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【一年目の憂鬱】須藤慎弥

久保田 真司(くぼた しんじ)課長補佐と出会ったのは、今から二年前の春。  新入社員で入ってきた僕に、まだ主任という役職だった久保田さんが、教育係として毎日根気よく仕事を教えてくれた。  男女問わず、思わず二度見しちゃうくらい目を引く容姿を持ちながら、気さくで、人当たりが良くて、おまけに超が付くほど優しい人。  あんまり物覚えがよくない僕は、物心付いた頃から「天然」だなんて不名誉な称号を付けられてるけど、そんな自覚はないし、今でもそう言われたら全力で否定している。  そうは言いつつすぐにポカしちゃう僕に、久保田さんは「仕方ないな」と怒ったフリして、どこがいけなかったのかを丁寧に説明してくれた。  自分の仕事を後回しにして、僕が理解出来るまで付きっきりで、だ。  仕事も完璧にこなし、若干二十九歳で課長補佐となった久保田さんは、来年の春には正式に課長に昇進するらしい。  僕なんか、まだまだ久保田さんの足元にも及ばない。  隣に並んで歩いてるだけで、ちょっと申し訳なさを覚えてしまうくらい、なんで僕なの?って…毎日思ってる。  ──それは仕事面だけじゃなく、プライベートでも。 「未南(みなみ)、りんご飴あっちにあったぞ」 「…………………」 「未南?」 「……えっ、あ! はい、焼き鳥ですか!」 「違うよ、りんご飴。 食った事ないから食ってみたいって言ってたろ」 「はい、りんご飴ですね、はい!」  なんで急に焼き鳥が出てくんだよ、と屈託なく笑う久保田さんが、人混みに紛れていきなり僕の腰を抱いた。  驚いて離れようとしても、腕の力は増すばかり。  僕より頭一つ分以上は背が高い久保田さんは、体どころか肩幅も華奢な僕の事なんか、その逞しい腕一つで支えられるみたいだ。  久保田さんは女性社員からもたくさんお誘いがあるの知ってるのに、なんで僕を選んでくれたんだろう…って、付き合って一年が経つのにまだどこか信じられない気持ちでいっぱいだ。  『去年は仕事が立て込んでて来られなかったから、今年は絶対に行こうな』  先月、甘い時間を過ごした直後に突然こんな事を言われて、最初はなんの事だか分からなかった。  まさか花火大会と夏祭りに行こうっていうお誘いだなんて思わなくて、意味を理解した僕は嬉しくて舞い上がった。  浴衣を着てささやかにおめかしして、二人で並んで歩く僕達の姿は……他人からはどう見えてるんだろう。 「未南、酔った?」 「え?」  久保田さんが買ってくれたりんご飴をかじって口の中が甘さでいっぱいになった時、ふと顔を覗き込まれた。  今まで食べた事が無かった、このツヤツヤしてまん丸な見た目がそそるりんご飴は、思った以上に甘くて美味しい。  外側のカリカリした飴を咀嚼していると、心配そうな久保田さんの瞳とぶつかる。  見詰め合う形になってしまいハッとして、まだ少し恥ずかしい僕はすぐに視線を逸らした。 「人多いから酔ったのかなと」 「…いえ、そんな事ないです! 美味しいです!」 「そうか? なんか今日ヘンだぞ、未南」 「そんな事ないですよ! 楽しいです、お祭りなんて学生の時以来ですもん」 「……ならいいけど」  ……ダメだ。 僕が久保田さんの隣に居ていいのか…なんて、今考えるべき事じゃない。  せっかくこうして久保田さんが誘ってくれたんだから、思いっきり楽しまないと…ね。 「未南、花火がよく見える場所に行こうか」 「いいですね! 穴場があるんですか?」 「らしいぞ。 会社の連中に教えてもらった」 「そうなんですか! わぁ…楽しみです!」  