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アイチヒロネ

「兄ちゃん、兄ちゃんって愛知の人と会ったことある?」 「愛知?愛知ってどの愛知だ?」  突然訊ねたからか、兄ちゃんが困惑したように俺を見た。そりゃそうだ、いきなり愛知の人って言ったところで、それが人名を指すとは思わないだろう。 「えっと、愛知県じゃなくて。愛知の家の人って意味」 「ああ、あの愛知か……」  他にどの愛知がいるのか知らないけれど、多分その愛知で合っているはずだ。俺が頷くと、テーブルに広げていた新聞に目を落とした兄ちゃんが「そうだな」と口を開く。倣って見たその紙面には、やっぱり愛知の名前が載っていた。 「取引先に招待されたパーティーで、1度だけ見たことがある。愛知の人と言っても、会長でも社長でもなくて、その次だけどな」 「次って、副社長とか?」 「違う違う。息子の方。やたらと綺麗な顔をした男がいるなと思ったら、愛知のご子息様でさ。周りにゲスな顔をした大人を、うようよと侍らせてた」  兄ちゃんの口から出た話は、紛れもなく尋音先輩のことだろう。綺麗な蝶々に惹かれる人間は、何も俺だけじゃない。寧ろ魅入らずに済む方が希少だ。 「さすが大財閥の跡取り息子だけあるよなって感じたね。優秀だと噂では聞いてたけれど、想像以上だった。俺、あの若さであれだけ堂々としたやつは見たことがない」 「うちとは次元が違うってことか……」 「そういやお前と同世代だったな。でもな未伊。残念ながら、うちは大企業とは言えないからな。ささやかな幸せを噛みしめながら、ちょっと値段の張る牛肉に激しく喜ぶレベルだ」  哀愁を漂わせて笑う兄ちゃんは、相当疲れているらしい。尋音先輩ほどではないにしろ、兄ちゃんにも跡取りという重責があるのだから、それは仕方ないことかもしれない。 「兄ちゃん。もう1つ聞きたいんだけど、その人……愛知尋音さんは、パーティーでおかしなことしてなかった?頭のおかしな発言とか、行動とか。何か気になるようなこと」  例えばその辺の誰かを捕まえて猫になれって言ったり、鈴を着けたり。あの綺麗な手で誘い込んで、優しく笑って奇想天外なことをしていなかったのだろうか。  問うた俺に兄ちゃんが訝しげに眉を寄せる。 「ただ見かけただけだからな。向こうは俺のことを視界にすら入れてないだろうし……。そもそも、おかしなことはないかって聞かれたら、俺からすると今のお前の方がおかしいと思う」 「えっ、な、ななな、なんで?!」  極力動かず、音を立てないようにしていたのに、この鈴がバレてしまったのかもしれない。  それが話題の愛知尋音に着けられた物とは思わなくても、いきなり鈴なんかを身に着けた俺を怪しんでいるのかもしれない。  だって、普通に考えて健全な男子高校生は鈴の付いたものを持ってないだろ。ましてやネックレスだなんて知られたら、本気で怪しまれる。俺の性癖がヤバいと思われてしまう。  ドクドク、と鼓動が早くなるのは心にやましい気持ちがあるからだ。言えない秘密を抱えているからだ。それらを隠すために視線を彷徨わせる俺に向かい、兄ちゃんが壁に掛かった時計を指した。 「このままだと遅刻するんじゃないか?制服を着てるってことは、学校を休むつもりはないんだろ?」  普段よりも15分も遅い時間。駅から電車に乗り、そこから猛ダッシュをしても間に合うかどうかは微妙だ。『遅刻』の2文字が頭の中を飛び交う。

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