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第2話

「みなさんは今日から高校2年生です。3年生に向けて、勉強も部活も全力で取り組んでいきましょう。そしてαとしての自覚を持って生活してください。そのためにも…」 新学期の全校集会が終わり、教室では新しい担任教師が挨拶をしていた。学年が上がったことによりクラス替えが行われた、先生も変わったからだ。 担任教師はαとしての自覚や、βとΩとの付き合い方について熱心に話していたが、太一はそんな話を聞かずに遠くの窓から見える桜を眺めていた。 窓から遠い廊下側の一番後ろが太一の席だ。後ろの席だから周りの様子がよく分かる。他の生徒は寝ていたり、真面目に先生の話を聞いていたりと様々だった。 太一が通う学校はα専用の高校だ。思春期になるとΩの生徒に発情期が訪れ始めるため、αとΩは別々の教室で授業を受けるよう定められている。一部の私立の学校では、この学校のようにα専用の学校もある。だが多くの学校ではαとΩはクラスは違っても同じ学校で過ごすことになるため、性種によるいじめ等のトラブルも後を耐えない。もともとΩの発情期によるトラブルを防ぐための制度なのに元も子もない。 性種で人の能力を差別したり蔑むなんて馬鹿らしい、そうは思っていても結局こうして父親に逆らえ切れずα専用学校に通っている。予期せぬ番行為を防ぐためでもあるとはいえ、父親のα至上主義の考えに染まってしまうのではないかと思うと嫌気がさす。 晴れない気持ちのままぼんやりと桜を眺め続けていると、窓際の席の生徒が自分と同じく外の桜を眺めていることに気づいた。 後ろ姿だから顔は見えないが、色素の薄い茶色味の強い髪、すらっと伸びた背筋が見ていて気持ちいい。窓際ということは後ろの名簿なのだろうか。 彼の名前は、その後の自己紹介で分かった。 「野々宮空です。どうぞよろしく」 他の生徒が趣味や部活動など、挨拶にもう一言付け加えて話す中、名前だけ告げて終えて颯爽と自分の席に戻って行った。野々宮は、他の生徒とは少し違うように太一には感じた。それは太一だけではなく、他の生徒も感じたようだった。 すらりとした長い手足に細身の体躯、身長は太一よりは低そうだがクラスの中では高い方だろう。鼻筋の通った整った顔立ちに、透明感のある白い肌が目を惹く。髪や瞳は黒というよりも、もう少し色素が薄く茶色味が強い。その髪と瞳は生まれつきなのだろうか。どことなく日本人離れした容姿から、男女関係なくクラス中がざわめいた。後から知ったが、野々宮は一年生の頃から同級生達の間で有名だったらしい。太一はクラスが違っていたことや、部活動や家のことで忙しく気付かなかった。 そういう太一も、日本有数の企業である如月家の人間だと知られていたため、挨拶をしたときにクラスの注目の的となった。全く嬉しくない。 新しい学校生活が始まってしばらく経っても、野々宮は誰ともつるまなかった。いつも自分の席で本を読んでいたり、窓を眺めていたりしている。だけど、授業で班行動するときは周りと普通に会話しているし、誰かから仲間はずれにされている訳でもない。だが、クラスメイトとの間にどこか壁のようなものがあったように思う。 何故だろうと考えたとき、一つ思い当たったことがあった。それは、野々宮がどういう人物なのか誰もよく分からない、ということだった。何か部活に所属してる訳ではなさそうだし、放課後も気づいたらすぐに姿を消していた。とにかく謎が多くてミステリアスだった。 その容貌も相まって、野々宮はクラスから少し浮いた存在だった。だからだろうか、つい気になって目で追ってしまうのは。 桜が散り、青々とした緑の葉が目立ち始めた頃のことだった。 「太一、またな!」 「おう!またな」 サッカー部の練習を終えて校門で友達と分かれると、いつものように迎えの車があるところまで歩く。学校への送迎もやめてほしかったが、学校の目の前に車を置かないという約束で妥協した。本当は部活に入ることも反対されていたが、学年上位の成績を取ることを条件に認めてもらったのだ。 (ん?あれ、野々宮……?) 学校の裏手に続く道へ、野々宮だと思われる生徒が歩いている。後ろ姿だが、よく自席から眺めていた太一にはなんとなく分かってしまった。 しかし、どこへいくんだろう。 