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【渦巻く夏湖(かこ)】今いずみ

 夏風が強く吹き付けた。木々は騒めき、湖が大きく揺らいだ。日光に照らされた水面は眩いほどに輝いていた。 「っ――……はっ……、ぅあ」  荒い息と共に、俺は水中で白濁精を迸らせた。それは止(とど)まることなく、次々と先端から噴き出されていった。腰が震えて堪らない。放出した熱欲が澄んだ泉を濁らせていく。水の冷たさ、そして、とろける感覚。凄まじい悦楽が体も神経も蝕んでいった。絶頂後の体が湖へと沈んでいく。 そんな俺を、男はそっと腕を差し出して、浮上させる。 「……ずっと、ずっと待っていたよ」  艶めかしい声が耳朶を刺激した。  あぁ、頭が痛い……割れそうだと、虚ろな瞳を開いた。霞んだ視界には、俺を絶頂に導いた男が陽光を背に微笑んでいた。  この湖は駄目だ。母の虚しさが、魂の叫びが聞こえてきそうだ。俺の心が、精神が、過去へと引き摺り込まれていく。 全てを知った今、もう逃げ場など無かった――。 *** 十三年前の夏、母が死んだ。 自死だった。母の遺体は裏山にある、冷たい湖の上に浮いていた。  当時十一歳だった俺は、葬儀の日の事を今でも鮮明に覚えている。いや、正確に言えば、葬儀後の出来事と言うべきだろうか。まだ幼い自分にとって、あの日に見た光景は、あまりにも衝撃的だった――。  葬儀は自宅でもある本家にて執り行われた。猛暑日だったと記憶している。この茹だるような暑さなか、喪服を身に纏った参列者全員が母の死を静かに弔っていた。 広い和室の窓は全て開け放たれていた。外からは蝉の大群が啼き声を猛らせており、経を唱える年老いた坊主の声など、掻き消す勢いだった。 (うるさいな……それに、痛い)  正座する足が痺れていた。かれこれ三十分以上、同じ体勢で座っている。痺れを逃がそうとしても、上手くいかない。足を崩していいだろうか……式中にそれは許されるだろうかと、隣に座る父へと視線を送った。しかし父は母の遺影をぼんやりと見つめるだけで、子の訴えなど気付きもしない。 父の瞳はどこか虚ろ、顔は疲れ切っていた。妻を無くした悲しさなどそこには無く、やっと解放された……そんな風にも取れた。 母は数年ほど前から精神を病んでいた。 幻覚や幻聴、狂言などは日常茶飯事だった。旧習深い田舎という事もあってか、母がおかしいという噂はすぐに広まった。今はこうして地域住民が葬儀に参列しているが、その殆どが偽善の悲しみだろう。「頭がやられている」「狂ってる」……母の陰口は嫌というほど聞いてきたが、怒りの感情は全く涌かなかったこの時の俺も、母の死をどこかで安心していたからだ。 あぁ、これで、あの怒鳴り声も、被害妄想にも付き合わなくて済む。そう思っていた。不安定さの矛先は、いつも一人息子である俺に向けられていたからだ。父はその様子をいつも見て見ぬ振りをしていた。 両親は見合い結婚だ。親戚からの強い勧めだったそうだ。 父は断り切れないまま、隣村から嫁いできた母と夫婦(めおと)となった。 しかし父が母を愛する事は無かった。それでも母は父と共に居たいと願っていた。 それは、何故か……母は小説家である父を心底敬愛していたからだ。 結婚して三年後。何の不思議が、長男である俺がこの世に生を受けた。愛していない女と、どのようにして子供を作ったのか、純粋に疑問だった。性欲と愛は別という事なのだろうか。 子供が生まれても父の愛情は家族には注がれなかった。家を開ける事も多くなった。母の心が次第に崩れていくのを、俺は幼少の頃から日に日に感じていた。 父には浮気相手がいたそうだ。相手の処に入り浸っていたのだろう。母が精神的に異常をきたした理由は、きっとそこだ。 