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第1話*

オレンジに染まり始める夏の空。 誰もいない夏休みの教室。 あの日、教室の片隅で一人佇む姿を見たときから、俺たちの運命は廻り始めたのかもしれない。 高層ビルが立ち並ぶ夜のオフィス街。如月商事本社の社長室には、一種の緊張感が漂っており、二人の男が向かい合っている。一人は執務机と椅子に腰をかけた中年の男、もう一人はよく似た顔をした青年だ。 如月商事の社長である如月芳樹(きさらぎよしき)は、ゆったりと椅子に腰をかけ、有無を言わせぬ鋭い視線で向かいに立つ息子から本日の報告を受けていた。 芳樹は老いを感じさせない黒髪を綺麗にまとめ、上等なスーツをきっちり着込んでいる。髪型や服装には一切隙や乱れはない。鋭く細められている瞳は、もともと切れ長なこともあり、冷たく冷酷な印象を与える。実年齢より若くみられることが多いが、よく見ると目元や口元には年齢を感じさせる皺があり、そこがまた妙に色っぽさを漂わせていた。堂々とした佇まいや、他を寄せ付けける隙を与ない怜悧な表情からは、日本を代表する企業の一つである如月商事の社長として相応しい貫禄があった。 芳樹の息子である太一(たいち)は、若干27歳と歳は若いながらも将来有望な跡取りとして役員からも支持されている。芳樹とよく似た顔立ちをしているが、切れ長の瞳は芳樹ほど鋭くないため親しみやすい印象を人に与える。だが昔から芳樹と向かい合うときは、太一の表情にはそれらが一切表れなかった。 「それでは社長。本日の報告は以上となります。他に指摘はないようですので、私は先に失礼致します」 「ああ、ご苦労。……ところで太一、たまには家に帰りなさい。妹の茉莉花(まりか)もお前に会えず寂しがっているんじゃないか?」 「お言葉ですが社長、会社では家の話をしないでいただきたい。それに、茉莉花とは先日食事に出かけましたよ。兄妹の仲は良好ですのでご安心を。それでは失礼致します」 そう言って部屋を後にし、腕時計で時間を確認する。今日はまだ20時を回ってない。 珍しく早く上がれたなと思いながら、急ぎ足で廊下を抜けて行った。 会社の駐車場へ降りて自分の車に乗り込む。この後の予定へ向かうためにハンドルを握りながら、ようやく落ち着いたと言わんばかりにそっとため息をついた。 太一は如月商事の跡取り息子である。如月家は古くから貿易を生業としており、現在は日本有数の総合商社にまで成長した。主に化石燃料や宝石を含める鉱物を取り扱っているが、最近は医療品の貿易にも力を入れ始めているところだ。 また如月家は生粋のα家系で、代々αの男子が家を継ぎ、会社を経営する世襲制である。αは3つ性種のうち、一番優秀だとされているが、特に日本ではその思想が根強い。企業のトップも多くはα性である。太一の両親は父も母も両方αだ。α同士の場合、αとΩよりもαの子供が産まれる確率は低いとされいる。だが、如月家は代々α同士の婚姻を行なってるため、αの子供が生まれやすいのだろう。太一も、妹の茉莉花もαだ。 太一は如月家のα至上主義の考え方が嫌いだ。 だが、父親の方はそうではないのだろう。会社の社員も優秀なαばかりを優遇し、採用している。また、時には他の企業を蹴落とすようなやり方を行うこともある。経営の腕は確かなのに、こういう部分の考えが全く合わず、幼い頃からよく衝突していた。要は反りが合わないのだ。とは言っても、太一はたった一人の跡取り息子だ。高校卒業以降、一人暮らししている太一を何とか家に戻そうと、仲がいい妹の茉莉花を口実に何度も呼び戻そうとしている。 (本当は、父さんと顔を合わせたくないんだけどな) 現在は父親の補佐をしながら経験を積んでいるところだ。父親のことは好きではないが、仕事ならば仕方ない。それに、太一は大切な人と必ず家を継ぐ約束したのだ。 (でも今日は早く上がれてよかった。あいつと会うのは二週間ぶりくらいか) 夜のネオンで輝くオフィス街から、次第に住宅地が多いエリアに入って行く。目的地まで残りわずかだ。仕事モードの頭を切り替えるために、スピーカーのスイッチを押して音楽を流す。今日は待ちに待った金曜日の夜だ。口元に笑みを浮かべながら、夜の道に車を走らせ続けた。 目的地である研究センターに到着すると、慣れた手つきで駐車場に車を止めて中に入った。ここへは社用でも来ているため、警備室で手続きをしなくても通行カードで中に入れることができる。目当ての研究室にたどり着くと、ドアをノックして扉を開けた。 「(そら)いるか?」 薄暗い研究室には人影がない。今日は花の金曜日だ。他の研究員は帰ったのだろう。