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【よすが】佐藤あらん

     遠く山あいに広がる空は、僅かばかりに青く。  けぶる空気のたゆたう様を、じっと見つめる。  総じて鬱々と下方へ流れる感情の波。  それが通り過ぎてゆくことを、ただ、ひたすらに願っていた時間。  ぽつりと頰に落ちた何かに、ふと顔を上げた先で見えたそれは、ただの幻想だったのだろうか。   * * *    ひんやりとした空気が汗でべたついた肌を掠め、結城真哉(ゆうきしんや)は驚いてひゅっと息を吸い込んだ。 「エアコン効きすぎじゃない?」  ため息とともに部屋へ入ると、真哉はリビングで雑誌を読んでいた母親に声をかける。 「え、そう? でも暑くない? 今日」  数ヶ月ぶりに帰省した息子への一言目がこれである。両手を広げて歓待しろとは言わないが、もっと他に言うことはないのかと真哉は呆れた。だがしかし、これもいつものことなので肩にかけた荷物を部屋の隅へ置くと、とりあえずキッチンへ足を向ける。 「これ、飲んでいい?」  真哉がリビングにいる母親に向けて手に持った缶ビールを見せると、「いいよー」と気の抜けた答えが返ってきた。真哉はその場でプルトップを開けると、そのままごくごくと半分ほどを一気に飲んだ。 「あー、生き返るーー」  炭酸とアルコールの刺激に喉が潤され、思わずそう口にすると、リビングから吹き出す声が聞こえてくる。 「どっかのオヤジみたいね」  ツボにハマったのか、母親の美枝子がくっくっと笑い続けていた。 「はいはい。そのどっかのオヤジは夕飯いらないから」 「なに、せっかく帰ってきたのに母親の相手してくれないの」  缶ビールを片手にリビングへ入る真哉を、美枝子はじとりと睨んでくる。 「同窓生と集まるんだよ。だから帰ってきたんじゃん」  空いていたソファへ座る真哉に、美枝子が抱き込んでいたクッションをぽいっと放り投げた。 「っぶな。子どもみたいなこと、すんなよ」  片手でそれを受けた真哉が不服そうに口を尖らせると、美枝子はしてやったりという顔をして笑った。 「冷たい息子に天誅」  自分で言っておきながらそれがおかしかったのか、美枝子がまたひとりで笑い出す。そんな母親には慣れている真哉は、大人しくクッションを横へ置くと、再びビールに口をつけた。 「同窓生って誰?」  ひとしきり笑ったあと、ようやく落ち着いた美枝子がそう訊いてくると、真哉は思い出すように首を傾げてみせた。 「えーとーー多田と三野瀬、横塚、田中、あと……誰だったかな? 確か十人くらい集まるって」 「へえ。って、多田くんって、陽平くんじゃん。なんで名字呼び?」 「あー……まあ、久しぶりだし、なんとなく?」  真意を覆い隠し、美枝子には苦笑してみせた真哉は、つきりと痛んだ胸に気づかないフリをする。美枝子はそれに気づくはずもなく、「そんなもん?」と笑った。   * * *    滔々(とうとう)と流れる川を横目に、真哉は舗装された道を歩いていた。  堤防の上の道は車が通ることは少なく、犬の散歩をしている老婦人や、ランニングをする人間ばかりが目立つ。そんな中、ただ歩いている真哉はなんとなく身の置き所がないように感じながらも、懐かしい光景に目を細めていた。  夏の日照時間は長く、冬場であれば真っ暗であるところに、傾きはしても夕陽とはまだ言えない太陽が照りつけている。  穏やかな水面の下には魚でもいるのか、時おり小さな水飛沫がたつのが見えた。  真哉がここを毎日通っていたのは、もう十年ほど前になる。  その頃となんら変わらない光景に安堵しながらも、どこか飽和した不安が真哉の心を覆っていた。  今日集まるのは、その高校時代に特に仲の良かった同窓生。都合がつかない者もいたが、それでも会うのは卒業以来の者が多く、真哉はそれなりに楽しみにしていた。  実は多田陽平とは卒業後も連絡を取り合っていたし、頻繁に会ってもいたのだが、それがなくなって約一年。理由はわからない。