屋台はひとしきり堪能したから、あとは約一時間後に開催される花火大会を待つのみだ。  念願だったりんご飴は甘党の僕にはとても美味しくて、あっという間に食べ終えてしまった。  デザートも食べたし、これから花火が美しく見える穴場へ連れて行ってもらえるなんて、ワクワクする。  久保田さんと僕が釣り合うかどうかなんて、やっぱり、今モヤモヤしてちゃ勿体ないよね。 「なぁ未南、浴衣似合うな」 「………っ!」  りんご飴が刺さってた棒をどこに捨てようかなってキョロキョロしてたら、また久保田さんに腰を抱かれた。  しかも耳元で囁かれて、急に心臓がバクバクうるさくなってくる。  外ではあんまりスキンシップを取ってこないのに、今日の久保田さん…なんかすごい大胆なんだけど…。 「……早く脱がしたい」 「────!!」 「ふっ…。 顔真っ赤」  そんな……そんな事をこんな人いっぱいな中で言わないでよ…っ。  久保田さんがクスクス笑う横顔を見ながら、僕は熱い頬を触ってみた。  ただでさえ暑い八月の熱気とこの人混みで、とても涼やかとは言えないっていうのにもっと体が熱くなっちゃったよ。  腰を抱かれたまま、僕の歩幅に合わせてゆっくり歩を進めてくれる久保田さんに付いて歩く。  ───すごい。  すれ違う女の人達がみんな久保田さんを振り返ってる。  中には久保田さんを見た後、隣にいる僕を値踏みするようにジロジロ見てくる人までいて、居心地が悪かった。 「──あれ、真ちゃん?」 「ん?」  全員が僕を見てるわけじゃないのに、周囲の視線が嫌で、俯き加減で久保田さんに寄り添ったその時だった。  前方からやたらと明るい女の人の声がした。 「おー、加奈か」  どうやら「真ちゃん」とは久保田さんの事らしい。  親しげに名前で返した久保田さんも、この女の人の事を知ってるみたいだ。  加奈と呼ばれたその人は、本人と同じような見た目の派手な友達と二人でここへ来ているようだった。 「やだ、こんなとこで会うなんて運命じゃない!?」 「加奈、この人知り合いなの?」 「知り合いっていうか、元カレ〜」 「えぇ!? 加奈にこんなイケてる彼氏居たんだ!」  ……っえぇ!? も、元カレ!?  加奈さんの友達と一緒に、僕も久保田さんを見上げてめちゃくちゃ驚いた。  衝撃の再会を目の当たりにして、周りの目が嫌だって凹んでるどころじゃなくなった。  久保田さんの過去なんて知らない方が幸せだと思って、今まで何にも聞いた事無かったから…急に耳と目を同時に塞ぎたくなる存在が現れて、もっともっと嫌だった。 「お前変わんねぇな。 ケバいからその化粧やめろって言ったのに」 「真ちゃんと付き合ってた時は薄化粧だったでしょー?」 「どこがだよ」 「ふふふっ。 ……で、そちらは?」  ──嫌だ。 嫌だ。  仲良しな会話なんか聞きたくない。  二人にしか分からない会話なんてしないで。  ほら、加奈さんの友達も、唖然と二人の様子を見守る事しか出来てないよ。  人でごった返してるから、自然と二人は会話するために少しだけ距離を詰めてる。  僕の腰を抱いてた腕もいつの間にか解かれていて、それが何だか不愉快だった。  加奈さんが僕に視線を寄越す。  とても目なんて見られなくて、僕じゃない人と親密に話す久保田さんの姿も見たくなくて、僕は慌てて近くにあったトイレを指差した。 「あ、あの! この棒捨ててきます。 ついでにお手洗い行ってきていいですか? 手がベタベタで…」 「いいよ。 俺も付いて行こうか」 「い、いえ、大丈夫です! 中も人凄そうだから、ここで待っててください!」  そう言って、僕は走ってその場から逃げ出した。  