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【秘め事】あおい千隼

 俺の想いはどこに向かえばいい。  近くにいるのに口に出せない狂愛と地獄のような苦しみ。募る思いは日々燃え広がっていき、心は焼き尽くされもう灰すら残らないほどだ。  伝えられたらいいのに。だが決して思いを向けるわけにはいかない。  だってあのひとは……妹の夫なのだから─── 【冬が消えた家】  俺と妹の冬実は歳がふたつ離れた兄妹だ。  冬実は昔からどんなこともそつなくこなすタイプで、両親から──特に父親から溺愛され蝶よ花よと育ってきた。けれどそれを鼻にかけるようなひねた育ち方はせず、誰からも愛されまた誰にも優しく接する心清らかな子だった。  だからこそ友達も多く、母親に似て美人で気立てのいい冬実は思春期を迎える頃には男どもから秋波を送られる日々を過ごす。そして運命の相手と出逢ったのは高校を卒業する一週間まえ、冬実の担任であり俺たち兄妹とは幼馴染の眞野 佑大からの告白だった。  俺にとっても兄貴分である佑大は、共稼ぎで忙しい両親に代わり俺たち兄妹の面倒をよく見てくれた。学校が休みの日は、よく俺と冬実の相手をしてくれたものだ。自分だって予定があるだろうに、暇を持て余す俺たち兄妹の世話を朝から焼いてしまう性分で、男兄弟のいない俺にとっては佑大という存在は頼れる兄貴分だった。  それが恋に変化したのは俺が初等部五年の頃。  朝目が覚めると、下着の中に異変を感じたのがきっかけだ。いわゆる精通を迎えたわけだが、何ひとつ知識のない俺はそれを病気だと疑わず取り乱す。相談したくとも父親はすでに出勤していて叶わず、下の事情だけに母親やまして妹になど打ち明けられず途方に暮れた。  そんな俺を救ってくれたのが佑大だ。通学時に道ゆく俺に声をかける佑大は、暗い表情した俺を案じてどうしたと訳を訊く。迷った末に事情を話し、穿き替え放置できなかった下着はランドセルに忍ばせてあったのでそれを見せた。  すると佑大は瞠目するとつぎの瞬間には腹を抱えて笑いだす。こんなにも恐怖に怯え悩んでいるというのに、どうして笑うのかと憤慨する俺に佑大が教えてくれた事実に脱力。そして滂沱。  当時、佑大は十六歳で大約の性的知識がある。泣き止むまで近くの公園でつき添い、俺にも理解できるよう知識を噛み砕き教えてくれた。尚且つ性処理の方法なども丁寧に伝授してくれたのだ、佑大には感謝しかない。  そして初めての自慰行為は、佑大が手本を示してくれそれに倣った。生まれて初めて味わう快楽は息が止まるほどに強烈なものだったが、それよりも俺が驚愕したのは興奮を覚えた対象が佑大秘蔵のグラビア雑誌ではなく佑大自身だったこと。彼のそそり勃つ性器に愉悦したのだ。  無論そのときは戸惑い混乱もしたが、同時に自分の性的思考が女ではなく男にあると自覚した一件でもある。以後は性癖を悟られなうよう一切を隠して過ごしたが、自慰の対象は快楽にしずくを流し昂る佑大の性器と愉悦する彼の表情。そのとき放出した彼の匂いさえ俺にとっての興奮材料なのだから始末に悪い。  初等部から中等部に、高等部から大学に進学しても佑大に抱く想いが失われることはなく、それどころか歳を重ねるごとに凛々しく魅力的になる彼に恋い焦がれるばかり。叶わぬ想いは発展場で男を漁って慰めるより他なかった。  そして冬実の卒業が迫ったある日。もう教師と生徒ではなくなるからと佑大は冬実に想いを伝え、結婚を視野に入れた交際を申し込んだ。  冬実の答えはイエス。いつかこんな日がくると分かっていた。ふたりが惹かれ合っていることは、近くで見ていた俺が嫌と感じていた。それは好きなひとのことだから、そして大切な妹の心だから……。  佑大と冬実は両親に婚約したことをつたえると、ふたり労わり合うような睦まじい交際が始まった。挙式は冬実の大学卒業のあとに行うとして、まずは記念になるようにと冬実の二十歳の誕生日に入籍をした。  着々とふたりが幸せに向かい歩むすがたは俺にとって拷問に等しい。かけがえのない妹と、大切な兄貴分の幸せを心から祝福してやれない浅ましい自分が世界中の穢れを集めたような醜い存在に思え、程なくして逃げ出すように俺は大学を休学して渡米した。  物理化学を教える佑大の影響で、数多の鉱物に興味を持った俺はいつしか宝石を扱う仕事に就こうと志すように。そこでダイヤモンド鑑定士の資格を取ろうと準備だけはしていたので、佑大と冬実の結婚は寧ろ俺の背中を押してくれた。アメリカで学ぶ費用は高額だが、夢を叶えるためだと父親が一括で用意してくれたのも踏み出す要因だった。  