ただ、一方的に連絡手段を絶たれたのだ。  そんな多田も来ると知って、真哉は同窓会への出席を決めた。理由を知りたかったのだ。あんなに親しくしていたにも関わらず、いきなり関係を断たれた理由を。  それを知ることが今の真哉の不安を形づくっていた。  高校生であった十七の年。真哉と陽平は、同じ季節、この場所で、初めてのキスをした。 * * * 「よっ、結城い、お前、変わらないなあ」  会場である地元の居酒屋の個室で、そう声をかけてきたのは横塚だろうか。  そう時間は経っていないと思っていたのに、その額はかなり広くなり、腰回りも肉付きよくなった元同級生は、会わなかった時間の経過を残酷に知らしめた。聞けばすでに二児の父親だというのだから、驚きだ。すでに席についていたのは三人。四人目に真哉を迎え、空気はすでに懐かしさを共有する浮ついたものに変わっていた。 「多田は一緒じゃないのか?」  おそらく二人の仲の良さを知っていたからこそ出てきた悪意ないその問いに、真哉は苦笑で答える。大人になった彼らはそれでも何かを感じ取ってくれ、「まあ、いいか」と別の話題を振ってくれた。  ぽつぽつと現れる同窓生を囃し立てながら盛り上がっていく席の中、真哉は目的の男がいつ現れるのかと胸を焦がしつつ、周囲に馴染むように笑みを浮かべる。しかし始まりの時間になっても現れない姿に、どんどん真哉の心は焦燥していった。  何か急な用事でもできたのだろうか。それとも自分がいると誰かから聞いて来るのをやめてしまったのか。そう考えだすと思考はどんどん下流に流れていく水のように昏い方へ昏い方へと引き寄せられてしまう。 「おい、何辛気臭い顔してんだ。まあ、飲め飲め」  離れた席からわざわざジョッキを片手に真哉の横に割り込んできたのは、クラス委員長だった三瀬野だ。あまりアルコールに強くないのか、その顔はすでに赤らんでいる。真哉の前にあったビールの入ったピッチャーに手を伸ばすと、半分ほど減っていた真哉のジョッキに注ぎ足しながら、少しばかり声をひそめた。 「陽平待ってるんだろ?」  視線はジョッキへ向かっているが、その声は思いのほかしっかりとしていて、真哉はドキッとする。無言で否定も肯定もせずにいたのに、三瀬野は真哉の本心を見透かすように苦笑を浮かべた。 「ケンカでもしたのか?」  ジョッキを傾けながら三瀬野がそう訊いてくると、真哉は思わず眉間にシワを寄せる。 「ケンカなら良かったんだけどな……」  すると三瀬野は意外そうに目を見開いた。 「なんだ、けっこう深刻なやつか。ーー珍しいな。おまえたちってなんかこう、パズルのピースみたいにしっくりハマってるっていうか……同じ遺伝子じゃねえのってくらい気が合ってたよなあ」  当時のことでも思い出しているのか、三瀬野が天井から下がる和紙でできた照明を見ながらそう話す。その例えに複雑な心境になったのは真哉だ。 「同じ遺伝子って……兄弟じゃあるまいし」 「いや、兄弟ならケンカすんだろ。俺、弟いるけど、まるで違う生き物かってほど理解できんわ。でもおまえたちは違うんだよなあ。同じ細胞から分裂して全部共有してる双子みたいな仲だったじゃん」  言いたいことがわからないわけではないが、真哉はそれにはさすがに苦笑するしかない。 「んなわけないだろう。なんもかんもわかり合ってたってわけじゃない……」  そうだ。実際に陽平は真哉に何も言わずに離れていき、その理由が真哉にはわからない。すべて共有しているのであれば、今陽平がどこにいて、何をしているかわかるはずじゃないか。  真哉は陽平と別の人間であることが不満であるかのように、拗ねた気持ちになる。それが表情に出ていたのだろうか。隣にいた三瀬野が小さく溜め息をつくのが聞こえた。 「ーーあのな、それが普通なんだよ。おまえたちみたいなのが特別なの。まあ十代って共感する年頃だし、大人になって離れていくのは仕方ないんじゃねえの?」  慰めるように三瀬野にそう言われ、曖昧に頷きながらも真哉はもやもやと胸の中の不安を拭うことはできないでいる。  