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【いつも通りのプールサイド】圭琴子

 もくもくと羊雲が幾つか浮かぶ抜けるような青空の(もと)水面(みなも)に映った太陽が、ゆらゆらと制服のワイシャツに光を乱反射する。気温はそこそこ高かったが、水辺の風はヒンヤリとしていて心地いい。ケンは、プールサイドに設けられた保護者見守り用のベンチに座って、参考書を読んでいた。ここの所、二日にいっぺんのペースだ。 「ケンちゃん、こんちは!」 「あらケンちゃん、今日は。受験なのに大変ねぇ」 「今日は」  小学校低学年の女の子と、その母親がケンに挨拶をしては通り過ぎていく。普通はそうだ。保護者の見守りが必要なのは、長くても小学校までだった。だが。ケンは、参考書からプールに、フォーカスを絞る。真っ黒に日焼けした後輩が、スイミングスクールもない田舎なのに、見事にクロールで五〇メートルを泳ぎ切った所だった。  そう、後輩。家が隣同士だったケンとリュウイチは、昔から一緒に遊んでいた。小さな頃は四つ違いというのは大きくて、ケンは自主的にリュウイチの世話を焼いていた。もちろん、プールも一緒に行った。だが、その習慣はいつまで経ってもなくならなくて。夏休みに必ず誘いに来る、中三のリュウイチの『保護者』として、高三のケンはプールサイドに居るのだった。 「ケンちゃん!」  プールの中から、リュウイチが叫ぶ。参考書を閉じて、ケンは水の近くに歩み寄って屈み込んだ。 「見てた? 俺の華麗な二十五メートルターン」  見ていなかったが、ケンはいつものようにおざなりに言った。 「ああ、見てたよ」 「あ! その言い方は見てないだろ!」 「あ、ケンちゃんだ~」  リュウイチの苦情は無視して、少し離れた所から上がった声に、片手をあげて応える。一学年五人~十五人の田舎だったから、まるっと町ぐるみ知り合いみたいなものだった。リュウイチはプールの(へり)に肘を置いて、ケンを見上げる。 「ケンちゃんも、たまには泳げばいいのに。昔は凄く泳げたのに、小学校高学年くらいから、全然泳いでないよね?」  その気軽な口調に、ケンは溜め息をつく。 「リュウ。俺は、ササキ先輩って呼ばれるのに憧れてたんだ。でもお前がケンちゃんって呼ぶから、小学生にまでケンちゃんって呼ばれてるんだぞ」  リュウイチは、悪びれずにへへと笑った。 「ケンちゃんが、『タカハシくん』って呼んでくれたら、考えてもいいよ」  図書委員で『趣味:読書』みたいな大人しいタイプのケンに比べ、リュウイチは少々甘やかされて育った一人っ子で、とても口では太刀打ち出来なかった。ケンは諦めたようにまたひとつ、溜め息をつく。でも裏腹に、口元は薄く笑っていた。二人の関係は、言うなれば兄弟だった。 「今日は、何読んでんの?」 「日本史」 「ふうん。ケンちゃん、東京の大学に行っちゃうんだよね。そんなに遠くまで行かなくていいのに」 「男に生まれたからには、(みやこ)で一旗あげてみたいだろ」  リュウイチが声を上げて、爆発的に笑った。 「都、って。何時代だよ、ケンちゃん」 「うるさい。休憩か、あがるのか」 「もうちょっと」 「わかった」  ベンチに戻りながら参考書を開きかけたら、そこからひらりと蝶が舞うように白いものが風に乗った。 「アッ!!」  ケンの大声に、まだ彼を見ていたリュウイチが、驚いて目を丸くする。あっという間だった。それを空中で掴もうとして、ケンは足を踏み外してプールに落ちる。町営プールは深さが二段階あって、子供用の浅いもの、大人用の深いものがあった。リュウイチが居るのは大人用で、それも中央だ。中央の深さでは、大人でも足がつかない。 「ケンちゃん!」  勢いで頭の上まで水に潜り、姿が見えなくなるのに、リュウイチが慌てる。ケンが、泳げないと思っていたから。助け出そうとしたのも束の間、ケンはすぐに浮かび上がって立ち泳ぎをして、辺りをキョロキョロと確認する。 