迎えの者に少し遅れると連絡して、こっそりと後をつけてみることにした。 堂々と声をかければいいのに、わざと距離を空けて見つからないようにして歩く。 少し歩くと小さな神社が見えてきた。こんなところに神社があるなんて知らなかった。野々宮は迷った様子も見せずに奥へ進んでいく。よく来ているのだろうか。太一は鳥居に隠れながら様子を伺うと、野々宮はお参りをしているようだった。それも真剣に。後ろ姿しか見えないが、長い時間何かを熱心に願っているようにみえた。しばらくすると深く一礼し、置いていた鞄を手に取った。お参りが終わったのだろう。 今更ながら、こっそり跡を付けていたことに対して罪悪感が湧いてきた。急いでその場から離れる。途中で石を蹴ったような音がしたが、気にせず走って神社を後にした。 走りながら、神様に必死にお願いしていた野々宮の後ろ姿が頭から離れなかった。 あのとき、野々宮が何を祈っていたのか。 3ヶ月後の夏の日に知ることになるなんて、そのときの太一は思いもしなかった。 それは、本当に偶然だった。 夏休みも半ばを過ぎた8月のある日のこと。図書室から自教室へ向かう。忘れ物を取りに行くためだ。廊下を歩きながら空を眺めると、朝から土砂降りだった雨が徐々に弱まってきたように感じた。灰色の雲の合間から、夏の青空と夕日を混ぜたような空が見える。このまま雨がやめば傘を差さなくても帰れそうだ。 今日は雨だったので、サッカー部の練習は午前中の屋内練習だけになった。そのまま午後に帰ることもできたが、帰らず図書館で勉強することにした。今日は珍しく芳樹が家にいるので顔を合わせたくなかったのだ。 そんなことを考えながら進んでいくうちに、目的地の自教室に着いた。扉に手をかけて横に引き、教室に足を踏み入れた途端思わず目を見開いた。 夏休みで誰もいない教室。雨が上がり、青と橙が混りあった夏の空。男子生徒が教室で一人佇み、窓際の机に座って空を見上げていた。 オレンジ色の柔らかな夕焼け光が、色素の薄い髪や白い頬を染め、きらきらと輝かしている。まるで有名な絵画を眺めているかのようだった。父親が趣味で集めている絵画に、同じような天使が描かれていたことを思い出す。あまりに現実離れしている光景に、目が離せなかった。 だがその瞳は虚ろで、どこか遠くを見ているようだ。そして、表情というものが全て抜け落ちてしまったのではないかと思うほど無表情な横顔だった。 そのアンバランスさが、彼の持つミステリアスな雰囲気をさらに強めていた。 「野々宮……?」 しばらくてから、ようやく言葉を紡ぐことができた。その美しさに見惚れる一方、人形のように表情が動かないので、どうしたらいいか分からなかった。 雨上がりの湿気を含んだ風が、教室のカーテンやワイシャツの襟、オレンジに染まる髪を吹き抜けていく。風は野々宮空という存在ごと、この世から攫ってしまうのではないかと思った。 こちらに気づいたのだろう。顔を太一に向けた野々宮は、驚いた様子も見せず静かに一言告げた。 「番になるはずだった女の子が、死んでしまったんだ」 雨は止んだのに、あいつの心には枯れない雨がずっと降り続いているように感じた。 ◆◆◆ 彼女に初めて出会ったとき、顔をみてすぐに分かった。 この子が、俺の運命の相手なんだと。 「すまんな!わざわざ見舞いに来てもらって!」 祖父がぎっくり腰で入院することになった。いい歳して近所の小学生と野球やサッカーをするからだ。空は中学2年生になっていたが、家の近所に住む祖父の家へたまに行くと、一緒にやらないかとよく誘われる。 「本当ですよ!お義父さん、気をつけてくださいね」 「全く、いい歳して呆れちゃうわよね」 一緒にお見舞いに来ていた母が、病室にある椅子に腰掛ける。隣に座ってる祖母と顔を見合わせて微笑み合う。 今でこそ仲がいい嫁姑のように見えるが、結婚の挨拶に行ったときは散々な言われようだったらしい。野々宮家は代々βの家系だが、母がαだったからだ。 αとΩは、βにはない「番」という特別な関係がある。それは、恋人や夫婦関係よりも強いという。中でも、生まれつき定められているという“魂の番”は、一目見ただけで互いに惹かれ合うといわれている。こういう事情から、βがαやΩと結ばれても別れることが多く、一般的にβはβ同士で結婚するのか常識とされていた。 