そういうことじゃないんだ、という気持ちが理屈を跳ね除けようとして、なのに頭の中のどこか一点から冷静に自分を見ているような不可解な感覚。そういった自身でも理解しがたい胸中を押し込め、真哉はこの場の席をやり過ごした。  そして結局、陽平がそこへ姿を見せることはなかったのだった。   * * *    ああ、夢か。  真哉はすぐにそう悟った。  二十八になる今の自分よりもはるかに若い自分がそこにいた。  若い真哉は、懐かしい学校の渡り廊下をクラスメイトと一緒に歩いている。  何が楽しいのか、数人の仲の良い友達と笑いあっていた。だが、そこにいつも隣にいるはずの陽平がいない。そのことに若い真哉は気づいていない。  すると、その廊下の向こう側に、ひとり佇んでいる男子生徒がいた。  二十八歳の真哉はすぐにそれが陽平だとわかったのに、すぐそばを通る若い真哉は気づかない。  陽平はじっと真哉を見つめている。  何か言いたげになのに、声をかけずに若い真哉をただ、眺めている。  二十八歳の真哉はもどかしげに若い自分に気づけ、と念を送るが、その思いはただ虚しく霧散していった。  歯軋りしたい気持ちでその様子を見るだけしかできない二十八歳の真哉は、ふと、気づく。  あろうことか、学生服を着た陽平は、目の前の若い真哉ではなく、夢の主である大人の真哉の方を見ていたのだ。  そしてその閉じられた口が、初めて動いた。 「ーー」  だがその声は届かず、真哉はもう一度と願う。すると意思が通じたのか、陽平が同じように口を動かした。  何度も、何度も、何度も。  同じ形に動く陽平の言葉が、真哉には届かない。  そばに行きたくても動けず、真哉は必死にその声を聞こうとするのに。  なんと言ってる? なにを伝えたいんだ。  そばにいるはずの若い真哉の姿はすでになく、現在の真哉と若い陽平だけがそこに取り残されている。それなのに双方の声はお互いに届かず、陽平は不思議と焦る様子もなく、ただ、真哉に向かって口を動かしていた。  聴きたい。陽平の声を。言葉を。気持ちをーー。  だが、その真哉の願いは結局最後まで叶うことはなかった。 「……」  目覚めた真哉は、実家のソファでうたた寝をしていたらしいことを知る。  じっとりと濡れた身体は、暑さのせいか、夢のせいか。  真哉はゆっくりと身体を起こしソファに座りなおすと、大きく息を吐きながら膝の上に身を倒した。両手で顔を覆い、夢の破片をかき集めようとするが、目が覚めた瞬間にどこかへ散らばったそれは、もう元のようなはっきりとした姿を見せてくれることはない。  懐かしいような、それなのにどこか苦しさの残滓を残した夢の破片に、真哉は考えても仕方ないと頭を振った。  家の中はしん、としていて、美枝子はまだ寝ているらしいと気づく。  真哉はのそりとソファから立ち上がると、リビングの締められたカーテンを少しだけ開き、外を眺めた。  まだ夜明けには早いようで、東の空がうっすらと明るい程度である。 「ーー」  真哉はまだ誰も動き出さない町の景色を見つめたあと、そっとカーテンを元のように引いた。  壁に掛けられた時計はまだ四時にもなっていない。  寝直すという気にもならず、真哉はソファの前を通り、そのまま玄関へと向かった。  ぐっすりと眠っているだろう美枝子を起こさないよう静かにドアを閉め、鍵をかけると、真哉はゆっくりと薄闇に沈んだ住宅街の間の道を歩く。  どこへ行こうという目的はなかったはずなのに、真哉の足は歩き慣れた道を進んでいた。  そして向かった先には川がある。  再びあの堤防の道を歩く自分の姿が脳裏に浮かび、真哉はそこにわずかな違和感を感じた。だがそれがなんなのかを確かめる前に、視界が開け、大きな川の姿が真哉の目に入った。 「……」  深い川は、その流れの音をはっきりとは伝えてはこない。なのにその存在感は五感のすべてに訴えかけてくる。  自分の呼吸音さえかき消される無音の存在感。  水面はまだ闇に沈み、底知れぬ畏れを真哉に抱かせる。  