「ケンちゃん……泳げるの?」 「アレ、何処いった」 「アレ?」 「(しおり)」 「ああ……」  リュウイチは、胸の前に漂っていた、白くて細長い紙切れを手に取った。 「寄越せ」  そこまで大切なものの筈なのに、破れそうな勢いで引ったくられる。ケンはそのまま危なげなく平泳ぎで岸に向かい、身軽くプールからあがると、リュウイチに言い置いた。 「先に帰るわ」  幸い家は、歩いて三分の所だ。リュウイチは、いつも水着にパーカーを羽織ってプールに来ていた。 「う、うん。ケンちゃん大丈夫?」 「ああ」  一瞬の出来事に、監視員も笛をくわえたまま、ケンが歩み去るのを見送った。     *    *    *  二日後。ケンが二階の自室で参考書を読んでいたら、チャイムは鳴らずにリュウイチの声がした。 「おばさん、お邪魔しま~す」 「あら、リュウイチくん。今日はプールじゃないの?」 「ケンちゃんの持ってる、ゲームがしたくなって。勉強の邪魔はしませんから」 「あとで、アイスティー持っていくわね」  人当たりのいいリュウイチに、すっかりケンの母親は懐柔されていた。トントンと、階段を上がってくる音がする。  ――コン、コン。 「ケンちゃん」 「うん。入れ」  扉の開閉音がしたと思ったら、後ろから抱き締められて、ケンは面倒臭そうに振り払った。だがリュウイチは、はがれない。 「何だよ。暑い」 「『おおきくなったら、およめさんにしてね』」  不意にリュウイチが、芝居がかって忍び笑った。バッ! と音がするんじゃないかと思うほど急激に、ケンが振り返る。 「お前……!」 「読めちゃった。栞」  間近で、リュウイチが悪童めいて歯を見せる。 「お、今日もその栞だな。ケンちゃん、前に告られてたよね。すっげぇ可愛い子。まさか、その栞の君がまだ好きで、断ったの?」 「そんな訳ないだろっ!」  正面に向き直ってケンは、薄ピンクのリボンが付いた栞を努めて隠した。リュウイチは、不思議な気分だった。ケンがムキになって否定するほど、鉛のように心が重くなる。優等生のリュウイチがそれなりにモテるのは知っていたが、自分が一番そばに居るという、奢りみたいなものがあった。  なのに、ケンのことでまだ自分の知らないことがあったなんて。眼前のうなじは体質なのか、自分と違って太陽に焼かれることはなく、白くて若干汗をかきケンの体臭が仄かに漂った。ゴクリと喉を鳴らしたその時、ノックの音がする。じゃれ合って抱き付くのなんか茶飯事なのに、何故か反射的に離れていた。 「どうぞ」  ケンは、ポーカーフェイスで応える。 「リュウイチくん、ごゆっくり」  ケンの母親は、氷の入った冷たいアイスティーを二つローテーブルに置くと、笑顔で部屋を出ていった。 「ケンちゃん。アイスティー飲も」 「今は、要らない」 「……ケンちゃんが、栞使ってるって、ひとに言うよ」  これじゃまるで脅しだ。リュウイチは思う。脅すつもりはなかった。ちょっとからかってやろうと思っただけなのに、ケンが強情だから。そう、心の中で言い訳をする。  ケンはいつもの笑い混じりの溜め息じゃなく、賞味の憂鬱な溜め息をついてから、ローテーブルの前に座った。 「で? どうしたい訳?」 「……上着脱いで」 「はあ?」  こんな脅しまがい……いや、紛れもなく脅しの言葉に、罪悪感が疼いたが、見たいという青少年の欲求は止まらない。 「俺、こないだケンちゃんがプールに落ちた時、透けて見えちゃったんだ。だからプールに入らないのかなって」 「……そうだよ」 「見せて」 「嫌だ」 「栞のこと、言うよ」  そう言うとケンは、顔を屈辱に歪ませながら、微かに震える指先で半袖シャツの第一ボタンに取りかかった。待ちきれず、リュウイチがケンに飛びかかる。完全にシャツの前を開けると、思わずリュウイチは呟いた。 「ヤベェ……」  ケンの乳首は、ぷっくりと肉厚で、乳輪もピンク色で大きくて、まるで発育途中の女性の胸だった。ある時期からケンが全く泳がなくなったのは、これが原因なのだろう。