βとαという違う性種で結ばれた両親への風当たりは、相当きつかったらしい。けれど時間をかけて理解し合えたと、以前母は笑って語っていた。 だけど、それはβだけじゃなくてαやΩも同じなんじゃないかと空は思う。 「ちょっとトイレ行ってくる」 行っといで、と言う祖父の大きな声を聞きながら病室から出た。なんとなく、祖母と母を見たくなかった。 この病院は総合病院なので院内は広く、いろんな患者がいるようだった。祖父と同じ大部屋がいくつもある。せっかくだから少し周ってから戻ろう。病院に来ることはなかなかない。 廊下を奥へ進んでいくと、次第に大部屋から個室になっていった。 ふと、甘い匂いが鼻先を漂ってきた。 チョコレートのような濃厚な甘さでもなく、果物のようなマイルドな甘さでもない。ましてや、クラスの女子がこっそり付けている甘ったるい香水のような匂いでもない。 もっと、別の。別の匂い。 どちらにせよ、病院で匂うような香りではない。匂いがする方向が気になり、廊下の奥へ歩を進める。 奥へ進む程、匂いはどんどん強くなる。気づいたら一番奥の病室の前に立っていた。ノックをして扉を開けると、芳醇な香りに全身が包まれる。そこで出会ったのが、空だけの一輪の“花”だった。 しばらくして祖父が退院してからも、空は病院へ通い続けるうになった。ある少女に会うためだ。 「ヒナ?入るよ」 ノックをして個室の病室に入ると、いつものように本を読んでいた雛子がパッと顔を上げ、明るい表情で迎えてくれた。 「空くん!今日も来てくれてありがとう」 「どういたしまして。今日は顔色が良さそうだね。具合がいいの?」 そう言って雛子のベッド横に置かれている椅子に腰掛ける。部屋には花の匂いがやわらかく漂っていた。例えるなら、桜のように淡く、優しい匂い。雛子自身から香る、空だけが感じられる匂いだ。 雛子は一年前に10歳の誕生日を迎えてからずっと病院暮らしをしている。生まれつき心臓が弱く、幼い頃から何度も入退院を繰り返しているそうだ。空が祖父を見舞ったあの日、最奥の病室で出会った“魂の番”が彼女だった。初めて目があった瞬間、身体で反応して理解した。 「うん!最近は発作も少ないの」 「よかった。今日はお土産があるんだ。学校の調理実習で作ったんだけど、よかったもらってくれない?」 カバンから包みを取り出して彼女に差し出した。「ありがとう」と礼を言って包みを開くと、中に入っていたジャムクッキーをみて目を輝かせた。「いただきます」と言って、花の形をしたクッキーを一枚口に入れる。 蕾がほころんだような表情は、花の形をしたクッキーよりもかわいらしかった。 「美味しい!空くんはお菓子作りが上手だね」 「喜んでもらえてよかった。説明を受けながら作れば誰でも上手に作れるよ。今度、一緒に作ろう」 そう言うと、彼女はもっと笑顔になった。彼女の嬉しそうな顔を見ると、空自身もすごく嬉しくなる。 空と雛子は“魂の番”だったが、正式な番ではない。Ωの発情期は15〜16歳くらいに始まるとあるが、雛子はまだ発情期を迎える年齢でない。それに雛子の体調のことを考えると、発情期を迎えてもすぐに番になることはないだろう。雛子は少しでも無理をすると、心臓に負荷がかかって発作が起きるらしい。今のところ何ともないそうだが、発作の頻度や度合いによっては危険な状態になるようだ。 それに何より、空は雛子とそういう行為をしたいとはまだ思えなかったし、想像できなかった。 「あら、空くん。いらっしゃい」 雛子の母親と看護師が部屋に入ってきた。2人の関係は、互いの両親や医師達にも知られている。 雛子は母親と看護師に空が作ったクッキーを見せながら嬉しそうに味の感想を伝える。朗らかで笑顔が絶えない雛子の周りは、看護師も医者もいつも笑顔でにぎやかだ。雛子はこの病棟のアイドル的存在だった。 彼女と過ごすあたたかな日々が、いつの間にか当たり前の日常になりつつあった。 その後も穏やかな日々が流れ、出会ってから2年が経った。雛子はその間ずっと入院していて、空は毎日のように病院に通っている。 そんなある日、唐突に“それ”はやってきた。 満開に咲き誇ってた桜がひらひらと散り始め、雛子は13歳の誕生日を迎えたばかりだった。空も高校に入学し、少しずつ新しい生活に慣れ始めた頃だった。病室でいつものように一緒に本を読んでいると、雛子は突然苦しそうに胸を押さえ始めた。 