懐かしさよりもそれが増した場所に、真哉は思わず足を止めた。  背後を振り返ると、そこには人ひとり歩いてはおらず、家々の明かりもわずかにしか灯っていない。まるで世界に真哉ひとりだけしか存在しないような感覚に、辿った道筋を走って戻りたい衝動に駆られた。  しかし現実には足は動かず、まるで何かに吸い寄せられるように真哉の視線は再び川の方へと向けられる。  その時、小さく動く影が目に映った。  真哉は反射的にそれを確認しようと一歩足を前に出す。するとさっきまでの畏ろしさが嘘のように消え去り、真哉は何も考えずに前に進んでいた。 「……っ」  微かに息切れし始めたことに、真哉は自分が思いのほか早足でその影を追っていたことに気づく。  動く影は、川沿いの堤防の上の道をゆっくりと移動していた。  ようやくその姿が人のものに見えてきたことで、先ほどよりも空が明るいことがわかる。それなのになぜか影は影としか認識できず、真哉はそれが誰なのかを確かめたくて仕方なかった。  これは夢の続きなのだろうかと、真哉はふと思う。  川の水面もその透明感をあらわにし始めたというのに、その人物の服装すら判別できないのだ。ただ真哉にわかったのは、それが知っている人間だという確信。だからこそ夢なのかもしれない、と真哉は考えた。 「ーー待てよ」  ゆっくりと進む影に、真哉は躊躇わずに声をかける。  すると影が立ち止まり、こちらに身体の正面を向けたように見えた真哉は、彼がまた動き出す前にと急いで歩き近づいた。  彼ーー男は、やはり真哉のことを知っているのだ。だって何も言わずに待ってくれている。  真哉は彼が消えてしまうのではないかと心配になり、最後には走り出していた。  ああ、やっぱり。  真哉はようやく男の目の前まで辿り着くと、そう独りごちる。  男は微笑んでいた。はっきりとは見えないのに、真哉はそう感じたのだ。 「陽平……」  その名を呼ぶと、その影の姿が鮮明になる。  真哉よりもわずかに高い身長、身体を動かすことが好きな陽平はがっしりとした身体つきをしている。そして短い髪は少しばかり茶けていて、鼻筋も通った男前である。きりっと上がった眉は今は穏やかに下がり、真哉に優しげな眼差しを向けていた。  しばらく見つめあった二人だったが、真哉が何かを言いそうになる前に、陽平からの声がそれを止めた。 「ーーなんで、来たんだ」  穏やかな表情に少しの痛みを混ぜたような瞳で見てくる陽平に、真哉は首を傾げる。 「おまえは……来るべきじゃなかった……」  久し振りに聞く陽平の声が呟いた言葉に、真哉は胸が苦しくなった。自分に会いたくなかったのだ、陽平は。それに気づいた真哉は寂しさに表情を昏くする。それに気づいかない陽平ではない。少しばかり苦笑を交えた顔で、そんな真哉の顔を優しく覗き込む。 「俺も、会いたかった。ーーずっと……」  真哉が追いかけてきたことを責めながら、陽平はそんなことを言う。真哉はどちらが本心なのかと困惑した。何が言いたいのか。どうして真哉の前から姿を消したのか。どうして。どうして。  その問いに答える気がないことは、陽平の表情を見ていれば理解できた。伊達に十数年付き合ってきたわけじゃない。それでも真哉は、陽平に会えたことが嬉しく、そして安堵していたのだ。  徐々に明るくなる堤防の道にはまだ他に人の姿はなく、ゆっくりと流れる川の横で、二人は静かに見つめ合っている。先にその沈黙を破ったのは真哉の方だった。 「昨日、なんで来なかった?」  その問いになぜか陽平は困ったように眉を八の字にする。そしてそれとは関係ないことを話し出した。 「真哉……もうすぐ時間なんだ……おまえが……と、俺はおまえと一緒にいられなくなる……」  だが肝心な部分がはっきりとは聞こえず、真哉はもう一度言ってくれと伝えようとする。それなのに陽平は顔を逸らして明るくなりつつある空を見上げた。 「朝だなーー」  その言葉につられて真哉がその視線の先を見ると、空が澄んだ青に染まっている。その吸い込まれそうなほどの美しさに一瞬見惚れた真哉がハッと気づき、視線を戻すと、陽平が背中を向けていた。 