そして俺がアメリカで生活を初めて六年が過ぎた頃、かかってきた一本の連絡にすべての運命が大きく変化することになった─── 【春待ちの福寿草】  1 「おはよう春哉くん、そろそろ部屋に戻らないと風邪を引くよ」  雪化粧をした庭の一点を時を忘れ眺めていると、縁側のガラス戸を少しだけ開いたその隙間から顔をだす佑大が俺に声をかける。  ふり返れば緩い顔をした佑大が目に留まり苦笑してしまう。昔ながらの綿入れ半纏、くたびれた愛用防寒着を羽織る佑大のノスタルジー感に、いい意味で脱力させられた。 「ああ、悪い。戸開けっ放しだったか、寒かったろ。もう入るよ」  ガラス戸を開けたままだったことを詫びると、踵を返して俺を手招きする佑大の許に歩いていく。  ひとつ屋根の下、佑大と暮らし始めて半年。今の生活も漸次慣れてきたとはいえ、未だ彼のスーツすがたを目にすると心臓が跳ねる。そのうえ風呂上りのパン一スタイルを見せられた日には、どうして俺こんな拷問受けてんだと絶望させられる。  当初は妹も佑大のオンとオフのギャップに驚かされたようだ。それもそうだろう、学校では理性と知識を総動員したようなまるで司書然としたスーツスタイルが、プライベートでは毛玉だらけのスウェットにくたびれた綿入れ半纏にグレードダウン。同じキャラとは思えない。  デートでのスタイルは教師のときと同じスーツだったようで、まさかふたを開ければホームウェアに頓着しない輩とは予想だにしない。思い返すと昔から佑大は野暮ったいところがあったが、けれど冬実からすればそれが萌えのツボだったようでいっそう惚れ込んてしまったという。  また佑大は冬場に紬の長着、夏になると浴衣で過ごすことも多々ある。それがまた目に毒なほどよく似合っていて、俺としては襟合せを肌蹴させたくなる衝動を抑えるのに必死だったりする。 「ところで春哉くん、そろそろ僕お腹が空き過ぎて背中とくっついちゃいそうです。ねえ腹の虫、きみも悲しいよね」 「……悪い。すぐに朝飯の用意するから座って待ってろ」 「はい。よかったねえ、腹の虫」  いちいち腹の虫に話しかけるなよと呆れてしまう。やれやれ天然培養は始末に悪いと閉口するが、けれどそれが可愛いと思うあたり妹同様に俺も佑大に毒されているのだろう。恋は盲目、あばたもえくぼといったところか。  冷蔵庫を漁り鮭や卵など適当に取り出し調理する。佑大は朝食の好みが和食派らしく、同居を開始した日から朝飯は焼き魚や納豆などスローフードを心がけている。かくいう俺はアメリカで暮らすうち、すっかり洋食腹になっていたのだが……。佑大と暮らすようになって再認識、やはり日本人はパンより飯が肌と腹に合う。 「ああ、今朝も美味しそうだ。いつもありがとう春哉くん。僕のようなおじさんに、毎日おさんどんさせてしまって申し訳ない」 「べつに……ンなこと気にするなよ、つか佑大はおっさんじゃねえだろ」 「……おっさんではなく、おじさんですけどね。まあいいか、じゃあ冬実さんに挨拶をして頂きましょう」 「──おう」  俺と佑大のルール。飯を食うまえに冬実の遺影に手を合わせて、「いただきます」と挨拶してから箸をつけるという約束。  冬実が亡くなったのは半年まえ、巻き込まれ事故により他界した。即死だったそうだ。買い物帰り、歩道につっ込んできた一台の車によって、齢二十五歳の妹は儚い命を散らされてしまう。運転手は七十を超える老男だったそうで、事故の報告を受けた佑大と両親は深い絶望と虚無に打ちひしがれた。  七十歳を従心というらしいが、いくら心にブレーキをかける術を身につけようと車の運転で道を誤っては意味がない。昨今では年老いた者が若い命を奪う話など珍しくもないが、けれどそれが親族の身に起きれば正気ではいられない。  母親から連絡を受けたときには悪い冗談だと理解するのに時間がかかったが、それも棺で眠る妹を目にすればじわじわと実感させられた。  不幸とは連鎖するのか、冬実の四十九日を過ぎた頃。葬式に参列してくれた親戚の許へ挨拶にいった帰り道、凍結した路面で父親の運転する車がスリップ。両親は還らぬ人となった。  アメリカでの生活基盤のできている俺は、当初の予定では妹の四十九日後に戻るつもりでいた。だが冬実だけではなく両親の温もりさえ失われた家は寒々として、ひとり悄然とする佑大を残していくのは忍びない。  冬実と結婚後、佑大は俺の実家で暮らすようになった。いわゆる婿入りというかたちで、親同士の仲が良好なこともあり若夫婦楽しくやっていたようだ。家は近所だ、こうなっては両親のいる実家に帰ればいいものを、けれど佑大は冬実の気配が残る場所から離れたくないという。  佑大の両親も困り果てたのだろう、苦肉の策として俺に「家の権利を譲ってくれないか」と申し出た。佑大には内密で土地と建物を査定した額を支払うと言われたが、すでに家長は佑大だ一度家を出た俺に権利を売る資格はない。