「ヒナ……っ!?」 様子を確かめようと椅子から腰を上げようとすると、雛子は首を左右に振って嫌がった。 「空くん、だめ。近寄っちゃ、だめ」 「何言って……っ!」 雛子の肩に触れようとしたとき、びくりと震えが走り体の動きが止まった。それだけではない。 匂いが変わった。 いつもの淡く香る優しい匂いではない。もっと強くて、抗えない匂い。初めて会ったときよりも強く惹きつけて、絡め取って離さないようにする芳醇で濃厚な匂い。 例えるなら、以前家族で訪れた薔薇園で嗅いだ匂いに近い。たくさん咲き乱れる真っ赤な薔薇。押し寄せてくる花に溺れそうになる、あの感覚。濃厚で魅惑的な、花の香り。 心臓がものすごく速い音を立てているのが聞こえる。体中の血液が、血管をぶち破りそうなほど駆け巡ってる。 息苦しくて、思わず顔が歪んだ。雛子も苦しそうに胸を押さえながら何か言っていたが、どんどん匂いは濃くなり意識を保つのが難しかった。だんだんと、頭が理解し始めた。おそらく、雛子に初めての発情期が訪れたのだろう。空自身も発情期のΩのフェロモンを浴びるのは初めてだった。 でも少し引っかかる。雛子はまだ発情期が始まる年齢に達していないはずだ。だが今はそれどころではない。すぐにここから出て看護師さんを呼ばなければ。このままだとΩのフェロモンにより、自我を失って雛子を傷つけてしまう。頭では分かっていても体が動かなかった。 雛子はずっと心配そうにこちらを見つめている。もともと体が弱い彼女はもっと苦しそうだ。 ふと、胸まで伸びた黒髪の隙間から細くて白い首筋が見えた。 瞳を涙で潤ませ、息を弾ませながら必死にこちらを見つめる姿をみて、ますます鼓動が早くなった。空の中のαの本能が反応したのだ。その細い首筋に噛みつきたい衝動を必死になって抑ええる。 噛んで、跡をつけて、自分だけのものにしたい。 この手からも、自分から遠ざけて、彼女のことを守りたい。 相反する感情が体の中でせめぎ合う。自分の中で芽生えた激情が怖かった。 「くっ……。……っ!」 ちくりと右腕に痛みを感じたので腕を見ると、服がめくられ針のようなものが刺さっている。注射だろうか。 気づくと、だんだん意識が遠くなってきた。 「……っヒナ」 視界がぼやける中、雛子がずっと空の名前を呼んでいたのがようやく聞こえた。 その後のことは、意識を失っていたこともあり記憶がない。聞いた話によると雛子の主治医が睡眠薬を打ってくれたそうだ。雛子はΩ用抑制剤を打って落ち着いたらしい。α用の抑制剤はまだないため、空は通常の睡眠薬で落ち着くまで眠らされてたようだ。早くα用の薬もできてほしいと強く願った。 それから暫くは病院に行けなかった。初めての発情期で雛子の体調が落ち着かなかったのもあったし、両親にも反対されていた。けれど、何より自分自身が一番怖かった。もう少しで、本当に彼女を傷つけそうで怖かった。 そのため、必然的に高校で過ごすこと増えた。いつもは学校が終わるとすぐに病院に行っていたが、今は空いた時間を学校の図書室で過ごすことにしていた。空は高校で特別親しい友人をまだ作っていなかった。クラスメイトとは話をするし、避けられていたわけではないが、何となく作ろうと思わなかった。もともと中学でも友人は多い方ではなかったし、高校には同じ中学出身の生徒もいなかった。 そんなとき、よく見かけるようになったのが彼だった。 「一年!もっとしっかりパス回せ!」 いつものように図書室で過ごしていると、グラウンドから響く声か聞こえた。思わず窓から顔を出す。グラウンドでは、サッカー部がパス練習していた。今練習しているのは空と同じ一年なのだろう。じっと見ていると、動きにキレがあって目が離せなくなる生徒が一人いた。 遠目からでも他の生徒より背が高いのが分かる。同じαとはいえ、空よりも体つきがしっかりしてそうだ。短めの黒髪がスポーツ少年らしくて似合っていた。 気がついたら練習が終わるまでずっと眺めていた。辺りも暗くなり、周りを見るとほとんど人がいなかった。 自分でもびっくりした。だけど、なぜそうしていたのかは分からなかった。 それが俺が初めて彼を、如月太一を知ったときだった。

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