奥の方は灯りが付いているから、恐らくそこにいるはずだ。 灯りが付いているから奥の一角に、見慣れた後ろ姿があった。 野々村空(ののむらそら)、太一と同い年の27歳でα。白衣を着ていても分かるほどすらりとした体躯。中性的で整った顔立ち。サラサラしていて癖のない髪は色素が薄く、茶色っぽい。この髪色は地毛らしい。 「空?」 後ろから声をかけても反応しない。よほど集中して作業をしているのだろう。驚かせないように、後ろからそっと近づいて横に並ぶ。 「空」 少し驚いた顔をして、空がこちらを向いた。 「……もう着ていたんだ。如月」 「ああ、約束の時間よりも少し早いけど今日は早く上がれたからな。そっちは?」 「すまない。もう少しだけ待ってもらえないか? これだけまとめてしまいたい」 申し訳なさそうに言う空の頭に手を乗せ、優しくポンポンとする。 「明日は土曜でお互い休みだろ? 俺に気にせず、気が済むまで作業してろよ」 その代わり、今夜は泊まらせてもらうからな。 そう言って、空の頰を指で優しく撫でた。 作業がひと段落して時計を見ると、23時を回ろうとしていた。かれこれ2時間程、太一を放ったらかしにしてしまった。さすがに申し訳なく思った空は、そっと後ろを振り返って太一の様子を伺う。すると、直ぐに目が合った。話を聞くと、ずっとこちらを眺めていたと言うので呆れてしまった。ずっとみていても何も面白くはないだろうに。 部屋をさっと片付け終わると、研究センターを出て太一の車に乗り込む。太一は慣れた手つきで空の家へと車を走らせた。 如月太一とは高校の同級生だ。かれこれ10年の付き合いになる。α専用の学校だったため、空を含めたクラス全員αだった。 創薬研究員をしている空と、如月総合商事の次期社長となる太一とは、互いに時間が合わないことも多くなかなか会えない。そのため月に数回、業務後に食事をしたり休日に出かけたりしている。 そして、時には身体を繋げ、求め合うことも。 仕事の関係もあり、会う頻度は少ないが、太一と過ごす時間は空にとっても必要なモノだった。あの時から、ずっと。 空が住む分譲マンションに車を停め、部屋がある3階までエレベーターで上がる。部屋に入ると、太一は勝手知ったる様子で窓を開け、家の空気を入れ替え始めた。空は気にせず冷蔵庫を覗きこむと、中身を確認しながら太一に声をかけた。 「如月、お腹空いてるだろ? 簡単なものしかできないけど、何かたべるか?」 「ありがとう。お前は?」 「夕方に軽く食べたから、そこまで空いてない。そしたら適当に用意するからソファーに座って待ってて……」 後ろを振り向くと、すぐ後ろに太一が背後に立っていた。いつの間にいたのだろう。 切れ長で優しげな瞳に見つめられるので、上目遣いで見つめ返す。太一は空よりも少し背が高い。同じα同士とは言っても、太一は生粋のα家系生まれなので、空よりも体格がいい。 「ご飯は後でもいいかな。今はこっちがいい」 そのまま啄ばむようなキスをされるが、突然のことに驚いて体を硬くしてしまう。それに気づいたのか、すぐに唇は離れていった。 「ごめん。……嫌だった?」 胸の奥が、少しだけちくりと痛む。 「無理強いはしたくない。さっきはああいったけど、嫌なら今日は帰るから……っ!」 ワイシャツの襟を掴み、逃さないようにぐいっと引っ張ってキスをやり返す。唇を離すと、頰にそっと唇が落とされた。そのまま優しく手を引っ張られ、空の寝室へと向う。 空と太一は恋人同士ではない。けれど、恋人のような関係を続けている。あのときから。 本当は、こんなことはよくないと頭では分かっている。けれど、優しくてあたたかなこの手を振りほどくタイミングを、空は見失っていた。 静寂な夜の匂いが漂う寝室へ、締め切ってない窓の外から少し熱を帯びた風が運ばれる。もうすぐ熱い夏が訪れる予兆を感じさせた。 やわらかな月の光が、乱れたシーツに横たわる白い肌に降り注ぐ。 先程までの、情熱的なひと時が嘘のような静けさだ。久しぶりの行為で疲れた空は、規則正しい寝息を立てて眠っている。 行為の後なので、お互い何も身に纏っていない。冷えたらいけないと思い、床に落ちかけていた掛け布団をそっと空の体に掛けてやる。いくら夏が近づきつつあるとはいえ、裸では風邪を引くだろう。 「……もう、10年か」 空の寝顔を見ながら乱れた髪を梳いていると、あの日のことを思い出す。もう10年も前、二人が出会った春の日のことを。 そして、全てが廻り始めたあの夏の日のことを。 「俺は、ずっと待ってるからな」 そっと囁いた声は、月の光に溶けて消えていった。

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