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第2話 バルドウィン
熱い、熱い。まるで体が焼けるように熱い。バルドウィンは無意識に床に深い爪痕を残した。ひどい嘔吐感が襲ってくる。
「ウゥッ、グッ」
「エドガー!波が来たようだ。バルドウィンを早くケージ に!」
「はい、旦那様」
当主の叫ぶ声が遠くに聞こえてくる。走り回る執事の足音、重たい鎖が首輪につなげられた。引きずられるようにして三階へと移動させられる。古めかしい扉の内側には最新のエアカーテンが設置してあり、部屋の中の匂いが一切外へと出ないように作られている。
『ああ、そうだ今日は月が近い』バルドウィンは遠くなりそうな意識の中で月の満ち欠けの周期を思い出していた。
隔離された部屋に押し込められてからすぐにそれはやってきた。めりめりと音を立てて体が引き千切られる。背骨が真っ直ぐに立ち上がり背が少しずつ伸びていく、手脚がみしみしと音を立てて太くなる。指がまるで生えるかのように伸びていく。肩で大きく息をする。酸素が足りない、呼吸が追いついていないのだ。荒い呼吸を何度も繰り返し、ようやく広がった肺いっぱいに酸素を取り込んだ。
ぐらりと大きく揺れると二本の脚で立ち上がったバルドウィンは漆黒の美しい髪を持つ青年の姿をしていた。髪は烏の濡れ羽色、肌は深い黒。二度、三度軽く首を左右に振ると、ばらばらになり自由に動くようになった指でその長い髪をかき上げた。絹糸のような美しい髪がはらりと一本冷たい床に落ちた。こうやって人に似た形なりをしていても髪の間から天に向って立つ黒い耳が異形のものであると物語っている。
部屋と呼ぶにはあまりにもお粗末な内装。打ちっぱなしのコンクリートに天井から床まで太い鉄の柵がある。高い位置にある窓が一つ、かろうじて外の明りを届けてくれる。夜になれば月の明りが漏れてくるだろう。曇りでもしていてくれれば多少は苦しみも違うのにとバルドウィンは苦々しく思った。自分では制御できない大きなうねりが襲ってくるのだ。誰でも良い、枯渇したこの体を満たしてくれと。目の前にある鉄格子に手をかけてみる。コンクリートに打ち付けられた鉄の棒はびくりともしない。グルッと喉が鳴る。
「また苦しく長い夜になるな」
世界一美しい種族と呼ばれ神と崇められていた時代もあった。しかしその強靱すぎる肉体、そして気位の高さが仇をなした。いつしか悪魔と恐れられるようになり、排除されるべきものと位置づけられた。一度崩れた人間との関係はこじれにこじれた。諍いの中、銃器を持たない仲間は少しずつ灰へと変わっていった。バルドウィンはただ独り取り残され孤児となった。嵐の夜凍えていた幼い彼を引き取り育ててくれたのは単なるこの館の主の気まぐれだったのだろうか。
『バル、苦しみの先には光がある。この世に生を受けた意味を知る日が必ず来る』
誰の言葉だったのだろう、亡き父親かそれとも他の誰かなのか。ぼんやりと考えごとをしていた時、びくりと耳が動いた。タイヤが砂利をかむ音がした。そして玄関の扉の開く音。館に満ちていた空気の流れが暖かく柔らかくなるのがわかる。
「ああ、フィデリオの匂いがする。帰ってきたのか」
色を持たないあの少年のことを考えるたびに体が震える。理由も分からないのにただ欠け落ちた自分の心がそこにあるのだと細胞のひとつひとつが告げてくるのだ。
少しだけ開いた天窓から風が吹き込み牢獄のような部屋の中に外の空気を運んできた。その風に吹かれ床に抜け落ちた一本の髪の毛がまるで意思をもってでもいるかのように微かに動いた。その髪を指先でつまみ上げると窓の隙間から外へと落とした。長い黒髪はふわりと舞い、玄関に入ろうとしていたフィデリオのもとへと落ちていった。
その髪が肩に落ちた瞬間フィデリオは肩を強く上から叩かれたかのように崩れ落ち座り込んだ。不安げな瞳で空を見上げたその赤い瞳は窓からのぞく強い力を持った黒い瞳にしっかりと捉えられていた。フィデリオには見えてはいなかったが、バルドウィンにはしっかりと見えていた。二人の視線が偶然に絡んだその瞬間、フィデリオは館の中から雄叫びを聞いた。
「エドガー?今の声は?あれは何?」
「坊っちゃまには何か聞こえましたか?私には林の木々が風で唸るのが聞こえましたが」
「そう」
あれは風に吹かれた木が立てた音ではない。確かに館の中から苦しそうな咆哮が聞こえたのだ。あれは助けを求める声、そして自由を求める祈りだった。
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