ご馳走様でした、と言いながら棒をゴミ箱へ捨てて、ベタベタな手を洗うべくそのまま男子トイレに向かう。  久保田さんを、この人波に巻き込むわけにはいかない。 「………なんで元カノさんなんかに会っちゃうかなぁ……」  手洗い場にも外まで行列が出来ていて、大人しく最後尾に並んで順番待ちをしながら独り言が漏れた。  久保田さんの地元はこの辺じゃないって聞いてたから、加奈さんの言う通り「運命」という言葉が一瞬よぎる。  二人がどんなタイミングで、どれくらい付き合ってたのかなんて知りたくもないけど、気になってしまうのは仕方ない。  夏祭りに来てる人はみんな、浮かれてるから。  友達同士ではしゃぐために来てたり、カップルでデートとして楽しみに来てたり、単純にこの賑わいを味わうために来てる人も居ると思う。  加奈さんも、この異様な雰囲気に呑まれてテンションが上がってて、しかも元カレに偶然再会したとなれば声を掛けてきて当然だ。  僕も……デートとして来てるつもりで、久保田さんももちろんそうだって分かってるんだけど…。  どうしても、久保田さんと加奈さんのツーショットが頭から離れない。  なんで僕なの?って、そんな、久保田さんを困らせてしまうような事はまだ言った事はない。  仕事もなかなか覚えられなくて、未だに「未南は天然だな」って同僚から笑われる僕なんかに、密かに「いいな」と想ってた久保田さんの方から告白してくれたんだ。  だから、自信を持ってたいのにな。  ………でもそんなの…持てないよ。  だって「僕」だよ。  「私」じゃないんだよ。  ───ううん、たとえ「私」だったとしても、僕は、久保田さんの隣で自信を持って隣に並べてる気は……しない。  ● ● ●  久保田さんから告白されたのはあまりに不意の事で、何の心の準備もしてなかった。 「未南、好きなんだけど」 「…………………え?」  それは、入社して間もなかった僕のポカのせいで久保田さんを残業に付き合わせてしまっての、終電間際の駅への道すがらだった。  久保田さんが僕の腕を掴んで思いがけない告白をしてきて…一瞬どういう意味でそれを言ってるのか分からなかった。  憧れの上司は、こんな夜中まで仕事してたとは思えないくらい爽やかで、疲れた顔なんか少しも見せていない。  しょうがないな、付き合ってやるよ、って僕の髪をくしゃくしゃにして微笑んでくれた、人のいい精悍な瞳が真摯に見詰めてくる。 「誰にも取られたくないって思ったから、俺のものになってほしい」 「………………えぇ?」 「未南の事狙ってる奴多いんだ。 正直、焦ってる」 「狙ってる奴って……? あの…久保田さん、何を…」 「俺を物言いたげに見てくる未南も、同じ気持ちなんだろうと思った。 違うとは言わせない」  待ってよ、待って。  僕、久保田さんのこと好きかもしれないって漠然としか思ってなかったのに、なんでバレたの?  ……しかも狙ってる奴がいるって、なんの事…?  その時、これは夢なんじゃないかって思った。  優しくて頼りがいのある久保田さんの人間性に、知れば知るほど惹かれていたのは事実だ。  でも、僕も久保田さんも男だし、何しろ久保田さんは女性社員達の羨望の的なんだ。  そんな久保田さんを好きかもしれないって思ったところで何も始まりはしないと諦めてたから…僕は、考えないようにしてた。  それなのに、こんな事で絶対に冗談は言わないであろう久保田さんは尚も僕を射抜いていて、その信憑性を伝えてくる。 「未南、分かってるんだ。 未南の気持ちは」 「そ、そんな事言われても…」 「未南がどんなポカしても、俺なら全力でカバーしてやれる。 仕事中だけじゃなく、未南のプライベートの時間も欲しいんだ。 …ダメか?」  腕を掴んでいた大きな手のひらが、呆然とする僕の手のひらへ移動してきゅっと握った。  どうしよう…これはきっと、本気で言ってくれてる、んだよね…?  男である僕にこんな告白をしてくるくらいだから、疑ったら失礼にあたっちゃうかもしれない。  手を握ったまま、少しずつ僕との距離を詰めてくる久保田さんを見上げてみる。  ………ドキドキ、してきた。 「あ、あの……」 「未南は俺の事が好きだよな? 他の誰でもなく、俺の事が」 「えっ……! なんで、そんな…」 「目を見りゃ分かるし、態度にも出ている。 わざわざおかわり頼まなくても、俺だけデスクで飲むコーヒーとお茶が途切れない。 未南は俺の事だけ、特別扱いしてくれてる」 「…………………っっ!」 「まだあるぞ。 俺が回した仕事を一番にやろうとするだろ。 どんなに急ぎの案件あっても」 「…………………!!」 「あとな、何故か散らかしたデスク周りが毎日片付いてるんだ。 誰が掃除してくれてんのかと思ったら、未南がしてるそうじゃないか」 「……………!!!」 「未南、俺だけにしろよ。 特別扱いは俺だけがいい。 他にも多々ある特別扱いが、俺以外の男に向けられると嫌なんだ」  久保田さんはそう言うと、僕を優しく抱き締めてきた。  言われた事ぜんぶ、僕はほとんど無意識にやっちゃってる事だった。  覚えの悪い僕に足を引っ張られてるかもしれないと思うと申し訳なくて、せめて気は利かすようにしてたけど……それが好意につながるものなの…?  ───いや、僕は本当に、無意識でやってたのかな?  いつか久保田さんが気付いて、少しでも僕を気にしてくれたらいいのにって、実は思ってたんじゃないのかな…? 「………久保田さん…」  名前を呼ぶと、僕を抱き締めてる腕に力が込められて苦しくなった。  久保田さんから香る香水の匂いが、ひどく心地良い。  ずっとこうしてたいって、僕の心が叫び始めた。 「未南……返事をくれ。 俺が喜びそうな返事を」 「……で、でも…いいんですか、本当に…」 「いい。 未南が欲しい。 未南も俺を欲しがってくれ」  力強く抱き締められた僕は、瞳を瞑って、久保田さんにバレないように二回深呼吸した。  本当に、本当にいいんですかって心の中で問うてみても、ドキドキは増す一方だった。 「久保田さん、……その……よろしく、お願いします…」 「ふっ…斬新な返事だな。 こちらこそ」  耳元にかかる吐息がくすぐったい。  終電間際の寂しい路地裏は、野良猫くらいしか通らない真っ暗な通りだったけど……久保田さんの顔がゆっくり近付いてきた事で、辺りが僕らだけの世界になった。  唇が触れ合った瞬間、胸のドキドキがピークに達して、縋るように思わず久保田さんのスーツの腕部分を掴む。  ファーストキスだったからすごく緊張したけど、久保田さんが僕とキスしてるなんて信じられなくて瞳を開けてたら、少しだけ笑われた。 「ふふっ…熱視線を感じた」 「あ…っ、すみません…!」 「いいよ。 キス、嫌じゃなかった?」 「………はい。 ありがとうございます…」 「何でありがとうなんだよ。 やっぱ未南は天然だな」  天然じゃないですよ!といつもの調子で返せなかった僕は、ほっぺたが熱くて熱くてたまらなかった。  ──本当にいいのかな、僕で…。  こんな事を思いながらも、久保田さんの手のひらが優しく僕の髪を撫でてくれる、その温かさにうっとりした。  終電ギリギリまで寄り添い合って離してくれなかった久保田さんは、外であろうとなかろうと平気で僕の肩を抱いて密着してきた。  周囲に僕との関係を見られたとしても平気だっていう、久保田さんの男気ある覚悟なのかなと思うと嬉しかった。  ──その日から、僕には勿体無いくらい眩しい久保田さんという男の恋人が出来た。  職場でもプライベートでも一切変わらず僕を特別扱いする久保田さんに、僕も同じ気持ちだよって想いを込めて、出来るだけ特別扱いをしてみた。  たまたま他の社員さんにコーヒーを淹れてあげただけで「なんでアイツに」と不機嫌になる、子どもみたいなヤキモチを焼かれながら。 ● ● ●  ──そりゃあ、久保田さんはモテモテだっただろうから彼女の一人や二人は居たって分かってたけど。  いざ鉢合わせしてリアルな元カノさんを見ると、心が動揺しちゃってダメだ。  今、久保田さんの恋人は僕なんだから動揺する必要なんてないのに…。 「ねぇねぇ、君、ここ男子トイレだよ?」  黙って手洗い場の行列に並んでると、後ろから突然背中をツンツンされてビクッとした。  振り返ると、その見た目だけで学生だと分かるくらい若い男が真剣に僕を見ていた。  …失礼な。 ここが男子トイレだって事くらい分かってる。  そこまで天然じゃないよ、僕。 「分かってます。 僕男だからここで合ってます」 「え!? マジで? そんなべっぴんさんなのに、こーんな地味な浴衣着て勿体ねぇと思ったら…男だったの」 「………あなた失礼な事言いまくってるの、気付いてますか?」  手洗い場の順番が来て手を洗ってると、横に青年が張り付いてくる。  本気で女の子と間違えられてたらしいと分かって、ハンカチで濡れた手を拭いながら青年を睨んでしまった。 「ごめんごめん! ねぇ、俺と屋台回んない? 彼女にドタキャンされてさぁ〜。 ムカつくから意地でこの時間まで一人で回ってたんだけど、そろそろ限界になってきた」  寂しいぜ!と叫ぶ青年は、トイレから離れてく僕のあとをまだ付いてくる。  人混みの中でもその悲痛な叫びは響いたみたいで、何事かと何人かに振り向かれた。  失礼な事を言うこの青年も、実は可哀想な目にあったんだ。  悪い人では見えなかったから、立ち止まって話を聞いてあげようかなという気になる。  ──今戻っても、久保田さんの元カノさんがまだ居るかもしれないと思うと、戻るに戻れないし…。 「ドタキャン…夏祭りでですか」 「そう! たぶん本命に持ってかれたんだね〜。 俺いっつも二番手なんだよ。 相手が本気になってくれない…っていうやつ?」 「………本気に…」  僕と同じで、青年も浴衣を着て髪型もバッチリ決めておめかししてる所を見ると、ドタキャンされたっていう人との夏祭りをきっと楽しみにしてたんだと思う。  話し方や表情が人懐っこいから、友達止まりになっちゃうって事なのかな。  青年は、立ち止まった僕の前に回り込んで、人の良さそうな笑顔を浮かべてニコニコした。 「俺と違って君は一人じゃないかもしれないけど、友達と来てるんだとしたら抜け出して俺と回ろ? これから花火大会も始まるし、ドタキャンされた俺を慰めてよ〜」 「えっ…ダメ、です…。 無理です」 「なんでなんで〜? いいじゃん〜! っ包囲!」 「あぅっ…。 ちょ、離してくださいっ」  屈託ない笑顔に騙された。  青年は人混みに紛れて僕をギュッと抱き締めると、寂しいからって言い訳じゃとても足りないくらい力を込めてきた。  砂利を踏み鳴らしてもがいてみても、僕は非力で何の抵抗にもならない。 「うわー君ちっちゃいね、可愛い〜。 君だったら男でもいけそ! ねぇねぇ、慰めて慰めて〜」 「ダメですっ。 僕は、その…恋人と来てるから!」  いくらドタキャンされて寂しいからって、たまたま話し掛けた相手に慰めを要求するなんてどうかしてるよ!  「離して」と言ってるのに全然離してくれないし、思い切って恋人と来てるって言ってみても青年の力は解かれなかった。 