑さを感じる日さえある。
そんな気候のなか、耶雉の砂色をした癖毛は更にうねりを増す。この長雨は黎星にはない湿り気を運んでくるようだ。どうもそれが気疎くて切ってしまおうかとも思ったが、是愛になんとなく相談した際、あまり前向きな反応でなかったため、一束にするに留めていた。
この天気である。庭へ出る訳にもいかず、耶雉は筆を持って月ノ輪の文字を練習していた。話すこと、読むことはそれなりに得意だが、自ら書くとなると思うようにいかない。玻璃乃が家を出たいま、耶雉がなんらかの対応をすることもある。そうなったときのため、文字の習得は必要であった。
著名な歌人の歌を写し終えると、文机に伏せられた顔が弾くように上がる。そうして馬の尾のごとく毛先を揺らしながら、耶雉は東の対へ駆け出した。
「おかえりなさい!」
「ああ、ただいま」
西の対からやや息を切らしながら向かうと、是愛が沓脱へ上がったところだった。勤めを終えて、丁度戻ったらしい。やはり雨を受けてしまったのか、肩や烏帽子が水分にきらめている。
「すぐに拭くものをお持ちしますね」
「いや、着替えるから構わない。それより……はは」
「はい……?」
是愛は眉間の皺を解き、どこか可笑しそうな顔をしている。やがて首を傾げる耶雉の頬に、すいと手が伸ばされた。元から重たい袂が衣擦れの音をさせて落ちる。
「今日も手習いに励んでいたのだろう? ……墨がついている」
「えっ、あれ、気付きませんでした……ごめんなさい」
「謝ることはない。私はいいから、顔を洗ってきなさい」
その指摘になんだか申し訳なさそうな表情をしながら、耶雉は奥へ消えていく。そんな彼の様子を、是愛は微笑ましく眺めていた。いずれこの邸に一人になると思っていた頃には、こんな明るさと優しさは想像しえなかった。そんなことをふと思いながら、是愛もまた、奥へ向かう。
◆ ◆ ◆
それぞれ身の回りを整え、居間を同じくする西の対へ自然と集う。茵に座る是愛の側へ、耶雉も円座を持って近寄る。すると特に何も言わずに、是愛は余った茵を引き寄せ、円座ではなくそちらへ座るように促した。
「こうも雨が続くと、君も退屈だろう」
「そんな。字の練習もしたいですし、邸のこともありますし」
この邸についていた女房のすみれは、玻璃乃が嫁いだ際に腰元としてついて出てしまった。炊事や警護の者は残っているが、身の回りを整える立場の後続はいまだに迎えていない。
特に彼ら二人してこだわりもなく、後手に回しつつある。……とはいえ、まだ連れ合いとなったばかりだ。二人きりで過ごすことに、なんの不便もないのだろう。
「君がいいなら構わないが。しかし、玻璃乃はそれを許さないらしい」
「玻璃乃さまが?」
そう言うと、是愛は一通の文と包みを差し出した。文はこれといって変わりはないが、包みは平たくも、やたらと大きさがある。
「五月雨の暇つぶしを寄越した。帰路の私をわざわざ車で待ち伏せてな」
「……玻璃乃さま」
気候の鬱陶しさを弾くような浅黄色の文を撫で、耶雉は柔らかく微笑む。かすかに薫るのは玻璃乃が常から焚き染めていた香だろう。離れてまだ数か月というものの、どうも懐かしく感じられて、胸の奥が詰まった。
「僕は本当に幸せ者ですね」
「……そうだ。だから幸せになりなさい」
ふと是愛の温かな手のひらが頭を撫で、耶雉は熱くなった目頭が決壊しないよう、ぐっと堪える。
「……手紙、読んでみますね」
「ああ。これで君に届かなければ、私が叱られるのだから」
「ふふ、はい」
切なさを振り切って文へ目を通す耶雉。やがてその瞳は、先ほどとは打って変わって輝き始める。青い海に陽が射したような、爽やかな色だった。
「わあ……! 是愛さま、すごいんです。玻璃乃さまが、市で海の向こうの楽器を見つけたそうです!」
「ほう、向こうの楽器? ということは、耶雉はそれを扱えるのか?」
「もしかしたら、できるかもしれません。ああ、嬉しいな……」
寄越した包みはどうやらその楽器らしい。是愛と耶雉は思いがけず胸を躍らせながら、それを紐解いていく。
現れるのは平たい長方形の木箱。成人の片腕くらいの長さはあるだろうか。
「この中にあるのだろうか」
「開けてみましょう」
わくわくと言葉を交わしながら、蝶番のついていない部分を持ち上げる。蓋が開くと、白と黒の板が交互に並べられていた。
「どうだ? 知っている楽器だったか?」
「……あはは」
是愛が問うと、耶雉は困ったように眉を垂らして笑う。そして申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんなさい、僕の国の楽器ではなさそうです」
「そうか。それは残念だったな」
「でも……もしかしたら」
「ん……?」
どう鳴らすのか、どんな音がするのか……なにも知らない耶雉ではあるが、ふと表情を和らげると白い板を優しく撫でる。そしてゆっくりそれを押し込んでみると、心が弾むような丸い音が響いた。彼らはその穏やかな音色に顔を見合わせて、小さく微笑んだ。
「黎星国をずっとずっと向こうへ行くと、砂漠という砂の海があるんだそうです」
「砂の海……」
「そしてその砂漠を越えると、水晶のように輝く都があるといいます」
「ほう、そのような国が? では、この楽器は」
白い板を順番に、短く鳴らしていく。初めて耳を揺らす音が妙に心地いい。
「はい、きっとその国のものでしょう。僕、そこにもいつか行ってみたかったんです」
「そうか。君は本当に好奇心が豊かだな」
「え? そ、そうですね……」
「恥じなくていい。そのおかげで私たちは言葉を交わすことができるのだから」
素直な是愛の言葉が、耶雉の心に降り積もる。
「……うまくできているか、分からないですが」
「出来ているさ」
そうは言いのけたものの、是愛は内心で照れくささが勝り、打ち消すように白黒の板を適当に押していく。でたらめな旋律に雨がまじって一種の音曲が作られた。
「雨に、あいますね」
是愛が思い付きで奏でる音に耳を傾けていると、ふいにその流れが止んだ。――唇が、柔らかく重ねられている。
「……いつか、この音色の本物を聴きにいこう」
「え……っ?」
触れただけで離れ、告げられた言葉に目を丸くする。青い瞳が思わず揺れる。
「そんな晩節もいいだろう、君となら」
そしてもう一度重ねられた唇は深く深く甘やかで、やがて耶雉の背は床へと傾けられていく。束ねた毛先がそれに合わせて床を撫でる。目を閉じれば、あの楽器の音色がまだ響いているようだった。
雨は変わらず、大地を濡らしていた。
了
---------
作中の楽器はクラヴィコードという古い鍵盤楽器。
ともだちにシェアしよう!