なので丁重に断った。  二日ほど悩み抜いた結果、バイヤーを務める俺は勤めている商社に無理を言い日本の支社に移動を申し出た。そして佑大と奇妙な同居を開始、現在に至っている。 「今日の予定は? 今日は春哉くん、仕事はお休みかな」  炒り卵を乗せた飯をかき込む俺に、佑大が海苔に醤油をつけながら訊ねる。 「ああ、いや……後で少し出る」 「そうですか。休日なので、よければどこか出かけないかと思いましたが、仕事なら仕方がありませんね」 「……悪いな」  実際は予定なんてない。日曜日だ、当然ながら仕事も休みだったりする。だが佑大とふたりきりというのは──辛い。  この半年で嫌と実感させられた。朝晩の顔合わせだけでもキツいのに、丸一日行動をともにするなど頭がおかしくなりそうだ。いつまで俺の自制心は保たれてくれるのか、そろそろ崩壊するのも時間の問題だろう。 「いえいえ、とんでもない。仕事は大切です、春哉くんが帰ってくるまで僕は家事でもしておきましょう」 「家事なんて佑大には無理だろ。火事でも起こされちゃ堪んねえ、俺が帰ってくるまでおとなしく広辞苑でも読んでろ」  口許に米粒をつけふにゃりと笑う佑大に、「土産に芋羊羹買ってきてやるから」と佑大の好物を餌に、飴と鞭を使い分けておいた。  2  地球上でもっとも硬い物質はダイヤモンドだ。近年ダイヤよりも更に硬い物質が発見されたらしいが、貴石のなかでは紛れもない唯一無二の鉱石といえる。  バイヤーの仕事は宝石業者よりカットされ研磨された、いわゆるルースと呼ばれる裸石を仕入れるのが主な任務。時にはカットされてない原石も仕入れたりするが、基準は屑石を省き質のいい石を安く譲ってもらえるよう商談するのが腕の見せ所であり内容だ。  アメリカを拠点としていたときは各地の鉱山主の許まで赴き、様々な宝石を仕入れては商社に戻り成果を提出していた。それも今は昔、帰国後に勤務している支社の卸問屋ではルースの取引は最低限。主にリングやペンダントトップなどに加工された商品、アタッシュケースに収めたジュエリーを小売宝石店舗のガラスケースに並べてもらえるようセールスするのが俺の業務だ。  ダイヤモンド鑑定士の資格を取ったはいいが、それも現在の商社では宝の持ち腐れだ。今の佑大と俺との関係も然り、このままどっぷりとぬるま湯に浸かっていてはいづれ腐っていく。とはいえ八方塞がり、どうすることもできないのだが……。  冬が去り春が来てもまだ夜風は肌寒い。  仕事は休みだが佑大から離れたくて出勤した手前、贔屓にさせてもらっている宝石店のオーナーに手土産を餌に機嫌伺い奉公する羽目に。  いくつかの店舗を廻った帰り道。寒いな今夜は鍋にするかと算段しながらスーパーに寄り、ふぐが目につきてっちりの材料を購入。  帰宅すると、待ってましたとばかりに佑大に出迎えられてしまい、嬉しさ半分あとの残りは寂寥感に苛まれながら靴を脱ぐ。 「ああ、やっぱり紅屋の芋羊羹は美味しいねえ。それに春哉くんの淹れてくれたお茶も絶品だ、僕は幸せだよありがとう」  いちいち物言いがジジくさい。  愛用の半纏を違和感なく着こなす佑大は、通電させていない炬燵に背中を丸めて座り寛いでいる。テーブルには芋羊羹と湯気の立つ緑茶、現在三十三歳とまだ若いのにそのすがたは立派なご老体として俺の目には映る。  考えが及ばなかった俺の自業自得だが、鍋を囲むなど和気あいあいとした食い物を選んだ俺は馬鹿だ。眼前に秘めた恋をする相手を置き、鍋を共有する時間はまさに拷問といえる。ともすれば間接キスなど脳裏に浮かぶ俺は中二病か、渇いた小さな嘲笑を自分に向けるしかない。  罪悪感の象徴ともいえる鍋や皿などキッチンに下げると、口直しに食後のデザートとして佑大が楽しみにする芋羊羹を振る舞う。 「べつにふつうだろ。茶なんて誰が淹れても同じ味だ」 「それは違うよ。同じ兄妹でも冬実さんが淹れてくれたお茶と、春哉くんが淹れてくれたお茶ではまったくと言っていいほど味も香りも違う」  湯呑を掲げながら力するのはいいが、妹と比べられるのはいい気がしない。「ちっ」──無意識に舌打ちをしてしまい内心で焦るが、佑大には気づかれなかったようだ問いかける。 「どう違うんだよ」 「そうだね、例えるならば春哉くんが煎じたお茶はエネルギッシュだ。紅茶では夏摘みのダージリン、パワフルで生命力にあふれている。対して冬実さんが淹れてくれたお茶は、穏やかで優しい春を待つ冬の新芽かな。甘くて瑞々しい女性らしいお茶だったよ」 「ああ、冬実さんが淹れてくれたお茶をまた飲みたいな」──湯呑の茶に映る自分を見ながら静かにこぼす。その表情は淋しそうな笑顔だ。  冬実が他界してまだ半年しか経っていない、未だ気持ちの整理がつかず毎日が苦しいのだろう。