「陽平っ」  呼び止める真哉の声にもその背中は反応せず、遠ざかっていく。もちろんすぐに追いかけようとした真哉だったが、なぜかまた足は動かず、小さくなる背中を見送ることしかできないでいた。 「陽平……」  小さくその名を口にした真哉は、泣きそうなほどの寂しさに身を包まれていた。  太陽が昇り、辺りの景色を鮮やかに色づけていく中、真哉はひとり、流れる川のそばで立ちすくんでいたのだった。   * * *    黒い衣装に身を包んだ人々はみな、俯き神妙な顔をしている。  だれひとりとして笑っている者はおらず、無言で建物から出てくるのだ。  空は分厚い雲に覆われて、遠くに見える山あいの空だけが青く切り取られ、それを見つけた真哉は、その滑稽なほど不自然な空に、泣きたくなった。  胸から込み上げるものが喉を押し、さらに上に這い上がって目元から何かを押し出そうとする。真哉はそれをぐっと抑えつけるように耐え、握った両手の拳にぎゅっと力を入れた。  建物の屋根から立ち昇る煙は、まるで人々の気持ちを代弁するかの如く、重苦しく灰色の空と混ざっていく。  ひとり離れた場所に立つ真哉を、気にする者はそこにはいなかった。   だから、心を凍らせた真哉の瞳から、ひと粒の涙が溢れたことは、誰も知らない。    早朝の出来事から、真哉はおかしくなった。  夢かもしれないと思ったが、あのあと真哉は確かに自分の足で実家に戻ったし、そのままコーヒーを入れて軽い朝食も摂った。  そしてどこかへ出かけることもなく、ずっとリビングのソファに座っている。  眠っていないことはわかるのに、真哉の頭の中に、見たことのない映像が繰り返し映るのだ。それが記憶の一部なのだと納得するには、あまりにも今ある記憶との齟齬が大きく、真哉は混乱するばかりだった。  繰り返し現れる景色は、まるで本当に見てきたかのように鮮明で、そして見知らぬその場所は、真哉が作り出した仮想の記憶というには現実味があり過ぎた。 「ーー」  それが頭に浮かぶと、真哉はそれを追い払うように頭を振り、見なかったように振る舞う。平常心を装い、テーブルの上のマグカップを手に取りコーヒーを飲んでみたり、テレビのスイッチを入れて流れるニュースに集中してみたりした。だがいつのまにか真哉の意識は再び同じ映像を頭の中に映し出すのだ。  そんなことを繰り返しているうちに、壁にかけられた時計が昼近くを示していることに気づく。そこで初めて真哉は、母の美枝子が起きてこないことを不可解に思った。  今が休日だとしても、息子がいることがわかっているのに昼近くまで寝ているような母ではない。どころか、張り切って朝食の支度をするようなタイプなのだ。それがないということは、できない状態にでもなっているのだろうか。そう心配した真哉は、リビングから出て美枝子が寝室に使っている部屋へと急いで向かった。  そしてそこで見たものに、真哉は衝撃を受けた。  ノックをして開けたドアの向こうには、誰もいなかったのだ。それどころか人がいた形跡もまったくない。  整えられたベッド。隙間もなく閉められたクローゼットとタンス。そして化粧品の一つも置かれていないドレッサー。 「ーーえ?」  そこはまるで、まだ誰も使っていないモデルルームのように、備品だけが揃えられたただの容れ物。  その部屋の前で硬直した真哉は、頭の中で必死に美枝子の様子を思い出す。昨日のこと。過去のこと。ここで生まれ育った真哉の知る限りの母の姿を、頭の中でぐるぐると考える。そして家の中にある部屋という部屋のドアを開けて中を確認していく。ゆっくりと、だが徐々に焦りが大きくなり、その動作は乱暴なものになっていく。 「っ……」  なぜ? どこにも美枝子はいない。いないどころか、その痕跡さえもないのだ。まるで今から新しい住人が引っ越してくるのだと言わんばかりに、そこに生活感というものはなかった。  わけのわからない現象に恐怖と苛立ちを覚えた真哉は、立ち尽くし考える。  昨日は確かに、いた。  