隠しようもなく興奮して、リュウイチはそれをそっと摘まむ。 「ンッ」  喘ぎが鼻に抜けた。 「ケンちゃん、イイの? 敏感なの、やっぱ?」 「んな訳……アッ」  否定しようとして、声がひっくり返る。リュウイチが、それをペロリと舐めたからだ。汗のしょっぱい味がした。  友だちの兄弟が持っていたのをみんなで鑑賞会したAVみたいに、片っぽを舐めたり噛んだりして、片っぽを摘まんだり擦ったりする。するとケンは、床に脱力して仰け反った。 「ぁ……や・やぁっ……」  普段聞き慣れている声が快感に掠れ上がるのは、たまらなかった。リュウイチは乳首を弄りながら、無意識で布越しに腰を使う。 「……ァッ……!」  リュウイチが、しまったと言ったような声を上げた。息が荒い。 「……ごめん、ケンちゃん……イッちゃった」  感じ入っていたケンが、我に返ったようにシャツの前をかき合わせて、リュウイチの下から這い出す。 「馬鹿かよ、お前……」 「ご、ごめん」  思わぬ展開に、リュウイチは狼狽えている。ケンはタンスの一番下から、ボクサータイプの黒い下着を出して差し出した。 「これに履き替えろよ。ほら」  ついでに箱ティッシュも差し出す。 「さ、さんきゅ」  背を向けて、リュウイチは下着を履き替える。その間に、ケンはシャツの前を閉じてしまった。  身支度を整えて振り返り、ケンも一番上までボタンを留めているのを見ると、性懲りもなくリュウイチはガッカリした顔をした。 「お前な……ちょっとは反省しろ」 「だって……ケンちゃんが、色々隠すから」 「隠すだろ、普通。お前みたいな馬鹿からは」  ケンは機嫌の悪い声を出す。 「馬鹿馬鹿って言うなよ。俺、ケンちゃんのこと全部知ってるって思ってたのに、隠されてたから……」 「何だそれ。ヤキモチか?」  何故だか涙がこみ上げてくるのを、リュウイチは止められなかった。 「……うん。お、おっれ、ケンちゃんのこと、好き……っ」 「ん!」 「へ?」  リュウイチが顔を上げると、下着の入ったビニール袋が鼻先に突き付けられていた。 「取り敢えず、パンツ洗って出直してこい」     *    *    * 「……懐かしいな」  プールサイドで、ケンが呟く。水着にパーカーを着込んで、手にはいつものように本が握られていた。横に並んだサマーベッドには、真っ黒に日焼けしたリュウイチが、まだ足りぬとばかりにオイルを塗っている。 「ん? 何が?」 「お前が早漏だった頃」  トロピカルジュースを含もうとして、派手にリュウイチがむせた。ケンは、声を殺して笑っている。 「ゲホッ……よしてくれよ。ササキ先輩」 「そうは言っても、忘れられないよ。タカハシくん」  リュウイチはケンを追って東京の大学を受け、二人は同じ大学の一年生と四年生だった。ケンはすっかり、憧れだった『ササキ先輩』になり、リュウイチもふざけ半分に彼を『ササキ先輩』と呼ぶ。 「まあ、お前は記憶力が悪いみたいだけどな」 「もういいだろ。あんまり後輩を苛めるなよ」  二人が付き合うきっかけになったあの栞は、幼い頃リュウイチが書いたものだった。『おおきくなったら、およめさんにしてね』。(つたな)い文字と、(いびつ)なピンクのハート。それを眺めながら、ケンはポツリと言った。 「およめさんに、したかったのにな」 「ケンちゃんが、およめさんだったな」 「こら。ケンちゃんって呼ぶな」 「ああ、はいはい。二人きりの時だけ、ね」  共犯者のように目を見交わして、笑い合う。 「ササキ先輩、タカハシくん、次の波来るよーっ!」  人工的に波が起こるプールでは、際どい水着の女子たちが、手を振って誘惑している。だがケンがパーカーを脱いで水に入ることはなかったし、それを咎められないよう、ケンの分までリュウイチが盛り上げる、いつも通りのプールサイドなのだった。 End.

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