佑大の眼が物語っている──逢いたい、と。  人生を共に歩もうと約束し結婚までした仲だ、たとえ肉体が滅びようと妹が生きてきた歴史や妻となり寄添った想い出と魂を今も愛しているのは理解できる。けれど、だからといって、佑大に対し俺は友としての情をかけ憐れみを向けるなどできない。それは俺が佑大に惚れているからだ。  どう返していいか分からず、「明日からまた仕事だろ。そろそろ風呂入って寝ないと寝坊するぞ」と素っ気なく場を終わらせるしかなかった。  縁側に立ち庭の一点を見つめる。  月光に照らされ、淋しげに輝く金の花。初春から開花するからか、朔日草という別名を持つ福寿草が群れをなし咲き乱れる。  あれは冬実が好きだった花だ。庭いっぱいに埋め尽くしたいと、子供の頃に園芸店で購入した一株を植え、今では二畳ほどに増え拡がっている妹の化身。  胸がざわめく。妹の夫に浅ましい想いを抱くなど下衆の極みもいいところだと、花を網膜に刻みながら穢れた自身を律している。  福寿草には全草に毒がある。致死量は四十mgほど、ソマリンやアドニトキシンなど神経毒が人を死に至らす。 「冬実……最低な兄貴ですまない」  穢れた男にこそ相応しい花。いつか世話になるかもしれない妹の化身に、のどから吐き出すように懺悔した。  3  方々へセールスに赴かねばならない俺の職務は若干ブラックかもしれない。遠方の場合は出張扱いとなり、二・三日ほど家を空けることも。  当然ながら出張手当は支給されるが、その分宿泊所はできる限り低予算に設定される。主にビジネスホテルや素泊まりの民宿で、温泉設備のあるホテルや旅館など贅沢は許されない。  今朝はやく新幹線に乗り出張、遥々太客宝石店のある地方まで依頼されていたジュエリーを届けにやってきた──まではよかったが。  店舗に到着して唖然。日時指定をして訪問したにもかかわらず、店はシャッターが下り閉まっていた。しかも今朝「夕方までに伺いますよ」と連絡、念を押す周到ぶりまで発揮したのにだ。  執拗な連絡はマイナスだ、二度ほど伺いの連絡を入れてみたが梨の礫。いつまでもシャッターの下りた店先に立っていると不審者と思われる、三十分ほど粘ってみたものの諦めホテルに引きあげることに。  すると道中でオーナーから連絡が。『急に妻の母親が自宅にやって来ると連絡があって──』だそうで、要するに慌てて店を閉めて帰宅したのだろう。このオーナーも入り婿だろうか、世間一般の婿というのは肩身が狭いらしい。殊に佑大は悠々と暮らしていたようだが、それは俺の両親が良義父母だったからだろう。 「ちっ、くそ怠りぃな」  ビジネスホテルにチェックイン、荷物をベッドに投げ出しひとりごちる。  一日を無駄にしてしまった。予定では明日の朝に隣県の贔屓店舗に顔を出してから帰るつもりだったが、当初の時間行動はリセットしなくてはならない。  はやく佑大の顔が見たい。くたびれた綿入れ半纏を羽織った、あの緊張感すらない笑顔を向けられ名を呼んで欲しい。いざ面と向かえば辛くて逃げだしたくなるくせに、脳と心は相反するのか理性とは裏腹に感情が佑大を求め胸が張り裂けそうだ。 「はあ……不毛だな、俺」  ベッドに倒れ込み、見るともなしに無機質な天井を眺め心を消耗させる。当てが外れたことでやる気が削がれ、もう力すら湧かずこのまま眠ってしまいたい。  だが部屋にこもっていては佑大のことばかり考えてしまう。鬱々とした気分を払うには外出しかない、適当に飯を食いbarで男でも引っかけるかと腰を上げる。するとタイミングを計ったかのようにスマホに着信が。 「あ? ンだよ。誰だ……、佑大──はい」 『春哉くん、こんばんは。今は話しても大丈夫かな?』  佑大の声。俺の好きな男が俺の名を口にする。 「ん、ああ……構わねえよ。仕事もねえし」 『ありがとう。今日は朝はやくからの出張、大変だったね。お疲れ様、もう夕食は済ませたかい?』  労いの電話か、嬉しさに表情が緩む。  歳を重ねるほどに佑大は表も内も色気が増したようだ。深みのある低い声も落ち着いていて耳触りがよく、いっそう俺の情欲をかき立てる。  佑大は電波の先だ。顔が見えないのをいいことに、あらぬ欲求を満たそうと下半身に手を伸ばす。前立てを下げ手を忍ばせると、勘づかれないよう注意を払い芯を持ち始めたものを握り柔く扱く。 「あ、ああ……いや。まだ。これから食いに出ようかなって」 『そうかい。いいね、地方の郷土料理を味わえるなんて。出張といってもホテルや民宿に泊まれるのだろう? 僕は旅行なんて数えるほどしかしたことがないから羨ましいよ』  扱く手が止まる。  何を勘違いしているのか不明だが、別段いいホテルをリザーブしているでなし、飯も適当に済ませるつもりだ。