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【エゴイストの悩み】めろんぱん
かんかん照りの青空の下、寧ろ害悪にしか感じられないほどの強い日差しを受けてキラキラ輝く水。バシャバシャと音を立てて上がる水飛沫はまるでダイヤモンドのよう。けれどもちろんそれはただの水でしかなく、飛び上がって一瞬の輝きを放ってはプールに再び吸い込まれて消えていく。
大量の儚いダイヤモンドの製造者は、プールの端に指先で触れると顔を出し、ゴーグルと水泳帽を外した。
ああ、今日もカッコいい。
俺は手にした本で顔を隠して、ほうと感嘆のため息を吐いた。
無駄な贅肉の一切ない美しい身体。逆三角形を作る肩から腕のラインは極上。健康的な小麦色に彩られた最高の肉体美の上に乗っかっているハンサムな顔は老若男女問わず魅了する。しかもその中身は全国レベルの水泳選手で、絵に描いたような好青年。
この春に入学してきた波多野の部活の様子をこの木陰からそっと見守るという日課を始めて数ヶ月。カモフラージュのために持ってきている本はちっとも先に進まない。間に挟まれたしおりはまだ序盤の位置にある。内容は、ほとんど覚えていない。
アホらしい、とは一応思っている。
将来も期待される水泳選手の彼と、友達もろくにいない俺。住む世界が違うし、そもそも男同士。俺だってついこの前まで美脚のお姉さんが大好きだったはずなのに、どうしてこうなってしまったかわからない。一目見た瞬間、その真剣でまっすぐな眼差しに射抜かれて、見るたびに好きになっていく。
恋に落ちる、とはよく言ったものだ。
落ちるどころか転げ落ちている。
ああ、アホらしい。
今度は諦念の溜息をついて本に視線を落とすも、ほんの5秒で視線をあげてちらりとプールを見てしまう。
この地獄のような暑さが過ぎ去り、身に纏うものが長袖になるころには水泳部は屋内プールで活動を始めるだろう。そうなったらこうして波多野を見ることもできなくなる。そして次の春、俺はもう卒業してここにはいない。
そうなる前に目に焼き付けておきたかった。
意中の彼は休憩に入るためにタオルを手にし、乱雑に顔と頭を軽く拭いているところだった。
真っ白いタオルから顔を上げた波多野は不意に首を捻ってこちらに視線を向ける。そして視線が合う。同時に俺の心臓はドクンと高鳴る。
なんだ今の、まるで、まるで俺がここにいるの知ってたみたいに。
こんがり焼けた長い足でぺたぺたとプール脇を歩き、俺が座りこんでいる木の前で歩みを止めた。フェンスの向こう、手を伸ばせば触れられそうなところに波多野がいる。彼を見つめ続けて数ヶ月、こんなことは今まで一度だってなかった。
ほんの一瞬。
波多野が俺の目の前で歩みを止めたのは実際にはほんの一瞬だった。だけど確かにその一瞬、波多野は俺を視界に入れた。キリッとした切れ長の瞳の中に、確かに俺はいた。
ドクドクドクと心臓がおかしい動きをする。夏の暑さに負けて壊れてしまったかのように早鐘を打つ。心臓って意外と脆いんだなと思った。それはもはや痛いほどで、俺はギュッと手にした本を握った。
───
偶然だろう。
そう思った俺は翌日、は怖気付いたために水泳部の練習を見に行くのをやめ、翌週からまた同じ場所で水泳部の練習を見に行った。
その日は少し曇っていて、じめっとした空気が気持ち悪かった。
日差しもないのに俺はいつもの木陰に座り込んで、あれから少しだけ読み進めた文庫本を開く。物語は導入部分を過ぎて続きも気になるようになってきていた。それなのに、ザバンとプールに誰かが飛び込む音がすると気になってしまう。
もしかしたら波多野かもしれない。目で追ったら、上がってくる瞬間を見られるかも。なんて考えてしまって、やはりここでは読み進めることができなかった。
目で追いかけた人影がプールから顔を出す。一等速かったそれは予想通り波多野だった。コーチがタイムを告げると拳を天に突き上げ、クシャッと満面の笑みを浮かべる彼。
ああ、きっと自己ベスト。おめでとう。
俺も自然と笑顔になる。
しあわせだ。
こうして遠くからそっと見つめて、こっそり応援して、好成績を勝手に喜ぶ。