葬儀の最中、涙は出なかった。薄情だと思われそうだが、母の死を冷静に受け止めていた。経の声が耳につく中、これからどう生きて行こうかと、十一歳ながらにして考えていたのだ。 正直、父とは上手くやっていける自信が無かった。父方の祖父母は既に亡くなっていた。親戚関係も良好とは言えない。いっそのこと、母の祖父母宅にでも住まわせてもらおうか。父と二人で暮らすよりかは良いだろう。 そんな思考を停止させたのは、鈴棒が鈴を打つ音だった。経の声が止まる。参列者全員が、俯きながら手を合わせ、瞳を閉じた。夏の熱気を孕んだ空間が、じっとりとした静寂を生んだ。蝉の声だけが響いていた。  この時、俺はほんの一瞬、母との思い出を偲んだ。一番古い記憶だった。夕暮れ時、田んぼの畦道を走って転んだ俺を、母が慌てて抱き上げたのだ。「痛かったね、大丈夫?」そう言った母の笑顔は、夕日の逆光が邪魔をして、よく見えなかったが、声だけは優しかったのを覚えている。 遺影の中の母は穏やかに笑っていた。こんな表情を、あの時も向けていてくれたのだろうか。 あぁ、母は本当に死んだのか。 もう、会う事も叶わないのか。 少しだけ心が締め付けられた。瞳の奥が熱くなったのも覚えている。そして、ふと視線を感じた事も――。 「……?」 ソロリと顔を上げ、瞳を巡らせた。 視線の主は直ぐにわかった。参列者の一番後ろに佇む若い男性だった。夏には不釣り合いなほど白い肌だった。その男性は俺をまじろぎもせず見つめながら、儚げに微笑んでいた。こんな人、地域に居ただろうか。初めて見る顔だった。けれど、何故だか惹き込まれていた――。  葬儀も無事に終え、母は地域の仕来りによって裏山へと埋葬された。  親族だけで簡単な食事を済ませた後、今後、父と二人どうするのかと、祖父母に尋ねられた。俺が希望するなら、身を寄せても構わないとの事だったが、肝心な話合いの場に父の姿は無かった。探してきて欲しいと祖父が言った。俺は言われた通りに親族達が集う部屋から離れ、廊下へと出た。  まず向かったのは書斎だった。原稿を書いているのかもしれないと思ったからだ。だが、居なかった。次は寝室となっている東側の和室へと向かった。そこにも父は居なかった。無駄に広いのが、この家だ。しかも蒸し熱い。探し歩くだけで、汗が噴き出していた。 歩く度に、古い廊下が軋む音を鳴らす。何処に行ったんだよと、姿の見えない父に苛々していた。  そして一番西側の部屋に向かう廊下に差し掛かった時だ。父の声が微かに聞こえた。この先にあるのは亡き曾祖父の部屋だ。今はもう使われる事も無かった。  どうして父がそんな所にと、一歩一歩、部屋まで距離を詰めた。見ると、襖が僅かに開いていた。 そこから漏れる話し声……いや、これは話し声じゃ無い。何かこう苦しそうでいて、荒い呼吸が交った声だ。しかも父一人だけの声じゃない。 「…………?」  誰かと一緒に居るのかと、隙間からからそっと室内を覗き込んだ。 まず目に入ったのは、畳の上で絡む四本の脚だった。全貌は見えないが、二人の体が重なっていた。 一人は父、もう一人は…… 「――っ、はっ、あぁ……っ、――さん……っ」 「――――っ!?」  誰だと、その姿を確認する前に甲高い声が耳を突いた。父の名前を呼んでいた。 (な、なんだ、今の声……)  聞いてはいけない気がした。 見てもいけない気もした。 それでも十一歳の俺は、好奇心に抗えないまま、数センチの隙間から目を凝らした。  父の背中が見える。その下には若い男が居た。肌を打つような音と、粘ついた水音が聞こえる。それは父が腰を振るう度に大きくなっていた。それに合わせて響くのは…… 「あっ、はぁぅ……っ、いいっ、そこ……もっと、もっと突いて下さ……っ、あぁ――ぅ!」  上擦った喘ぎ声だった。