旅行と出張では訳も違うし、俺の務める商社では経費も少額だ羽を伸ばす予算もない。よって貧乏出張であり贅沢は敵、郷土料理など夢のまた夢だった。  けれど性欲を処理するための出費は自腹だ。どう今の心境を説明しようかと思案していれば、『そうだ、今度お互いの休みを併せて旅行でもしない?』と驚愕するような提案をされる。 「は、あ?……いや、旅行とかさ、ンなの男同士で行ってもつまんねえだろ」 『そうかな? 僕は春哉くんと方々を旅するなんて、考えただけでわくわくするけどな』 「なっ──馬鹿なこと言ってンな。つかもう俺、今から飯食いにいくから。切るぞ」 『ああ、ごめん。引き止めちゃったね。ゆっくり食べておいで』 「おお。朝に作ったの冷蔵庫にあるから、佑大もちゃんと温めて食えよ」  これ以上、心臓に悪いことを言われたくなくて「じゃあな」と有無を言わせず通話をオフにした。 「くそ……不発かよ」  不完全燃焼な事態と心情に疲れが押しよせ、もう男漁りする気分は萎えてしまった。今夜はおとなしくコンビニで弁当でも買い、虚しく部屋で食って寝るかとため息をつく。  だがそのまえに、猛ったままの股間を収めようと手を伸ばした─── 【解き放つ想い】  1  帰国後、商社支店に勤め出して半年も過ぎれば任される仕事も少しずつだが増えてきた。元々バイヤーとして各地をめぐり宝石を仕入れていた俺の営業手腕を買ってもらい、上司のスケッターとしてだが最近では大型の取引にも参加させてもらっている。  出張で実家を空けることが多くなった。すると佑大と顔を合わすことも減り、徐々に自分の気持ちを整理する時間が持てるようになる。  佑大と一緒にいれば、妹の兄と夫──という関係を忘れ伝えてはいけない言葉を口にしそうになるから、畑違いの仕事とはいえ没頭できる今は妙な話だが有り難い。  生まれ育った家とはいえ俺は一度家を出た身だ。親の残した遺産は佑大の預かるところとしているが、その一切を放棄して俺はふたたび家を出ようと思っている。婿入りして妹や両親と上手くやってきてくれた佑大だ、すべての権利は彼が相続するべきだろう。  実のところすでに引っ越し先の目星はつけている。近々行動に移そうと思うが、今度は仕事が忙しくて実行できないという主客転倒ぶりだった。  上司に同道して取引先の宝石店をめぐり、いくつかの自社デザインジュエリーを扱ってもらうようセールス。思ったよりも好反応だったことで上司はご機嫌、今日は直帰していいぞとの言葉に甘え帰途につく。  空は藍色、きらきら光る星と月は明るいが心のなかは暗くて虚しい。家までの道のりが、こんなにも遠くて重いものだと学生時には感じたこともない。実家に戻るだけなのに足取りが重く感じるなど、ともすれば浮気のばれた夫が妻の待つ家に帰る時の心境ではなかろうかと馬鹿なことを考えてしまう。  だが最近は馬鹿な考えが脳裡を占めて上の空だ。しっかりしろと自分に発破をかけるが、思うように気持ちの切り替えができるはずもなく……。  そんな俺の態度に思うところがあったのだろう、はじめこそ様子をうかがうだけに留めていたものの我慢に限界のきた佑大が俺に問う。 「春哉くん、ちょっといいかな」 「……なに」 「正直に言って欲しい。なにか僕、春哉くんの気に障ることをしたかな」  ひとつ深いため息をつくと的確に俺の痛いところを突いてくる佑大。気には障らないが、けれど佑大という存在自体が俺の心に重く圧し掛かってくる今、即座に否定の言葉が出てこなかった。そのことで肯定と取ったのだろう、「そっか。ごめんね」と淋しそうな顔して謝る。  やべえ……勘違いさせちまった。焦り否定する。 「違っ──悪りぃ、違うんだ。佑大が嫌とかじゃなくて、どう言ったらいいか……俺自身の問題っつか」 「春哉くんの問題? それって僕が訊いちゃ不味いことかな」 「うん、すげえ不味い」  よもや「おまえが好きだから一緒に暮らすのが辛い」とは言えるはずもなく、佑大の言葉に便乗して濁しておく腰抜け具合な自分が嫌になる。  居た堪れず顔を背ける俺に何か言いたげに口唇を開くが、けれどそれ以上は訊かずに話を終えてくれた佑大。「春哉くんが話したければ、僕はどんな内容でも聞くからね」と力なく笑ってみせると、「僕お腹が空いた。そろそろ夕飯して欲しいな」と話を変えてくれる。佑大の心遣いには感謝しかない。 「ごめん。すぐに仕度する」  目を合わすことなく踵を返すと、キッチンに向かい夕飯の準備を始めた。  2  少なからず同僚と交流を深めることのできた頃。終業後に居酒屋で他愛のない話を肴に酒を楽しんでいれば、偶然にも耳寄りな情報を手にすることができた。  我が社に借り上げのマンションがあるらしく、独身男であれば社宅寮として即入居が可能というのだ。