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【報われない恋のかわりに】中緒万実

いつまでそうしてるつもり?  たずねると、振り返った男は日に焼けた目尻に皺を寄せて、 「アイツがみつかるまで」  夕暮れの海にゆっくりと視線を落とした。  男はこの海で恋人をなくしていた。  大学二年の夏。恋人の地元のこの海で。  事故だった。 「言い出したのはオレなんだ。二十歳すぎてもまだ泳げないなんてアイツがいうから、おしえてやるって、むりやり。あじけないプールよりかは、思い入れのある場所のほうがおまえも楽しいだろって」  俺が男に気づいたのは夏のはじめだ。  防波堤のふちに腰掛けて、来る日も来る日も、日が昇って沈むまで。  沖に浮かんだオレンジ色の浮標をただじっと眺めていた男は、俺が声をかけると驚いたように振りむいた。  男はよほど話し相手に飢えていたんだろう。きいてもいない恋人のことを話しはじめたのだ。 「ちょうど、あのあたりだ。あの、ブイのところ」  男の指先がなぞる浮標は波に呑まれてときどき姿を消す。  あのあたりはとくに潮の流れがはやい。  男の恋人とおなじ、この海のちかくで生まれ育った俺はそれを身をもってしっている。  沖へさそったのは男のほうらしい。  ようやく息継ぎができるようになったばかりの、いまいち気乗りしないようすの恋人を自前のボードに乗せて、盆まえの曇天が重くのしかかる海を男は沖にむかってぐんぐんすすんだ。  そのとき、ふと目標にしていた浮標が消えたのだ。  振り返ったさきにあるはずの、恋人のすがたも。 「ちょっとかっこいいところ、みせようとしただけだったんだけどなあ」  男はぽつりとつぶやいた。 「卒業したらさ、一緒に住もう、っていうつもりだった。一年ぶりだっていうアイツの帰省にひっついてきて、アイツの実家に泊まって。親父さんたちがすこしでもオレのこと気に入ってくれたら、それとなく提案するつもりだった」  なかなか両親にカムアウトできずにいた恋人の尻を、ちょっとだけたたくつもりで。  感触は上々だった。  ふたりの関係を打ち明けることはできなかったものの、恋人の両親も、恋人によく似た小さな弟も男のことを気に入ってくれた。  10歳としの離れた弟は、翌日ふたりが海に出かけようとしているのを聞きつけると、自分もいくと言いだしてきかなかった。 〝また、今度な〟  腰にすがりつく子どもの頭を優しく撫でて引き剥がして、ふたりはもってきた車に積んできたボードをもって海にでかけた。  そしてそれが、永遠の別れになった。 「あ、それ」  いつものように防波堤の縁に腰掛けている男へ声をかけると、あいさつもそこそこに男は俺の肩にかかっているトートバッグへ視線をよこす。  中にはまだ油の匂いもあたらしい、4号キャンバスの小さな絵が入っている。 「できあがった?」  頷くと、期待のこもった目が俺を見た。  絵は男をモデルに描いたものだ。  この海ではじめて男に会ったとき、俺はまよわず彼に『絵のモデルになってほしい』とたのんだ。  自分はいま美大にかよっていて、みじかい夏期休暇のあいだに描く絵の画題をさがしている、と。  俺なんか描いてもおもしろいところなんてないよ、と苦笑いをうかべる彼は、しかし、俺の頼みをどことなく嬉しそうにきいていた。  翌日もういちど男にたのみこんで、完成したら男に絵をプレゼントするという約束でモデルになってもらったのだ。  明け方、どこからともなくふらっとあらわれる男のうしろにイーゼルを立て、無心に筆を動かす。それがここひと月ほどの、俺と男の日課だった。  その絵が今朝、ようやく完成した。夕日が沈むころになってようやく姿をあらわした俺をみて、男は絵の完成を悟しったのだろう。 「絵、みせてくれる?」  バッグから取り出したそれを手渡す瞬間、少しだけ手が震えた。  これを渡せば楽しかった日々がおわる。  彼も俺とおなじ、なにかをを感じているのかもしれない。  蔭になった男の顔には、どことなくすっきりとした表情が浮かんでいる。 「ああ。きれいだ」  キャンバスいっぱいに広がるオレンジ色の水平線が、くもりのない男の目の中に映った。  モデルになってくれといいながら、俺が描いたのは男ひとりの姿ではなかった。  景色は目の前に広がる海そのままに、男の立つ突堤から左にひろがる浜辺をふたりの男が寄り添いながらあるいている。  そんな情景。  