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第3話 覚醒

 帰宅したときにエントランスで聞こえたのは、一体何だったのだろうかと考えた。誰かの叫び声のようだったとあの声に想いを馳せた瞬間にフィデリオの左の肩がずくずくと痛んだ。慌てて痛む肩を押さえた。  「何?これ……」  指先に触れたのは長い黒髪。  「え?」  トーマスの髪は赤茶色の巻き毛、エドガーの髪は短いグレーだ。こんな長い黒髪は見たこともない。その細い黒髪を手に取り見つめる。誰のものなのか?  聞こえる。  ……聞こえる。  「誰?」  間違いなく誰かに呼ばれている。今日帰ってきたときに聞こえたのはやはり風の音ではなかった。あれは助いを求める誰かの声だ。誰かが、いるはずのない誰かがこの屋敷にいるということなのだ。けれどもエドガーのあの返答を思い出しても触れていけないことなのだと分かる。誰にも訪ねることは許されないことだと不思議と理解していた。  夜の帳が下りるのを待つ。時間の進みがこれほど遅く感じられたのは初めてだった。夜中に部屋を出て屋敷内を歩き回ることはきつく父より禁止されていた。一度自室へ入ったら朝まで出てはならないという決まりを十五年間守り続けてきた。けれども今日はその約束を守ることはどうしてもできなかった。音を立てないように静かに扉を閉じ、足音を殺して三階を目指して歩く。玄関の真上にある部屋、あの部屋だとどうしてか確信があった。三階には執事の部屋と父の部屋、そして鍵のかかった重い扉の部屋がある。立ち入ってはならないという禁じられた部屋。  そこに誰かがいる。  心臓が速度を上げてリズムを刻み始めた。屋敷中にその音が響いているのではないかと思うほど強く速く。幼い頃怖くて近寄ることさえ出来なかったその扉がまるで手招いているようだった。強い磁石にひかれる金属のようにずるずると引き寄せられていく。  扉まであと少しというところで鳩尾を重たい拳で殴られたような衝撃を受けた。ぐっと体を二つに折る。制御できない感覚が体中を駆ける。その部屋から外に漏れているのは強い香り。頭の芯までくらくらとする強い香り。まるでアルコールに酔ったように足元がふらつく。一呼吸ごとにその香りが脳を痺れさせ体を蝕む。一度も嗅いだことない……いや、この匂いを知っている。夢の中で何度も探した不思議な花の香りだ。  「だ、れか、いるの?」  普通の人には聞き取れない小さい掠れ声で扉の向こうへと声をかける。囁くようなその声はこの重たい扉の奥まで届くはずはない。しかしバルドウィンのその耳はその声をしっかりと捉えていた。人の耳には届かない声もよく通る拡声機を通したようにバルドウィンには分かるのだ。小さな鍵穴から漏れる香りが強くなる。あまりにも強いその香りに呼吸さえ出来なくなりフィデリオは崩れるように床に倒れた。今まで一度も経験したことのない強い衝動に目眩を起こした。  ここで意識を手放すわけにはいかない。万一、父に知られたら。部屋からでないというたったひとつだけの約束さえ守れない息子だと思われてします。そうしたら生きはていけない。這ってでも部屋に戻らなくてはならない。立ち上がりこの場をすぐに去らなくてはならない。そう思うが、まるで足が床に釘で打ち付けられたようにびくとも動かない。  どう命令しても自分の体が言うことをきかないのだ。  「たすけ、て」  消えてしまいそうな小さな声誰かに助けを求めた。次の瞬間ガラスの割れる音が屋敷中に響いた。一階の防犯ベルがけたたましく鳴る。体を支配していたあの香りが消え、我に返ったフィデリオは慌てて自分の部屋へと駆け戻った。  何が起きたのか理解はしていなかったが、やってはいけないことを自分がやってしまったということだけはしっかりと理解していた。両手でしっかりと寝間着の胸元をつかむ。呼吸がどんどんと速くなり過呼吸を起こす。廊下をばたばたと走り回る足音がする。意識が霞む、このまま目を閉じてしまえば全てが終わる気がしていた。  苦しい、ベッドに体を横たえる。過呼吸により霞んでゆく意識のなか黒い影が覆い被さってくるのが見えた。短く速い呼吸を繰り返すその口は柔らかい何かによって塞がれた。背中を上下する優しい手、二酸化炭素混じりの呼気、肺に取り込みすぎていた酸素は緩和され呼吸はだんだんと穏やかになっていった。  「なっ!」  気がつくと目の前にあるのは美しい獣の瞳と耳を持つ男の顔だった。驚いて大きな声をあげたフィデリオの口に指をあて静かにするようにとその男は制した。  「坊ちゃま、大丈夫ですか?」  エドガーの声が外から聞こえる。  「だ、大丈夫だ。あの警報は」  「何でもございません。お休みくださいませ。ああ、部屋の鍵は何があっても決してお開けになりませんよう」  「わかった。おやすみエドガー」    足音が遠くなるのを待つ。目の前にいるのは一度も会ったこともない知らない男だ。けれどその男の瞳は何故か懐かしい光を放っていた。

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