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 俺が十歳だった頃のことだ。その日、珍しく父が家に帰ってきていた。母は用事があるということで外出していたので、その時は父と家に二人きりだった。 『どこか、行きたいところはあるか』  二人きりの沈黙の空間に耐えられなかったのだろう。父がそんなことを言ってきた。俺は父と何を話せばいいのかもわからなかったし、正直父と二人きりでどこかへ行きたいという気持ちもなかったが、彼の誘いを無碍にするのも憚られたので、「えっと……」ととりあえず行先に迷うふりをした。行きたい場所は、なかった。俺はあまり物欲がない子供だったので買い物に行きたいとも思わなかったし、父と一緒に公園や遊園地に行ってもつまらないだろうと思ってしまっていたのだ。 『じゃあ……適当に、散歩とか……』  どうしても行先が思い浮かばなくて絞り出した答えがこれだった。しかし、俺の粗末なこの答えも、今思えば彼は嬉しかったのかもしれない。彼はほんの少しだけそわそわとしたように視線を泳がせて、「行こうか」と読んでいた新聞を畳み、立ち上がった。  散歩と言うと、行ける範囲は限られていた。俺の実家は東京とはいっても辺鄙なところにあり、近所にあるとすれば小さな商店街くらいしかない。そんな、話題の種にもならない場所を無口の父と共に散歩をするのは苦痛だった。行く当てもなく、ただ歩きながら、会話もない。こんなにも退屈で息苦しい時間を過ごすくらいなら、家でゲームでもしていたほうがいくらかましだった、と俺は父に対して苛立ちを覚えていた。  三十分ほど歩いたころ、商店街にたどり着いた。商店街とは言っても立派なものではなくて、人通りも少ない寂れた商店街だ。相変わらず会話はほとんど出てこなかったが、俺は一方的に感じていた気まずさを払拭するために、目についた店に興味を持ったふりをした。 『あの店……入ってみたい』 『あの店?』  指を差した先にあったのは、時計屋だった。少し古ぼけた小さな建物で、扉だけがガラス張りになっている。「スーヴニール」というらしいその店は、他の店とは少し変わった雰囲気を醸し出していた。  俺は特に時計には興味がない。そのため、その店が時計屋だと気付いてから、少しばかり焦ってしまったが、まるで映画にでてくる不思議な店のような風貌のその店に、じわじわと興味を抱き始めたのを覚えている。  扉を開けると、カランカランとベルの音が鳴る。カウンターの奥に座っていた店主らしきしわしわの顔をした男が、ちらりとこちらを見た。彼は俺たちに何も声をかけはしなかったが、微かに目を細めて、会釈をしてきた。  店の中には、壁掛け時計のほか、ショーケースの中に腕時計がたくさん展示されていた。どれもが子供の俺には想像できないような金額がつけられていて、俺はすぐに「場違いのところに来てしまった」と思った。  父は、何も言わずに俺の隣をついて回る。「やっぱり外に出たい」と言える雰囲気でもなく、俺は価値もわからない時計を眺めて、時計に興味があるふりを続けた。 『――時計が、好きなんですか』 『うわっ』  そうすると、いつのまにか近くまでやってきていた店主が、俺に声をかけてきた。突然のことだったので、俺は驚いて声をあげてしまったが、彼は穏やかな目で俺を見つめている。彼は店に入った時に声もかけてこなかったので不愛想だとばかり思っていたが、近くで見て見ると優しい目をしていた。 『え、えっと……』 『そのあたりにあるものは、難しいでしょう。あっちにあるものなんて、どうですか』 『え?』  店主は、俺が腕時計に全く興味を持てないでいたことに気付いていたらしい。俺は気まずくなったが、彼に素直に従って、そのあとをついてゆく。 『うわ……』  連れて行かれたのは、店の壁際に寄せてあったショーケース。そこに並べられていたのは、たくさんの懐中時計だった。 『……!』  それらに興味を持てたのか、といえばそうではないかもしれない。しかし、まるで魔法の道具のような形をしたそれらに、少しばかり目を奪われた。