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 闇雲に走り続けて、どのくらい経っただろうか。夕方になり、空が暗くなってきた。どしゃぶりの雨のせいで視界は悪く、なんとなく、世界の外側へ追い出されたような感覚を抱く。財布も携帯電話も持ってきていなかったので、本当に行くあてがない。しかし、家に戻るのも恥ずかしかったので、どこかで休もうとふらふらと歩き続ける。  無意識に向かっていたのは、あの商店街だった。それがなぜなのかはわからない。商店街はアーケードとまではいかずとも小さな傘がついているので、そこを雨宿りの頼りにしていたのかもしれない。もしくは、唯一父との思い出がある場所に、惹かれていたのかもしれない。  全身ずぶぬれになりながら、ようやく商店街が見えてくる。もう空はかなり暗くなっていて、街灯がつき始めた。横断歩道を渡れば向かいの商店街にたどり着く、というところまできて、俺を呼ぶ声が聞こえてくる。 『――志鶴……!』  振り向けば、傘を握り締めた父がこちらに向かって走ってきていた。ぜえぜえと息をきらして、熊のような体を揺らしながら、必死に走っている。俺は咄嗟に駆け出した。つかまるのがいやだったのか、もっと父に心配をかけたかったのか、それはわからない。がむしゃらに、走り出していた。 『志鶴――……!!』  そのとき、ゾワ、と心臓が縮むような感覚を覚えた。すぐ近くに、何かが迫っている。ちか、と視界に無機質な光が走り、耳をつんざくようなクラクションが聞こえてくる。振り向いた時には巨大なトラックが目前まで迫っていて、その瞬間に抱いた死の幻想に脚が竦んで動けなくなった。  ああ、死ぬんだ。そう思った。  しかし、強い衝撃が体に走ったかと思ったが、その痛みはそれほどではなかった。いつの間にか俺は道路の外側に倒れていて、トラックには轢かれなかった。しかし―― 『……父さん?』   俺の代わりに、父がトラックに轢かれてしまっていた。道路の真ん中に、血に濡れた父が倒れている。慌ててトラックから降りてきた運転手が父に駆け寄って、声をかけている。 『父さん、』  ふらふらと父に近づいていき、しゃがみこむ。折れた傘と、父が持っていたと思われる携帯電話がすぐ近くに転がっていた。真っ白な頭で、しかしどこか冷静に、誰かに連絡をしなければとその携帯電話を手に取る。恐怖とすさまじい後悔、たくさんの絶望が押し寄せてきて、手が震えてしまう。吐き気がしてきて、今にも倒れそうだ。運転手の人が真っ青な顔で『僕が救急車をよぶから、きみは110番してくれないか』と言ってきたので、ようやく携帯電話を開いて言われた通りの番号を押そうとする。 『あ……』  携帯電話の待受画面を見て、ぼろぼろと涙があふれてきた。そこには、俺と母の笑顔の写真が写っていた。  どうしてこんな人が死ななければいけないのだろう。どうして俺はこんな人の愛に向き合うことができなかったのだろう。父が家族を愛していたことは知っていたはずなのに、ただ父は口下手なだけだったのに、それをわかっていたのに。どうして意地を張って、せめて「寂しい」と伝えることもできずに、会話をすることもなく、父から逃げ出したのだろう。ほんの少ししかない父との思い出の中でも、父は俺を愛してくれていたのに。  がたがたと痙攣する指でなんとか警察へ電話をする。みるみるうちに父の体から流れる血が道路を赤く染めてゆく。一縷の望みよりも儚く、夜嵐の中の蜘蛛の糸よりも脆く、希望などどこにもない光景に目が留められる。嗚咽をあげれば息が苦しくなり、指先が震えて携帯電話を落としそうになる。繋がった瞬間、俺は心臓がぎゅうっと締め付けられて、叫ぶようにして言う。 『た、……助けてください。助けてください、父さんが……父さんが、死んじゃう……‼ お願いします、助けてください‼』  叫ぶ俺を見て、運転手が顔を引きつらせる。俺が、自分が轢いてしまった人の子供だとわかり、絶望したようだった。  父は、ぐったりとしたまま動かない。けたたましく鳴り響くサイレンの音に、身を切らせそうだった。

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