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「それより、時計です時計。さあ、あっちへ」  撫で繰り回された海はふるふると顔を振って志鶴の手を跳ねのけた。母親の登場ですっかり飛んでいたが、懐中時計を受け取りに来たのだと、志鶴は思い出す。 「パーツの取り寄せに思った以上に時間がかかって……ひやひやしました。留学前に完了できてよかった」 「あれ、留学いつから?」 「来週です」 「うわ、ぎりぎりだったね。でもべつに、急ぎじゃないし大丈夫だったんだけど」  海は来週から、時計の技師としての技術を学ぶために留学することになっていた。短期留学なのでそう長くは不在になるわけではないが、仕事を滞らせておくことが気に入らないらしい海は、志鶴の時計の修理についてはかなり気をもんでいたらしい。腐食が進んだパーツは交換しなければいけないので新しいパーツを取り寄せていたのだが、この懐中時計自体がかなり古いものだったのでなかなかパーツが見つからず、届かなかったらしいのだ。 「留学って……海も十分すごいと思うけど、やっぱりもっと腕をあげたいって思うものなんだね」 「――そうですね。僕はこの時計屋を守っていきたいから、ずっとこの時計屋にいるつもりだし、正直仕事がいっぱいあるわけじゃないから留学までして勉強しにいく必要があるのかと言えば微妙なところですけど……」  留学の話になると、海はふと、自分が留学を決意したときのことを思い出す。  少し前までは、留学になんて興味がなかった。この時計屋で働いていくのに、多額の費用を出してまで留学する必要性はない。海にとって、あくまで技師としての技術は、この時計屋を営んでいくための能力でしかなかった。  そんな考えが変わったのは――志鶴と、恋人になった頃から。 「どうぞ。色々物が置いてありますから、気を付けてください」  海は作業場に志鶴を招き入れると、テーブルを指差した。  作業場のテーブルには、一つの懐中時計が乗っていた。 「――……」  すっかり錆は取り除かれて綺麗になったそれを、志鶴は思わず駆け寄って手に取った。蓋を開けてみれば、――まだ、針は午前一時五十九分をさしている。 「まだ電池入れていないんです。動く瞬間は、志鶴さんにも見てもらいたくて」  海は志鶴から時計を受け取ると、手際よく時計に電池を取り付けた。その様子を、志鶴は息を呑んで見つめている。  カチ、と電池の取り付けが完了する。そして、海は時計を黙って志鶴に手渡した。志鶴は恐る恐る蓋を開け……文字盤を見つめる。  秒針が、動いている。チ、チ、と微かな音を立てて。  志鶴の瞳が震える。再び、我が人生と共に動き出した時計に、志鶴は何を思ったのだろう。見守る海の目は、優しい。 「あ――……、」  志鶴の瞳から涙があふれた瞬間は、時計は午前二時を示していた。午前一時五十九分から、時が進んだその瞬間。彼の中で止まっていた時間が――動き出した、その瞬間だ。 志鶴は時計を握り締め、崩れこむようにして、海に縋り付く。そして――子どものように、泣き始めてしまった。  父と一緒にこの時計を買ったときのことを、思い出す。嬉しそうにしていた父は、ただ、息子の幸せな未来を願っていたのだろう。心の奥に閉じ込めていた錆びついた記憶が再び色付いてゆく。まだ見ぬ未来に、閃光が差す。  あの時計を買ってもらってから、もう十五年以上経ってしまった。けれど、ようやく――あの嬉しそうに笑っていた父の願いを、叶えることができた。そして、その過去を、ようやく志鶴は受け止めることができたのだ。 「――素敵な時計ですね、志鶴さん」  時間がわからなくなってしまった人。進み続ける時間から目を逸らしていた人。そんな人が時を取り戻した瞬間の、静かで心が揺さぶられるほどの激情を、海はその腕の中でずっと見てきた。たった一つの時計が動いただけで、こんなにも人の心には強い光が差す。それを叶えるための技術が、海はもっと欲しかった。海の心を突き動かしたのは、ほかでもない、志鶴だったのだ。  まさか、今泣いている彼は、そんなことはわからないだろう。誰よりも立派な技師になりたいと、そう決意したのは、彼の涙を見たときから。そんなこと――彼がわかるはずもない。海も、特にそれを彼に伝えるつもりはない。 「……うん、――俺の、宝物だ」  海は志鶴を抱きしめて、静かに涙を流す。時計の針は、午前二時一分をさし、刻々と進んでいく。ちゃんと正しい時刻に合わせてあげないとな――と海は、微笑んだ。 ーーfin.

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