時計といえば壁掛け時計か腕時計しか知らなかったので、こういった形のものがあるのかと、驚いたのだ。 『おもしろい形をしているでしょう。私の孫も腕時計には全然興味がなかったのに、懐中時計には興味を持って。きっときみならば、こういう時計が好きなのかなと思ったんです』 『そう……ですか』  父と二人きりの散歩で疲れ切っていた俺は、せっかくの彼の言葉にも投げやりな返事をしてしまった。しかし、彼の言葉はなんとなく理解できる。たしかに、懐中時計はどことなくおもちゃのような形をしているので、他の時計に比べると、かっこいいように思えたのだ。 『これは……午前と午後がわかるようになっている時計です。ほら、ここに太陽の絵が描いてあるでしょう。ここが午後になると、月の絵に変わるんです』 『へえ……』  俺が目に止めたのは、太陽と月の絵によって午前か午後かわかるようになっている懐中時計。ただ単純に、太陽の絵が描いてあるのが気になっただけかもしれない。それでも、独特の雰囲気を纏うその時計は――一番、輝いて見えた。 『――それが欲しいのか』 『えっ』  今まで黙り込んでいた父が、俺に声をかけてくる。欲しいか欲しくないかで言えば、俺はその時計が欲しかった。しかし、その時計の値段は俺が持っているおもちゃのどれよりも高くて、気軽に「欲しい」など言えるようなものではない。 『欲しいなら、買ってやるぞ』 『えっ……』  いつものように、厳つい声で父が話す。かえって断りづらい雰囲気だったので、俺は欲しいはずなのに渋々頷いた。突発的になんとなく欲しいと思っただけの熱意は、やはりその時計の金額には見合っていなかったのだ。  俺がなんともいえない気持ちを抱えているうちに、店主がショーケースからその時計を取り出してしまう。結果的には高額のものをねだった形になってしまったので、俺は後悔した。「やっぱりいらない」と何度も言おうと思ったが、ポケットからごそごそと財布を取り出そうとしている父を見ていると、言えなかった。その姿が、少しだけ嬉しそうだったのだ。  カウンターまで行くと、いかにも高級な匂いのする箱に入った懐中時計がそこにはあった。本当にこんなに高いものを買ってもらってしまってよかったのだろうかと、血の気が引いていくようで、ぐらぐらと目眩がする。 『よいものを買ってもらいましたね』 『え……』  胃が痛くなってきたあたりで、店主が俺に話しかけてきた。顔をあげれば、彼がにっこりと微笑んでいる。目じりや口元のしわが一層深くなっていた。 『懐中時計は、ずっとずっと使っていられるものです。大切にしてあげれば、あなたが大人になっても、おじいさんになっても、ずっとあなたの傍で時を刻み続けてくれます。だから、使い続けてあげるほど、この時計はあなたにとって大切なものになっていくでしょう』 『――……』 『はじめましてだと、少しこそばゆいかもしれませんがね、ふふ』  彼の言葉を聞いて、俺は改めてその時計を視界にいれた。  ぴかぴかとした、金色の時計。俺の身の丈には合わないような気がしてならなかったが、大人になって、年寄りになった時には……この時計が、似合う人になっているのだろうか。この時計は、ずっと俺の人生に寄り添い続けるものになるのだろうか。 『志鶴』  父が俺の名を呼ぶ。そして、遠慮がちに、ぽんと俺の頭に手のひらを乗せた。 『……よかったな』  買ってくれたのは父なのに、当の父は他人事のようにそんなことを言った。なぜそのような言い方をしたのか、それが俺には理解できなかったが、物心がついてからはきっと初めて触れた父の手のひらが、思ったよりも大きくて、柔らかくて、温かかったことに驚いて、俺は頭が真っ白になってしまった。 『……うん』  俺はそう返すので精一杯だった。そして、初めて父から買ってもらったその時計を、噛み締めるように胸に抱く。父のことは苦手で、何を考えているのかわからなくて、できればあまり一緒にいたくないなんて思っていたのに、そんな父からこの懐中時計を買ってもらったことがたまらなく嬉しかったのだ。

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