「こんな人混みに君みたいな可愛い子を一人で歩かせるなんて、恋人失格じゃない? 相手は男? 女?」  場に居づらくなった僕が一人で行動しただけなんだから、久保田さんを悪く言うのが許せなくて顔を上げた瞬間、グイと誰かに腕を引っ張られた。  青年の抱擁から解放されて安堵したのも束の間、明らかに不機嫌そうな僕の恋人が青年をキッと睨み付けている。 「そうだな。 こんな事をされる危険があるのが分かっていて、一人でフラフラさせた俺は恋人失格だ」 「………っ久保田さん!」 「行くぞ、未南」  僕の腕を掴んで歩く久保田さんは、不機嫌を通り越して怒ってるように見えた。  青年から足早に離れて屋台通りを抜け、人通りの少ない場所へやって来ると、いきなり立ち止まって僕を振り返る。  ………あ…めちゃくちゃ怒ってる顔だ。  僕がどんなポカしてもこんなに怒った顔は、見た事ない。 「あの男と花火見るつもりだったのか?」 「えっ?」 「なかなか戻って来ないから心配で来てみれば…」 「いや、あの…っ、違います! 僕は…っ」 「恋人失格だって、俺」 「違う! 名前も知らないあの人の言う事なんか、気にしないでください!」  僕が初対面のあの人と花火を見るなんてあり得ないよ…!  怒った顔で詰め寄ってくる久保田さんが怖くて、僕はジリジリと後退ってしまう。  助けてくれてありがとう、って言いたかったのに、こんなに怒られたら何も言えないよ…。 「………未南、分かってる? 俺毎日焦ってるんだよ。 いつ未南が俺と別れたいって言い出すか分からないから」 「なん、…なんでそんな…」 「未南は俺の事、好きって言ってくれた事ない。 付き合ってから一度も」 「………え…………?」  人気のない境内に、久保田さんの寂しげな声が静かに響く。  僕、言った事…無かった……の?  久保田さんはそれこそ、毎日毎日言葉やメッセージで「好き」って伝えてくれてたのに、僕は何も返してあげてなかった…?  恐る恐る久保田さんを見上げると、左のほっぺたを彼の温かい手が包み込んだ。 「俺を特別扱いしてくれるのは変わらないし、熱視線もちゃんと感じるし、好きって言葉はなくても気持ちが繋がっていればいいかなと思っていた」 「…………………」 「でも、もう限界。 未南からの好意をきちんと言葉にしてほしい。 …これはワガママか?」 「…そんな…ワガママ、なんて……」 「未南はいつも一歩引いてるよな。 俺との間にある壁をなかなか壊してくれない。 未南とはもっと深い場所で繋がっていたいのに、……一年経って俺は、未南の気持ちが分からなくなっている」 「……っ久保田さん……!」  この手のひらからも、久保田さんの僕への愛が伝わってくる。  バリバリ仕事をこなす、いつも爛々とした瞳が今は微かに揺れていた。  恋人だったら必要不可欠な「好き」って気持ちを、僕がちゃんと言ってない、から…。 「未南、俺は未南の事が好きだよ。 天然なとこも、失敗しながら一生懸命仕事を覚えようと頑張る姿も、健気で可愛くてたまらない。 さっきみたいな若造にさえ嫉妬してしまうくらい、俺は余裕がないんだ」  笑ってくれていい、と苦笑する久保田さんの表情は、本当に余裕が無さそうだった。  そんな……僕がこんなに寂しい顔をさせちゃってるの…。  大好きです、って一言言えば良かったのに、僕はつまらない謙遜で自らを縛って久保田さんを不安にさせてしまっていた。  久保田さんはいつでも、こんなに真っ直ぐに気持ちを伝えてくれているのに。 「……久保田さん、ごめんなさい…っ。 僕、…自分に自信が無かったんです。 