65 / 81

26

 父はすぐに病院に搬送され治療を受けたが、なかなか意識は戻らなかった。連絡を受けた母も病院までやってきていたが、回復は絶望的という父の状態に乱心してしまっていた。気を紛らわせたいのか俺にひたすらに話しかけてきたが、言っていることがぐちゃぐちゃでよくわからなかった。けれど、母がこうなるのは当然のことなのだ。母は、父のことを愛していた。  父は、昔から口下手だった。加えて顔が厳つく体型も熊のようなので、寡黙で近寄りがたい雰囲気を持っている人だった。しかし母は、父は昔からそうなのだ、といつも苦笑して俺に惚気ていた。二人の間にはたしかに愛があって、そして二人はたしかに俺のことを愛していた。父は子供との接し方がわからなかったので、いつも俺の前では狼狽えるばかりでろくに話しかけてこなかったが、顔や言葉にでない俺への愛情は、たしかに俺は気付いていたはずだった。あの懐中時計を買ってくれた時だって、それまでなかなか接することができないでいた俺に初めて一緒に選んでプレゼントを買ってあげるということが、本当に嬉しかったのだろう。「よかったな」なんて他人事のように言って、まるで自分は父親らしいことはできていないと後ろめたい気持ちをもっている風だったが、あの時計を買った帰りの父が少しだけ……いや、彼にしてはかなり、にこにこと楽しそうに笑っていたのを、覚えている。  どうして、そんな父の愛に気付かないふりをし続けたのだろう。その行為に、なんの意味があったというのだろう。ただの子供染みた感情のせいで、どれほどのものを失ったというのだろう。  父は――午前一時五十九分に息を引き取った。トラックにはねられてからたったの一度も目を覚ますことがなく、逝ってしまった。  父が亡くなったその瞬間、母は泣き崩れた。今まで、必死に父の回復を祈り、希望を捨てずにい続けていた母は、今までみたことがないほどに取り乱し、声をあげて泣いてしまっていた。父は俺のせいで死んだも同然で、母にどんな言葉をかければいいのかもわからなくて、俺は茫然と泣き崩れる母を見下ろすことしかできなかった。俺は自分のすべてを責めることでいっぱいいっぱいで、涙を流すことができないでいた。  その折、母はぼろぼろと涙を流しながら俺に言った。 『志鶴が出ていったりしなければ、あのひとは生きていられたのに――……!』  母はあまりのショックに、咄嗟にその言葉が出てしまったのだろう。言い切った後、看護師に窘められると、ハッと息を呑んで、慌てて俺を見上げる。そして、「今のは、ちがうの」と何度も、声をひっくり返らせながら俺に訴えてきた。そして、床に頭を擦りつけるようにして、俺に謝ってきた。  しかし、母の叫びこそが、彼女の本音なのだろう。俺は反論することもできず、ただその言葉を受け止めることしかできなかった。  俺は、俺を愛してくれていた人の愛を無碍にして、そして大切な人にとっての大切な人を奪ってしまったのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。  俺は母が落ち着きを取り戻したころに、ようやく泣くことができた。最後に握った父の手は冷たかったが、あの日――時計屋で俺の頭を撫でたあの手のひらのように、大きくて柔らかかった。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!