帰ってきた真哉を、美枝子はリビングで迎えたじゃないか。  言葉も交わした。そして真哉の知っている記憶のままに、よく笑っていた。  だが、そこまでだった。  昨日真哉が同窓会から戻ってきた時、美枝子の靴はあっただろうか。美枝子の上着やバッグは? 洗濯物は取り込んで置いてなかったか? 夕食を食べたはずの痕跡はあったのか。  そこまで考えた真哉は、ハッと顔を上げてリビングへと引き返す。  そこには美枝子が買い溜めているビールや食料品がある。実際に真哉は昨日ここで冷蔵庫からビールを取り出した。それに今朝も朝食をつくり、コーヒーも淹れたのだ。それはそこに道具と材料が揃っていたからに他ならない。  それは、ここに美枝子がいた証にもなる。  急ぎ戻った真哉は、リビングに入り呆然となった。  そこから見えるキッチンには、何一つとして物が、ない。  朝使ったままシンクへ置いたはずの食器も、コーヒーメーカーも、冷蔵庫も、何もかもが消えていた。  真哉は固まったまま、だだっ広いリビングのフローリングの上に立ちつくす。  さっきまでいたソファも、テーブルも、使い込まれたラグも。  全てが最初からなかったかのような空っぽの家の中で、真哉は呼吸さえ忘れて頭の中を真っ白にしていた。  カーテンのない窓から入る光が消え、家の中と外とが同じ暗さになった時、真哉はようやく動き出す。  リビングを出て、廊下を歩き、玄関にただひとつ残っていた自分の靴を履くと、玄関を開けた。鍵のことなど、すでに頭にはなかった。何ひとつ残っていない家に鍵をかけて何になるだろう。ゆっくりと足を動かしていた真哉は、その歩みを徐々に早める。  今なら、今ならまた会えるはず。  今朝会ったのは、確かな記憶。  真哉はそこへ行けば陽平に会えるはずだと、いつの間にか走り出していた。  薄暗い道を脇目もふらずに、ただ走る。  過ぎ去っていく見慣れたはずの家も、電柱も、小さい頃に遊んでいた公園も、それらすべてが、今はまるで見知らぬもののように感じ、真哉はただ、ただ、自分を知っている、そして自分と会話をした大切な男の元へ向かっていた。  キスをした。肩を抱かれ、首に腕を回し、何度も、何度も。交わした言葉よりもさらに密度の濃い口づけを交わした。男の腕に抱かれ、胸に頰を寄せ、幾度となく幸福を感じたのだ。  それらは現実だった。  傷ついた心も、幸せを感じた心も、全部自分の確かなもの。  わけのわからない状況の中で、それだけは事実だったはずだと真哉は自分に言い聞かせる。  突然会えなくなった恋人のことを、一瞬たりとも忘れたことなどなかった。  恋しくて、寂しくて、憎もうとしても、求める気持ちの方が大きかった。  何もない家。  居るはずの母は消え、住んでいたはずの町は、まるで真哉を排斥するかのように他人行儀で。  あるはずのない記憶。そして長く会えなかった恋人との再会。  それらが何を示しているのか、真哉にはわからない。  震えそうなほどの恐怖と畏れに、思い出の川の景色が頭をよぎる。  恐ろしかった。  今朝、暗闇に沈む川のそばが、死ぬほど恐ろしかった。  それなのに陽平の影を見つけた途端、それは和らいだ。  恋人に、陽平にさえ会えれば、この恐怖も畏れも消えるはず。  わけのわからないこの状況にも、何かの答えが出るはず。  そう自分に言い聞かせながら走る真哉の前に、今朝見たばかりの景色が広がった。  その瞬間、真哉の脳裏に、今まではなかった光景が鮮明に浮かぶ。 「っーー」  走っていた真哉の足が、ゆっくりと重くなっていった。最後には一歩も動けないほどに。  地面に縫いつけられた足を動かそうとする意識は、真哉の中にはもう、ない。 「う、そ……」  まるでフラッシュバックのように次々に流れる映像は、真哉が思いもしていなかった記憶。  弾ける光。大きな衝撃。そして真っ赤に染まる視界の中にいた、母の姿ーー。 「真哉」  闇の中に落ちた川を背後に、近づいてくる影が真哉の名を呼ぶ。 「よ……へ、い……」  そしてその時、真哉の散らばった記憶が、ようやく一本に繋がった。  