僕は久保田さんの恋人で居ていいのかなって、毎日申し訳ない気持ちでいたから…」 「…………未南……」 「好きです、久保田さん。 僕は久保田さんの事、好きです。 怖くて言えなかった、けど…これは本当に無意識でした。 ごめんなさい…」 「未南、謝らなくていい。 …安心した。 未南が燻っていた思いを正直に言ってもらえて」 「久保田さん…」  僕はバカだ。  久保田さんの言う通り、僕は何も、自分の気持ちを伝えた事が無かった。  隣に居ていいのかな、僕じゃ久保田さんに相応しくないんじゃないのかな、って、一人でグジグジ悩んで。  ちゃんと、僕の思ってる事を正直に伝えていれば、「好き」の気持ちをたっぷり与えてくれる久保田さんは受け止めてくれたと思うのに……。  「好き」という想いは、言葉にするだけで魔法みたいな効果を持つってことを、僕はやっと気付いた。  元カノさんが現れて嫌だなって思ったのも、知らない青年に抱き締められてた僕を見て嫉妬した久保田さんも、ちゃんと…好き合ってる。  同じ気持ちだ。 「花火、見たいよな?」 「え、………?」 「花火大会は来月に持ち越して、今は場所を移動しないか」 「場所を移動…? どこに行くんですか?」 「野暮な事を聞くな。 付き合って初めて好きって言ってもらえたんだ。 一年越しの未南の告白に俺が舞い上がらないはずないだろ」 「…………っっ!」  ほんの少し照れくさそうに言った久保田さんは、頬の赤みを見せまいとしてなのか素早く僕の唇を奪った。  熱い。 久保田さんの手のひらも、唇も、とても熱い──。  僕はファーストキスの時みたいに瞳を開けていた。  余裕の無い久保田さんがちょっとだけ可愛く見えちゃった、なんて言ったら、また怒られそうだから……秘密にしとくんだ。 ● ● ●  乱れてるのがいいからって、浴衣を脱がせてもらえなかった。  はだけた裾の隙間から忍び込んでくる手のひらが、恥ずかしくて顔を背ける僕の中心部を、やわやわと刺激してくる。  首筋に何度もキスを落としてきながらの優しい愛撫に、シーツを握る僕の指先に力が入った。 「んっ……久保田さん、…っ」 「もうイきそう?」 「は、い…っ、」  小さく頷くと、見惚れるほど温かくふわりと微笑まれて、心臓が高鳴った。  ドキドキが止まらない。  久保田さんの唇が僕の神経をおかしくさせてる。  見慣れた室内と、何度も交わったこの広いベッドの上で、浴衣姿の僕と久保田さんは初めての時みたいに緊張感を漂わせていた。  僕だって余裕なんかない。 少しも。 「んぁっ、っ……ダメ、ダメ、……っ」  僕がイっちゃいそうだって分かってから、久保田さんの扱く手付きが早くなった。  追い立てられて、膝が笑う。  喉を仰け反らせて息を殺す僕を見詰めてくる視線が、今日は一段と熱を帯びている気がして恥ずかしかった。  何も考えられなくなってしまうから、お願い、…そんなに見ないで──。 「一回イきたい? 我慢する? というか我慢してくれないか?」  もうすぐにでも出ちゃいそうで、腰が浮いてしまってた僕に久保田さんが意地悪な問いをしてきた。 「…ん……え、っ? やだ…我慢、でき…ない…!」 「俺も、なんだけどな」 「……っ…」 「一緒にイこ。 我慢した分だけ最高の絶頂を味わえるぞ」 「んやっ…やっ、…う、そ……っ?」  久保田さんはそう言うと、扱く手を止めてローションを手に取った。  嬉しそうに穴をくちゅくちゅと音を鳴らして解し始め、慣れた手付きで僕のいいところを擦り上げていく。  ピンポイントでそこを擦られる度に、我慢を強いられた僕のものからピュッと何かが溢れてお腹が汚れた。 「未南、俺の事好きか?」 「……っんんっ…! 好き、好きです…! 