俺がアメリカの本社から日本の支社に転属した当初、住まいは実家と申告したため寮の存在を俺に知らされることはなかったらしい。  独身者アパートやウィークリーマンションなどいくつか候補はあったもの、忙しさにかまけ契約をするどころか引っ越しの準備すらできてはいない状態。渡りに船とばかりに上司に寮の相談をすると、入居の手配はしておくと快諾してもらえた。しかも同僚から引っ越しの手伝いは任せてくれと言ってもらえ、人の優しさが片恋のやさぐれた心に沁み泣けるほど有り難かった。  とはいえ引っ越すことを佑大に悟られたくはない。できればあらかたの荷物を新居に移し終えた後に、「実は──」と切り出したいのだ。そして佑大から距離を取り、俺の気持ちもフェードアウトすればいい。  つぎの日から出勤時にひとつ大きなバッグを増やし、自室の荷物を詰め込み入居先の寮に運び込むというルーティンを始めた。もとより荷物など服や靴くらいの身軽な生活、家具やベッドなどは完備されていて必要はない。実家と寮の往復を三日ほどくり返せば、明日にはひとり暮らしができるまでになった。 「佑大……夕飯の後、話しがあんだけど」 「食べながらでは駄目かい?」 「ああ、落ち着いて話したいし」  つまみ食いしようとキッチンに顔を出した佑大に、家を出る旨を伝えようと予告する。なぜ夕飯後かというと、突然の告白で飯を不味くはしたくないからだ。  明日にはもう俺はここに帰ってこない。申し訳ないが掃除や飯の準備もしてやれないことを伝えなければならず、家事全般に暗い佑大にとっては死刑宣告にも等しいだろう。  それでも話さなくてはならない、俺の精神衛生上のために……。  まえもって話があると告知したからか、食事時もいつも饒舌な佑大が今夜は声を忘れてきたように静かだ。箸を進める皿の音、春が過ぎ夏の訪れを告げる密やかな虫の音さえやけに大きく響く。 「──佑大、俺さ……この家を出るよ」  飯も終わり茶をすする佑大の口から湯呑が遠ざかる。こつりとテーブルを陶器が置かれる音、ひと呼吸おいて佑大が訳を問う。 「なんとなくね、そうじゃないかと思ってた。訳を、訊いても……いいかな」  そうくると思った。だがらあらかじめ考えておいた台詞を話す。 「ずっとさ、考えてたんだ。冬実が亡くなって、後を追うように親父たちも家からいなくなってさ、それでも佑大はこの家から離れようとはしなかっただろ。誰もいない独りきりの暮らしなのに、佑大は冬実の匂いが残るこの家に固執している。 それで俺も出るに出られなくなった。当初はアメリカに帰るつもりだったけど、ぼろぼろになった佑大をひとり置いていけるわけがねえ。んで、ずるずると同居みてえな温い暮らしが始まったけどさ、それじゃ駄目なんだよ。もう冬実はいねえ、佑大もまえを向いて進まねえといけねんだ」 「だから、まずは俺がこの家を出る。つぎはおまえだ」と感情を殺して話し終えた。  少しの沈黙、重い空気。何か言おうとして口を開きかけるが、佑大のそれは声にならずのど奥に呑み込まれていく。  俺の気持ちだけは悟られまいと表情を固め静かに返答を待つ。 「……僕の気持ちはどうなるの」  こわばる口唇が動いたかと思えば、ふつふつとした苛立ちを含む想いを佑大はぶつけてくる。予想だにしない反応に狼狽える俺。 「えっ?」 「そうやって逃げるんだ。春哉くんは──春哉は自分の気持ちから逃げるような腰抜けか。散々僕に好意を向けておいて、今さら何も言わずに家を出るとか許されると思うな。自分勝手にもほどがある」  冷静に怒る佑大が怖ええ……。  いつもへらへらと笑っている爛漫な性格というキャラが定着しているが、実は佑大を怒らせるとかなりおっかない。  いつだったか冬実と出かけたはいいが道に迷い、夜に差し迫った頃ようやく帰り着いたことがあった。すると両親そっちのけで心配のあまり佑大が怒りまくってたっけ。そして俺と冬実は、家に帰ってきた安堵よりも佑大の怒気にビビり大泣きした。そんな昔の思い出がよみがえる───  いや、待て待て待て。佑大のやつ、なんて言った?  俺の気持ちがどうとか、行為を向けて逃げるとか何とか。それって……おい、まさか─── 「や、あの……佑大、それ……どういう、意味」 「僕のことをどう想っているの? 意味なんて僕に訊かなくても、自分が一番分かっているんじゃないのかな」  佑大は俺に何を言わせようとしている。これはもう俺の気持ちがダダ漏れってことじゃねえか、そのうえで俺に告ってこいと……?  目を据わらせた佑大が俺を睨みながら言葉を求めている。勘違いではないはずだ、こうなっては俺の想いを言ってしまいたい。  けれど─── 「たぶん俺の想いは佑大が感じている通りだ。