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*  家に着いたころには、暗くなってしまっていた。  志鶴は家に帰るなり、寝室へむかってゆく。そして、部屋の片隅にあるチェストから、あの錆びた懐中時計を引っ張り出した。 「……」  志鶴は懐中時計を見つめながら、海に言われた言葉を思い出す。  海の言葉は、ほとんど図星だった。「時が止まっている」という感覚は正直なところあまりわからないが、自分のことに興味がないというのはその通りだ。何かに興味を抱くということもなければ、求めるものもない。すっかり人間らしい欲求を失ってしまっているので、それがもしかしたら海には時が止まっているという風に感じたのだろう。  しかし、事実を突きつけられたところで、志鶴はそれすらもどうでもよかった。それなのに海に暴言を吐いてしまったのは――自分でもよくわかっていなかったところを突かれて、動揺してしまったからだ。  海は、今までの志鶴とのセックスに虚しさを感じていたという。一方的な行為で、心も体もつながっていないようなものに思っていた――彼はそう言っていた。実際に、志鶴は海とのセックスはそのつもりでやっていた。生物の本能としての性欲はあれど、それ以上のものを海に向けるつもりなどなかったし、ただ海にとっての慰めになればいいと、彼に奉仕をし続けた。そのため、それが嫌だったと言われればそれまでのはずだが……志鶴は、海の言葉に傷ついている自分がいることに、驚いてしまったのである。  海のことを、可愛いと思うことがあった。先ほど店の中で、無性に唇を奪いたいと思ってしまったくらいには。セックスをしているときも、最近の海がなんとかして自分に奉仕をしようとしてくれている姿に、興奮もしていたし愛くるしいとも思っていた。  ――知らないうちに、海のことを好きになっていた。そう気づいたのは、つい先ほど。海が泣きそうな顔をして、自分たちのセックスを「虚しい」と訴えてきた、あの瞬間だ。海とのセックスはあくまで彼への奉仕を目的としてやろうと思っていたその裏側で、本当は彼とのセックスが好きだったし、彼のことが可愛くて仕方なかった。自分自身でも気付いていなかったその想いを否定されて、志鶴は自分をコントロールできないくらいにショックを受けてしまったのだ。 「……ばかばかしい」  どこから間違ってしまったのか、それがわからない。もしかしたら、全てが間違いだったのかもしれない。そんなことを思う。  錆びた懐中時計。指し示す時刻は、午前一時五十九分。志鶴が中学生の頃、父親が息を引き取った時刻だ。  あの日、自分は幸せになるべき人間ではないと悟った。人を愛する資格も人に愛される資格もないのだと、そう思った。海の言葉を借りれば、あの日――時が、止まったのだろう。  志鶴は懐中時計を片手に、再び外に出る。ほんの一瞬でも時を取り戻そうとした自分に、今度こそけじめをつけるため。

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