そんな利己的で自分勝手な日々は堪らなくしあわせで、それでいて虚しい。
汗と湿気で張り付くシャツが俺を「愚か者め」と嘲笑しているようで気持ち悪かった。
───
そんな日々は、唐突に終わりを告げた。
「先輩、いつもここにいますよね。」
という一声によって。
初めて聞いた声は想像よりも低かった。落ち着いた静かな声で、ちょっと掠れた男らしい声。
俺は恋い焦がれた波多野が目の前にいる事実に耐えきれず、うんともすんとも返事ができなかった。う、とかあ、とか意味を持たない母音だけが口から勝手にこぼれていく。
額を滑り落ちる汗は暑いからなのかそれとも冷や汗なのか区別がつかなかった。
恋い焦がれる、ああやっぱり日本語って上手いこと言っている。きっと俺の心臓は恋の熱に焦げて壊れてしまったんだ。
あれ、そういえばどうして波多野は俺が先輩だってことを知っているんだろう。
カシャン、と響いたのはフェンスの音だ。目の前のフェンスにかけられた手。節くれだった不器用そうな太い指。
「ヒッ…ごめ、」
ストーカーみたいなことをしてごめんなさい、そう言うつもりだったのに。顔を出したのは、その手に触れたい、だ。今この状況で思うにはあまりに軽薄な欲望。それはきっと現実逃避だ。愛しい彼から発せられるだろう凄惨な言葉から耳を塞ぐための。
「ねぇ先輩、名前は?」
「う、海沢…」
「海沢先輩、今度の大会応援に来てよ。」
んっ?
俺は耳を疑った。
恐怖にギュッと閉じてしまった目をそーっと開く。ずっと遠くから眺めるばかりで、波多野の顔をこんな間近に見たのは初めてだ。
射抜くような強い眼差しが真っ直ぐに俺を捉えている。健康的に焼けた小麦色の肌に滴り落ちる水が妙な色気を醸し出している。一生懸命に練習してきた証であるその姿にあらぬ妄想を抱いてしまったことが恥ずかしくて、俺はサッと視線を逸らした。
それを戒めるように、再びカシャンとフェンスの音が響く。波多野がもう一方の手もフェンスにかけて、グッと顔を近づけてきた。
「先輩が見てるとき、いつもタイムいいんだ。俺の勝利の女神になってください!」
真っ白い歯を見せて、波多野は笑った。
俺は真っ赤になった顔を文庫本で咄嗟に隠す。それを見て波多野は余計に笑った。
───
「本当にインターハイまで行くとは…」
波多野の名前が書かれた賞状を凝視しながら、俺は感嘆のため息を吐く。
地区大会から順調に駒を進めた波多野は、この夏最大にして最後の大会で2位という好成績を残し、堂々と表彰台に上がりメダルをもらってきた。
「そりゃね、勝利の女神に来てもらいましたから!」
「何言ってんだ、俺なんて木陰で見てただけだぞ。」
「それが大事なんですよ!」
「そうかぁ?」
「そうなんです!…だって、好きな人が見てると思ったらそりゃ頑張っちゃうだろ…」
「そういうもんか………ん?」
いつも溌剌 としたスポーツマン、それでいてちょっと自信家の波多野らしくないボソッとした小さな声が信じ難い言葉を紡いだ気がして、俺はばっと勢いよく顔を上げた。
そして目にしたのは、太陽のように真っ赤になった頬をかく波多野の姿。それを見ると、今聞こえた言葉が嘘でも聞き違いでも空耳でもないことがわかった。
「………え…」
でも、聞き返した俺の方が真っ赤だったと思う。
波多野は俺が聞こえていなかったと思っていたみたいで、ちょっと驚いたように視線を彷徨わせた後に深く深呼吸してから何故かジャージのファスナーを1番上まで引き上げた。
「海沢先輩、好きです!来年の夏は絶対金メダル獲るので、応援に来てください!」
インターハイの大舞台でも堂々と泳ぎ切って結果を残した波多野の手が、声が、今この瞬間は可哀想なくらいに震えていた。それが緊張からだというのは流石の俺でもわかった。
波多野は本当に来年こそ金メダルを獲るだろう。その隣にいるのが、また俺であればいいなと思う。
きっと、一年後も栞は同じ文庫本に挟まったままだ。続きが気になり出した本を読み進める暇もないくらい、波多野に夢中だろう。
幸せな悩みだ。
☆☆☆
読了ありがとうございました。
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