けど言えねえ、だってこの家は冬実と佑大の夫婦としての箱だろ。そんな場所で兄である俺が、妹の夫にどうこう言えねえよ。それに今もおまえらは夫婦じゃん、憎みあって別れたわけじゃねんだし。ごめん……悪りぃ、俺の気持ちは忘れてくれ」 「春哉──」  それだけ一気に伝えると、俺を引き止めようとする佑大を振り切り自室に逃げ出した。  3  佑大と顔をつき合わせ夕飯を食ったのを最後に、話をすることもないまま家を出て三日が過ぎた。  結局は俺の気持ちからも佑大自身も、そしてあの家からも逃げ出してしまった。佑大と冬実、夫婦としての思い出がつまった場所は俺にとって辛い箱でしかない。そこで好きなやつと家族ごっこして過ごすなど拷問か、たとえ俺自身の思い出を捨てようと後悔はない。もっとも未練はあるが。  飯はちゃんと食っているだろうか、部屋はごみ溜めになってねえだろうか。洗濯は、風呂洗いはと、気がつけば嫁みたいなことばかり考えてしまう。それで仕事が疎かにしていれば本末転倒だが、けれど今この時に佑大は生き延びているだろうかと気にかけてしまうのは惚れた弱みだ仕方がない。  朝早くに家を出たので佑大には別れの挨拶をしていない。顔を見て声を聞けば決意が揺るいでしまうから、やつが寝静まっているうちに行動した。  部屋に戻っても眠れるはずがなく、ベッドから抜けだすとキッチンに向かい料理に明け暮れた。冷蔵庫の食材をすべて使って調理、数日分は持つだろう食糧を確保して冷蔵庫に詰めてきた。それも今夜あたり底をつくだろうか……。  デスクで書類のチェックをしながら懲りずに佑大の生存を心配していると、通りすがりに「ぼやっとするな」と上司が俺の頭を叩いていく。 「痛てえ……すみません」  なにやってんだ俺。これじゃあ佑大から離れた意味がねえ。もう考えるなと脳裡から佑大を追いだすため、かぶりを振って仕事に専念した。  寮で暮らし始めて一週間。恋人どころか一夜のベッドの相手すらいない枯れた日常を過ごしてはいるが、今はオフィスと寮の往復だけで腹が一杯だ。そんなルーティンにも慣れたと感じられるようになった今日、終業後ロビーを歩いていると俺を呼ぶ心地いい声がかかり心臓が跳ねる。 「春哉くん」  入り口近くのベンチから立ち上がる男。 「佑大──」 「やあ、元気にしてたかい」 「あ、ああ……けど佑大、どうして──」  最後まで問いかけること叶わず、「近くまで来たから」と佑大に遮られてしまう。そうは言われても佑大の務める高校は実家にほど近く、五駅離れた俺の務める商社は決して近くはない。無理があると指摘する。 「どんな方向感覚してんだよ、近いわけがねえだろ」 「ははっ……そうだよね、嘘ついちゃった」 「ったく。んで、どうしたの」  呆れまじりに訊く俺の顔を横目にうかがいながら、うつむき小さな声で「春哉くんの作ってくれた料理がなくなった」とこぼす。  なにを言いだすかと思えば──脱力しそうになる。少しでも期待をした俺が馬鹿だった、そうだ佑大はこういうやつだと心がやさぐれた。 「わざわざ電車に乗って飯の催促かよ……。ああもう、しゃあねえな。飯食い行くか」 「──春哉くんの作ったのがいい」 「どんな我が儘だよ。飯作りに帰ってこいってことか」 「違う……春哉くんの部屋に連れていって」  予想外の我が儘に息を呑む。落胆させられたかと思えば今度は奮起させられ、佑大には振りまわされっぱなしだ。  どうも佑大の様子がおかしい。これは飯のことで俺に逢いに来たわけじゃない、曖昧な俺たちの関係に終止符を打つために来たと確信する。逃げ場も絶たれてしまった、覚悟を決めろということか。 「分かった」  それだけ言うと、佑大を連れて寮に戻った───  〇  多少のぎこちなさはあったものの飯を食い終わる頃には自然と接することができていたらしい、肩から力が抜けたのか佑大も笑顔を向けてくれるようになる。  仕事の内容についてや、ひとり暮らしはどうだなど他愛のない会話をしているうちに、笑顔だった佑大の表情は少しずつ硬くなっていく。  ただならぬ雰囲気に言葉数が減っていき無言になる。居住まいを正す佑大、「最後まで話を聞いて欲しい」と畏まって乞われうなずく。 「僕のせいで春哉くんを追いつめてしまっているね、結果として君が帰る家まで僕が奪ってしまった。両親も健在だし、帰ってこいと言われていたから実家に戻ろうかとも思ったけれど……、どうしても決心がつかず今日まできてしまった。 僕は卑怯だね、春哉くんにだけ答えを求めようとした。僕に挨拶もないまま出てったのはショックだったけど、そうせざるを得なくしてしまったのは僕だ。冬実さんのことは今でも愛しているけれど、僕のなかではもう整理はついているんだ。いつまでも時間を止めていては冬実さんに怒られてしまう。 