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アイチヒロネ

「やばっ……本当に遅刻する!行ってきます!!」  傍に置いていた鞄を掴み玄関まで走り、学校指定の革靴を乱暴に引っ掛けて扉を大きく開け放った。そこからは全速力で足を動かした。嫌々参加させられている追いかけっこで鍛えられた肺活量が、こんなところで役に立ったのが不幸中の幸いだ。  なんとか遅刻ギリギリで学校に着き、教室まで一直線に駆け抜ける。  そして起こるデジャヴ。昨日と同じように俺が教室に入った瞬間に、また部屋中の視線が一斉に向く。けれど昨日と違うのは、今日は俺が来る前から静まり返っていたってことだ。  リンリン、リンリン、と音を鳴らしてたどり着いた自席には既に先客が座っていて。  優雅に足を組んだその仕草から、座っている椅子が使い古された学校の物ではなく、一級品のそれかと見間違えてしまうほど絵になる先輩が手を振る。 「おはようミィちゃん。遅いから迷子の子猫ちゃんになったかと思って、心配した」 「……尋音先輩」 「もし迷子になっても、犬のおまわりさんには頼っちゃ駄目だよ」 「何の冗談ですか、それ」  なんでここにいるんだとか、何を言っているんだとか、聞いても無駄なことはわかっている。尋音先輩の頭の中がおかしいのは、もう痛感済みだ。 「なんて顔してるの。そうだ、ミィちゃんも一緒にお昼寝する?」  地毛だということになっている髪を指に巻き付け、楽しげに遊ぶ先輩。その提案に首を振って断り、持っていた鞄を机の上に乱暴に置く。ドスッという音に、近くにいたクラスメイトの肩が跳ねた。 「俺、いつもの電車を乗り過ごして駅からずっと走って来たんです。疲れてるから、退いてくれませんか?」 「ああ、気づかなくてごめんね。それにしても遅刻しないために走るって、ミィちゃんは偉いね」 「だって俺は先輩と違って、何でも許してもらえないですから。遅刻したら怒られるし、授業サボったら課題を出されるし、髪を染めたら2時間のお説教コースですよ」  嫌味たっぷりに言ってやり、さっきまで先輩が座っていた椅子に腰を下ろす。使用者が変われば、一級品だった椅子が平凡な学校の備品に戻ってしまった。  でも、俺がいくら嫌味を言っても、先輩は何も気にしない。こうして座る場所を奪われて、後輩に立たされているのに不機嫌になったりしない。  見かねた隣の席のやつが自分の椅子を差し出せど、無言の微笑みで制して黙らせるだけだ。 「ミィちゃんは本当に偉いね。電車に乗ってまで学校に来るなんて、すごく偉い」 「偉い偉いって言ってくれますけど、電車通学のやつが殆どですよ。だって車での送迎は禁止されてい……」  禁止されているけど、例外が1人だけ存在する。俺の隣に立って、教室中に緊張感をまき散らす綺麗な蝶々だ。王子様な先輩が、電車で通学なんてありえない。 「ちなみに尋音先輩の通学手段は?」  車ならリムジンだろうか。それともジェット機だったらどうしよう。海を越えてまでここに来る必要はないから、クルーザーという選択肢は除外する。  ここで先輩の口から「自転車だよ」と返って来たら好感度はうなぎ登りするのだが、まあそんなことは絶対ないだろう。  机に頬杖をついて先輩からの返答を待つと、得意の王子スマイルで教えてくれた。 「徒歩。俺の家、ここからそう遠くないからね」 「え。本当に?先輩が歩き??」 「うん。エントランスから車までは歩いてる」  期待した俺がバカだった。 「先輩。それは徒歩通学って言わないです。立派な車通学ですよ」 「そうなの?頼まれるから乗ってるだけなのに、校則違反になるんだ?」  いや、本当この人の考えてることが未知数すぎてわからない。力が抜けて肩を落とす俺に対し、先輩はくすくすと笑う。 「もしかして、髪と同じように、生まれつき足が悪い設定にでもなってるのかな?」    嫉妬するほど長い足をポン、と軽く叩いた先輩に、俺はもう答える気力すらない。それなのに先輩は「どう思う?」って訊ねてくるから、適当に相槌を打ってHRまでの時間をやり過ごした。  この数分間のやり取りの中、先輩が幾度となく俺の胸元を見つめていたのは、気づかなかったことにしたい。

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