うしろ姿の彼らは、ひとりが相手の肩を抱き、引き寄せられた男はたくましい肩に華奢な身体を寄せている。  長く伸びるふたつの影は砂の上でひとつに絡まり合う。 「ああ、そうだった」  男の荒れた唇から深く、湿った吐息が漏れた。 「あの浜辺から、ふたりで海にでたんだ」  塩素焼けした前髪からぽたり、蕩ける太陽を閉じ込めたような雫が落ちる。 「あのブイまでいってから帰ろう、そういってオレはアイツをひっぱってった。アイツは嫌がったんだ。もう暗くなるからやめようって。でもオレは、オレはもうちょっとだけふたりでいたかった。だけど、アイツがいつの間にかいなくなって」  名前を呼んだ。  強い波に流されて一瞬で浮標のむこうにいってしまった恋人を、必死になって追いかけた。 「それで、やっと追いついたけど」  もがく手をとって、なんとかボードに乗せた。  そのとき、足元で潮が勢いよく渦を巻いた。 「それからさきは、わからない。気がついたらここにいた。キミは、しってるんだろ。アイツのこと。あのとき、なにがどうなったのか」  訊かれて、俺はうなずいた。  しってるよ。  アンタの恋人がどうなったのか。  アンタが、どうなったのかも。  男は寂しそうに笑って、濡れた頭を掻いた。 「これ、よく描けてる。うしろ姿がアイツにそっくりだ。首が細くてきれいで。最初はそこに惚れたんだ」  俺がどう答えていいか迷っていると、男はちょっとだけ気まずそうに肩をすくめた。  のろけ話はやめてくれと俺の顔に書いてあるのに気づいたらしかった。 「ああ、ええと。アイツ、いまどうしてる? 元気にやってる?」  元気だよ。3人目のこどもが来年の春には小学生になる。  そういうと、男はちょっと驚いたような顔をする。  男の止まった時間の中にいる恋人では、親になるにはちょっとだけ頼りないのかもしれない。 「すこしはまともに泳げるようになったか? 子どもにおしえてやれるくらいには」  けっきょく、まだ泳げないままみたいだよ。子供たちには内緒にしてるみたいだけど。  どうせ、スイミングにかよわせてるから自分は泳げなくても平気だろうって思ってるんじゃないかな。 「はは。むかしからアイツは他力本願なところがあったんだ。それは変わらないな」  あの人、あれから海に入れないんだ。  ここにも、いちども来てない。 「そう。まあ、そうか」  男は目を伏せた。サンダルの足元に波濤が押し寄せては砕けて散っていく。  いつのまにか波がすぐそこまでせまっている。  沈むはずのない防波堤に海が満ちる。  湧き上がった雲の隙間に残り火が燃えていた。  時間だ。  もうすぐ今日の陽が落ちる。  そして明日はもう、彼の太陽はここには昇らない。  足元に広がる海をみて男も気がついたらしい。  真新しい油のにおいがするキャンバスを濡れた腕につよく抱いた。 「ありがとな」  男の顔がくしゃりとゆがむ。  とたんに、肺に水が満ちたように強く胸が痛んだ。 「いかないで」  気づけば声に出していた。 「おいていかないで。いっしょにつれてって」  手を伸ばす俺にちょっと目を瞠ると、男はあのときとおなじ、困ったような、照れくさそうな笑みをうかべて、 〝また、今度な〟  俺の頭をそっと撫でて、海へ消えた。  波間に揺らめくキャンバスが群青へ沈むまで、じっと海を眺めていた。  見上げる青白い空にはひときわ明るい星がひとつ。  そろそろ親と、兄貴と、その家族が待つ家へもどらないといけない。  二年ぶりの帰省のほとんどを家の外ですごしている息子に両親はカンカンだ。  そういえば、甥っ子たちをプールに連れていってほしいとたのまれていたのを思い出した。高校時代、俺は水泳部で、泳ぎは得意だ。  明日は隣町までいっしょに出かけてやろう。誓って防波堤をあとにした。  背中に波の音がきこえる。  黄昏に沈んで溶けた輪郭のあいまいな景色が、あの人のいる場所とつながっているような気がする。  絵の中で寄りかかるうしろ姿をすこしだけ俺に似せて描いたとしったら、彼は怒るだろうか。  あのころの兄貴と、いまの俺。兄弟だから似るのはしかたないと、そんな言い訳をしたら笑って許してくれるだろうか。  でも、それくらいはゆるしてほしい。  せめて希望の中でくらい、アンタの隣にいたかったんだ。  永遠に報われない、この恋のかわりに。

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