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 母から話を聞いてから約一か月、父が帰宅する日がやってきた。その日、俺は寄り道をせずに学校からまっすぐに家に帰った。父に会いたかったわけではないが、心が落ち着かなくて外でふらふらとする気分になれなかったのである。それに、その日は雨も降っていた。  帰ったら何を言われるのだろう。久しぶりの再会の言葉でもくれるのだろうか。父親のように「元気だったか」なんて言ってくるのだろうか。  どきどきしながら、家に到着した。玄関を入ると、見慣れない革靴が一足、置いてある。父の靴だ――そうわかった瞬間、ドッ、と心臓が高鳴るのがわかった。  あまりの緊張に息苦しささえも覚えながら、リビングへ近づいてゆく。中からは、母が楽しそうに何かを話しているのが聞こえてきた。そして、その合間合間に、ぶっきらぼうな相槌が挟まれている。扉の向こうに父がいる、そう考えるとさっと血が引いてゆくような気がした。  恐る恐る、扉を開ける。そうすれば、真っ先に母が「おかえり!」と声をかけてきた。そして、こちらに背中を見せている、ずんぐりむっくりとした熊のような体系の男がのそりと振り向く。父だ。まぎれもなく、そこに父がいる。 『あ、……』  俺は父に何を言えばいいのか迷って、黙り込んでしまう。おかえり? ひさしぶり? いや、それよりも色々と文句が言いたいような。逆に言う言葉もないような。たくさんの言葉がこみ上げてきて、喉のあたりで滞留して出てこない。 『志鶴、おかえり』 『……』  しかし、父は何事もなかったようにそう言った。母と、同じトーンで。  その瞬間、俺はぷちんと何かが切れてしまって、返事もせずに自分の部屋に向かって走り出してしまった。何に苛立ったのか、自分でもよくわからない。こんなにも父のことで何年もぐるぐると悩んできたのに、あまりにも平然と声をかけられたのが、むかついたのかもしれない。今までの生活のストレスでおかしくなっていたのもあって、俺は自分自身でもよくわからないままに癇癪を起してしまっていた。「志鶴?」と心配そうに声をかけてきたのが母だけだったのが、余計に惨めになった。  自分の部屋に飛び込んで、俺はまず父に買ってもらった懐中時計を引っ張り出した。相変わらず箱に入れっぱなしのそれは、新品のようにぴかぴかとしていて綺麗だ。この時計を買ったときの、いそいそと嬉しそうにしていた父の姿を思い出して、ぐ、と目頭が熱くなる。いろんな感情がぐちゃぐちゃと泥のように混ざり合って、ぼたぼたと涙があふれてくる。父が家族のために働いてきていることなんて知っているし、もともと父は口下手な人だなんてことも知っているし、自分のことを大切にしてくれていることだって知っている。全部ぜんぶわかっているのに、俺は子供で、それらに納得することができない。  父のことが、嫌いだ。大嫌いだ。なぜ嫌いなのかわからないけれど、嫌い。だって、ずっと寂しかった。  窓を開ける。ざあ、とうるさい雨音が聞こえてきた。俺は外に向かって、懐中時計を投げ捨てる。ぼさ、と音がして、裏庭の植木の中に落ちていった。 『……』  もはや何が哀しいのかもわからないまま、泣き続けてしまう。父のことを嫌っている自分が、泣いている自分が惨めでなさけなくて、それで余計に哀しくなって。ただ一言、「おかえりなさい」の言葉を父にかけてあげることもできない自分が嫌で。どうしてこんな風になってしまんだろう、とそれだけがぐるぐると回り続けている。 『――志鶴?』  そのとき、こんこんと扉をノックする音が聞こえてきた。父の声だった。  何をしに来たのか、それは父の声色で判断できた。父はいつもとぼけたような声で話すが、今、俺の名を呼んだ父の声は、優しい父親の声をしていた。わずか、不安げな色も混じっている。俺との対話の仕方がわからない父が、それでも俺の様子を心配に思って来てくれたのだ。  俺はそれくらいわかったが、そこでなぜか意地を張ってしまっていた。本当は父が帰ってきてくれて嬉しいのに、こうして話に来てくれて本当に嬉しいのに、子供の俺は意地を張ってしまっていたのだ。 『……志鶴、入るぞ?』  がちゃ、と扉が開く。すぐに涙を服の袖で拭ったが、父と目が合った瞬間にぼろっと大粒の涙が零れ落ちた。俺は恥ずかしくなって、勢いよく駆け出すと父を突き飛ばして部屋を飛び出す。そして、そのまま家を飛び出した。 『――志鶴!』  咄嗟に叫んだ父の声を聞いた。初めて、父が取り乱した声を聞いた。  ああ、こうして家を飛び出せば、俺を見てくれるのか。そんな幼い喜びに、心が支配される。  俺は寂しかったんだ、ずっと寂しかったんだ。だから、あんたも少しくらい困ってしまえ。  雨に打たれながら、宛てもなく走る。涙が隠れるのが、心地よかった。

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