久保田さ、ん…っ」 「………嬉しいな」  指を増やして中を掻き回しながら、久保田さんは心からの微笑を浮かべていて切なくなった。  ずっと、聞きたかったのかもしれない。  なんで好きって言ってくれないんだって。  そうやって僕を問い詰める事は簡単だけど、それをしなかった久保田さんの優しさに僕の目尻から涙が溢れた。  待っててくれたんだ、僕が自分の気持ちを話せるようになる日がくるまで。 「ごめ、なさい…っ、久保田さん、僕…っ」 「謝るなって言っただろ。 未南が俺を好きでいてくれて、ちゃんと思ってる事も話してくれるなら、これからは嫉妬も控えるよ」 「それを言うなら、僕だって……!」 「うん? 未南も嫉妬してるのか?」  ほっぺたに口付けて笑む久保田さんは、どことなく嬉しそうだ。  ──当たり前だよ。  毎日、僕の目の前で久保田さんに近付こうとする女性社員が何人いると思ってるの。  さっきなんて、突然とはいえ元カノさんを見ちゃったんだよ。  思い出すとまた嫌な気分になっちゃうくらいだから、これは…ヤキモチなんだと思う。 「……元カノさん、見たくなかった…」 「あぁ、さっきのか。 急にトイレ行くって言い出したの、もしかしてヤキモチ焼いてた?」 「はい……、多分…」  僕の胸元にちゅ、ちゅ、と唇の愛撫を降らせてくる久保田さんの動きが止まる。  欲に濡れた瞳がいやらしくて素敵で、昂る自身の体を少しだけ捩った。  ヤキモチ焼いてたって白状するの、なんか照れる…。 「あいつに嫉妬なんかしなくていいよ。 あいつと俺が付き合っていた事はない」 「え…!? で、でも、久保田さんの事、元カレだって…!」 「隣に居た女友達の事が好きなんだよ、あいつは。 地元に居る頃から俺はよくダミーに使われてた。 同類だって知られてから遠慮が無くなったよ」 「……ダミー…っ?」 「そう。 ヤキモチ焼かせたいんだと」 「…………っ??」  ど、どういう事……!?  そんなの、僕にはまるで理解できない危険な大人の駆け引きだ。  久保田さんの表情も、僕の驚きが決して間違ってないと分からせてくれる。  素肌に感じていた熱が離れていくと、僕の頭を撫でた久保田さんは、自らの大きなそれを穴にあてがいながら苦笑した。 「な、分からない感覚だよな。 俺は嫉妬なんてしたくもされたくもない。 ただただ平和に未南を愛していたい」 「んんん───っ! 久保田さん…っ」  ぐちゅっという粘膜音と同時に、物凄い質量のものが押し入ってきた。  毎回毎回、久保田さんは挿入する時に「好き」「愛してる」って囁いてくれるから、喜びで脳内が麻痺してもっと感じるようになる。  奥へと進んでくる毎に、背中に回した腕に力が入って…また、爪痕を残してしまいそうだ。 「未南、愛してるよ」 「あっ…ぁ、…ぼ、僕も、愛しています…っ」 「今夜は止まらないかもしれないな」 「……っ…!」  久保田さんは本当に、嬉しそうだった。  僕に触れる指先も、巧みな腰使いも、「愛してる」の囁きも、今日は特に愛に満ちている気がする。  こんなに簡単な事だなんて知らなかった。  臆して正直になれなくて、僕は恋人と取りたくもない距離を取って不安を与えてしまってた。  気持ちを伝えるって簡単だけど難しい。  だけど、大好きな相手にはちゃんと伝えなきゃダメなんだ。 「愛してる、未南。 愛してる」  朦朧とする意識の中、愛が止まらない久保田さんに、笑みが溢れたのを覚えている。  僕は今日、改めて、久保田さんと本当の恋人になれた気がした。 ● 終 ●

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