昨日ね、冬実さんの墓に挨拶してきたんだよ。もう一度だけ恋愛をしてもいいだろうかと。ずっとずっと、思い出の詰まった冬実さんの家で、春哉くんと暮らしてもいいかと」  佑大の話を聞きながら、いつのまにか俺は泣いていたらしい。立ち上がると俺のとなりに座り、肩を引きよせ優しく抱きしめてくる。 「苦しませてごめんね、僕は春哉くんのことが好きです。またあの家で一緒に暮らそう。家族は離ればなれになってはいけない、僕らは家族だろう?」 「うん、うん……」  欲しかった言葉を与えられ、胸の奥に閉じ込めていた想いが溢れだす。嬉しさと冬実に対しての後ろめたさに心が震え、佑大の胸に顔を埋めて涙を隠した。  〇 〇  自分の想いに気づいた頃から溜め込んでいた涙は思ったよりも膨大だったようで、最後の一滴が流れ枯れるまで佑大は俺を抱きしめていてくれた。まさかいい歳した男が子供のように泣きじゃくるなど恥かしいが、けれどありったけ吐き出してしまえば気分は楽になった。 「落ち着きましたか」 「うん。ガチ泣きするとか恥ずい」 「そんなことはありませんよ。泣くことは決して悪いことではない、人間であれば自然な感情です」  まるで教師が生徒を諭すような口ぶりの佑大、「もっとも、春哉くんを泣かせてしまったのは僕ですけどね」と、今度はいつものように緩い顔して佑大が笑う。  赤ん坊をあやすように背中を叩く佑大の手が心地いい。やはり冬実に悪いなと思う一方で、ずっと触れてみたかった佑大の胸に頬をよせられ恍惚となる。  過去には冬実の特等席だった場所、これからは俺だけのものにしてもいいのだろうか。ぐるぐると答えのない問いに悩み目を伏せていると、じわりと温かな感触が口唇に広がる。 「んんっ」  びくりと身体が跳ねる。キスを待っているとでも思われたのか、それとも勘違いさせるような顔を俺はしていたのか。  性的欲望は淡白だろうと思っていたが、けれど佑大もまた男だったということか。驚きと戸惑いに身を強張らせていると、やおら佑大が俺に覆いかぶさっていく。これは俺が押し倒されたということで正解か、優男とばかり思っていた佑大の積極的な行動に頭がついていかない。 「春哉くん。僕に抱かれてください」 「う、あ……はい」  律儀にも面と向かって申し込まれては同意するしかない。実は俺、抱く側で抱かれたことは一度もないとは言えず、期待と恐怖に今度こそ思考は停止した。  〇 〇 〇  本格的な夏がやってきた頃、初めて俺と佑大はともに冬実が眠る墓に訪れた。周囲は草一本生えてはおらず墓石は磨かれていて、毎月かかさず訪れるという佑大の妻を想う永久の愛情を垣間見た。 「冬実──俺たちを見守っていてくれ」  腰を落とし墓前に手を合わせる。  佑大に抱かれたつぎの日。上司には迷惑をかけてしまうことになったが、退寮し実家に戻る旨を伝えると少ない荷物を移して引越しを終えた。  また元の生活に戻ったわけだが、ひとつ変わったことといえば俺たちの関係だろう。同居が同棲に、そして同じベッドを共有するように。ただ一点、俺が抱かれる側というのは複雑なものがあるが、それも愛があれば大した問題じゃないと思えるまでになった。 「冬実さん。春哉くんは、甲斐甲斐しく僕に尽くしてくれています。だから心配せず、ゆっくりと休んでくださいね」  妻に話しかける佑大の表情が優しい。まるで世話女房のような謂れに引っかかりは覚えるが、あながち間違いってはいないので黙認しておく。  依然として佑大の両親は帰ってこいと定期的に連絡をよこす。まだ佑大も若い、再婚して新たな幸せを探して欲しいのだろう。親であれば当然の考えだ、俺がとやかく言うことではない。  だが困ったことに、俺にも嫁の世話をしようと見合い写真をよこすのはいただけない。俺たちの関係を打ち明けてしまえばお節介も収まるだろうが、確実に心配性な佑大の両親を卒倒させてしまうだろう。まだまだ悩みは尽きない。  これまでどおり親の残した遺産は佑大に管理してもらうことに。俺に金や土地のしがらみは必要ない、好きな仕事ができて佑大がそばで笑ってくれればそれでいい。 「さあ帰りましょうか」 「ああ。帰りにスーパー寄って夕飯の材料でも買っていくか。なにが食いたい」 「そうですね、では……てっちりを」 「馬鹿だろ。夏にふぐとか、どんな発想だよ」  佑大の一挙一動に振りまわされる俺だけれど、それが幸せだと感じるあたり俺も相当の馬鹿なのだろう。  福寿草の花言葉は永久の幸福だ。だが俺に幸せを招いてくれたのは福寿草ではなく冬実なのかもしれない。  つぎの冬に咲く金色の花は、佑大と一緒に眺めようと思う。  了

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