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八重の夜
薄青い夜の空。
火袋を張られた燭台が等間隔に並び、満開の八重桜を淡く照らしだしている。
八重見の会――夜空に咲く八重桜を、歩き楽しむという場へ、耶雉は招かれていた。初めて見る夜桜、それも八重に咲く見事な景色に、その青い瞳を輝かせる。
「耶雉!」
壺装束の足元も構わず、小走りに駆け寄る少女……いや、女性こそが、彼をこの行事に誘ったのだった。
「ああ、耶雉! 何年ぶりかしら……変わりはない?」
「玻璃乃さま……」
玻璃乃は耶雉に駆け寄ると、すぐにその手を取って握り締める。握る指の強さから、思いが伝わってくるようだ。
「奥方様は、またそんなことを言って。まだ十日と少しですよ」
遅れてやってきた玻璃乃の侍女・すみれが、呆れたように言う。しかしその声も楽し気だった。
「もう、すみれったら……再会を噛みしめている感動的な場面なのに」
やや唇を尖らせながら、玻璃乃は耶雉の手を解放する。そんな変わらぬ彼女を見て、耶雉は微笑んだ。
「玻璃乃さま、素敵な場へ呼んでくださり、ありがとうございます」
「気にしないで。……どうせお父様は、どこにも連れて行ってくれないでしょう?」
こそっと付け加える玻璃乃の背後で、低い咳払いが二度ほど響く。まさか、という顔をして、玻璃乃がゆっくり振り返ると、そこには彼女の実父・是愛が眉間にしわを寄せて仁王立っている。
「お、おとうさま……いらしていたんですのね」
「当然だろう。それにしても玻璃乃、嫁いだというのに、その落ち着きのなさはなんだ」
「今日は特別ですの。阿古屋が、家族水入らずで過ごしてきなさいと言ってくれたんですもの」
一瞬ひるんだ玻璃乃ではあったが、そう堂々と言いのける。そんな玻璃乃に、是愛は短くため息をついたが、やがて「まあいい」と仕切り直した。
「さぁさ皆さま、夜桜を見て回りましょう」
すみれが行燈を持ち、玻璃乃たちを導くように歩み出す。
「そういえば、暗くてよく見えていなかったけれど……」
目が慣れた頃、玻璃乃が耶雉の衣をじっと見つめ、そして流れるように是愛の目を射止めた。
「お父様、耶雉の衣の色、きちんと見てあげなかったのでしょう」
「衣の色……?」
思わぬ話題に、耶雉は首を傾げる。
「月ノ輪では、薄紅の衣を纏っていると、桜が人を攫うと言われているのよ」
真剣にのたまう玻璃乃に、是愛はすかさず言葉を差し込んだ。
「絵物語から尾ひれがついた迷信だ。気にするな」
「まったく、お父様ったら……」
玻璃乃は夢が通じずつまらないと言った様子で、ふいと顔を背ける。その鼻先を、枝から離れたばかりの花びらがひらひらと揺蕩った。
「あら、綺麗な花びら。……阿古屋に持って帰ってあげましょう。すみれ、集めるのを手伝って」
「はい、かしこまりました」
屈んで花びらを懐紙へ集める玻璃乃たちを見て、耶雉は温かな平穏をありがたく思った。
「……耶雉」
「はい?」
是愛が、そっと耳元で彼の名を呼ぶ。それが少しだけくすぐったくて、耶雉は首を竦めながらそちらを向いた。
「…………掴まっていなさい」
「え……?」
驚いて見ると、是愛が腕を差し出している。狩衣のもったりとした袖が、彼の腕に沿って流れる。
「……もしも。もしもの、念のためだ」
――君が攫われないように。
不器用な優しさに、耶雉は花がほころぶような笑顔を、彼に与えた。
「はい……、ずっと」
腕を絡めて見上げる桜は、格別に美しい。
「この幸せが、八重に続きますように」
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