真哉は、幻影を見ていたのだ。  実家へ帰ったことも、同窓会へ出たことも、すべてが真哉がいいように作り出した世界。  現実は残酷だった。  すべてを思い出した真哉のそばに、陽平が静かに立つ。そしてその手を伸ばすと、初めて真哉の頰を愛おしそうに撫でた。 「……」  そこに、ぬくもりはない。だが確かに愛した恋人の手だ、と真哉は目を閉じそれを感じる。  あの記憶は、陽平の葬儀の時のものだった。  陽平は真哉の前から消えたが、それは病気で倒れ、息を引き取ったから。  あっけないものだった。  二人の仲を知るのはお互いだけ。だから真哉は親友としてしか、棺に入れられた陽平を見送ることができなかったのだ。  陽平の喪失は、真哉の精神を蝕んだ。  まともな生活ができなくなり、酒に溺れた真哉を助けようとしたのは、母の美枝子だけだった。そして、実家へ戻った親子は、不幸にもある晴れた日のドライブの最中に、事故にあったのだ。  即死だったのだろう。  真哉の記憶は、そこで途切れているのだから。 「母さんは……」  気がかりだったことを真哉が呟くと、陽平がにこりと笑う。それは、真哉がよく知る、恋人の表情。 「助かったよ。まだ病院にいるけど。ーー大丈夫だ」  頰にあった大きな手は、まるで小さな子を慰めるように真哉の頭をぐしゃりと掻き回す。  真哉は「そっか……」と安堵と悲しみで膨らんだ心に、俯き、涙を零した。  自分はもう生きてはいないのだ。  それは呆気ないもので、諦めと、わずかな苦しみを呼ぶ。それでも一緒にいた美枝子が助かったと聞いて、それだけに救われた。  複雑な気持ちと愛しさに目の前の男の顔を見上げると、真哉はようやく腑に落ちる。 「おまえは、迎えに来てくれたんだなーー」  今朝の陽平は真哉に来るべきではなかったと言った。それはともさず、死ぬには早すぎると言いたかったのだろう。  陽平は小さく頷くと、真哉から手を離した。 「自覚のない者は連れて行けないんだ。だから真哉には、自分で気づいて欲しかった。死んだことに気づけない人間は、ずっと現実と自分の作り上げた記憶の中を行ったり来たりしながらそこから出ることができない。もし真哉が、気づいてくれなかったら、俺が来た意味はなかった」 「言われても、信じられないしな……」  今朝そんな事を言われたとしても、きっと真哉は冗談だと思って軽く流していただろう。 「ーーじゃあ、もう一緒に行けるのか?」  ふと生まれた小さな不安をそう口にすると、陽平は両腕を広げて真哉の身体を抱き込んだ。  いつもしていたようにーー。 「ああ。もう離れない。ずっと一緒だ」  ぬくもりなどないはずなのに、抱きしめられた真哉は胸があたたかくなっていた。そして自分も腕を伸ばして以前のように恋人の背中に回し、ぎゅっと抱きつく。  久しぶりに感じる陽平の胸は居心地よく、真哉を安らかにさせた。 「ずっと……?」  恋人の腕の中に顔を埋め、真哉はそう問い返す。 「ずっと」  真哉の泣きそうな声に、陽平は力強く答える。 「永遠に、そばにいる」  愛おしいと思っているのはお互い様だと陽平は真哉に言い聞かせた。  滲む視界に目を閉じ、額を陽平の胸に押し当てる真哉。  この先、もうひとりになることはない。  母親をひとりにしてしまうことは心配だったが、彼女にも恋人がいる。  真哉はもう、寂しさに耐えなくていいのだ。  そう思うと、胸の奥から溢れ出る感情の奔流に、真哉は次々に涙を流した。  そんな真哉の肩を掴んだ陽平が、そっと身体を離した。そして真哉が不安になる前にその目を覗き込み、「愛してる」と口の動きだけで呟くと、そっと、唇を寄せる。 「ーー」  真哉は、静かにそれを受け入れた。  もう、離さない。  二度と。  愛する恋人との時間を、真哉はようやく手に入れたのだったーー。            完        

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