父に組敷かれた男がそう叫んでいた。 (なにを、なにをして……?) 目の前で繰り広げられる光景に茫然としていた。この行為が何なのか、当時はあまり理解出来なかった。ただ、自分にはまだ早いとだけはわかっていた。 「……相変わらず厭らしい……私のこんなにも締め付けて……っ、そこって、どこかな?」 興奮しているのか、父の声は普段聞くものと全く違っていた。 「ほら、ちゃんと口で言ってくれないと、わからないよ……」  しかも饒舌だ。俺は無口な父しか知らない。 「あっ、奥……もっと、奥が……ひっ、あぁ……っ!」  男の声が高くなった。同時に爪先が空を蹴っていた。父が大きく動いたのが見えた。 「奥、奥って……ここかな?」  そのまま父が物凄いスピードで体を上下に振っていた。まるで獣のような動きだった。 「ひぃ――……うっ、あぁあ……っ、ぁぁああ!」  叫びが轟いた。男の体は畳へとめり込む勢いだった。 (これは……なんだ? お父さんは何をして……それに、この男(ひと)は、誰……?)  瞼が震えていた。喉がカラカラだった。上がる息を堪えながら、俺は未知なる感覚に足をモジモジとさせていた。 (なんだろう、痛い……)  排泄器官の痛みに戸惑っていた。 その時だった。 「――――あっ、待ってくださ……っ!」  制止を願う男の声がした。二人の体勢が変わっていた。父が男の体をうつ伏せていたのだ。男の双丘は高々と掲げられていた。 「ほぉら、挿入るよ……っ!」 「っひ――あっ、あぁあ……っ!」  父の掛け声と共に男は悶絶し、両指で畳を引っ掻いた。そして喉を仰け反らせた。 「――――っ!?」  顔を見た瞬間、俺は葬儀での視線を思い出した。今、父の下で叫びを上げるのは、あの男性だったのだ。何故彼が父とこんな事をしているのだろうか。 「おぉっ、締まる……っ、この方が、厭らしい孔がよく見えるよ……あぁ、いいよ、いいよ!」  父が掠れた声で唸る。男の腰を鷲掴みながら、一心不乱に下半身を縦横無尽に動かしていた。その度に男の白い臀部は父の股関節に叩かれ揺れていた。 父が腰を引く時に覗く浅黒い物……それが性器なのだとわかった。しかも見た事もない形と大きさをしている。それが男の胎内に入っていると知った。 (なんで、あんなのが……)  出たり入ったりしているのだろうと、二人が交わす行為に釘付けとなっていた時―― 「っ――――!!」  戦慄いた。男が俺の存在に気付いたのだ。彼は隙間の先に居る俺へと線を送ってきた。しかもその顔は笑っていた。父に下半身を激しくぶつけながらも、俺を見て口角を上げていたのだ。 ――見つかってしまった。 「あ……」  俺は目を見開いたまま、その場に尻から座りこんだ。 「気持ちいい……あぁ、そのまま、っ……中に、出してっ……出してぇ……っ!」  男が俺と視線を合わしたまま、背後にいる父へと何かを強請っていた。何を出して欲しいと言っているのか、わかるはずも無かったが、酷く危険な匂いがした。 「出してやろう……っ、孕め、孕めっ……私の子種を、全部飲んで孕めっ!」  父がその願いを果たそうと、更に荒々しく動いた。薄い扉の先に、俺が居る事など、全く気付いていない。 (駄目だ……これは、駄目だ……)  このまま此処に居てはいけない……これ以上、この行為を見る事は許されない。そんな気がした。 俺は震える膝に力を入れて立ち上がった。そして音を立てないようにと静かに後退った。部屋との距離が数メートル開いたところで、回れ右をした。 「――――ぁぁあ……ああぁぅ――っん!」 「――――っ!!」 響く悲鳴を背後にしながら、俺は親族が待つ部屋へと走った。 (おかしい、おかしい……!)  何がおかしいのか、言葉に出来なかった。  ただ混乱していた。目にした光景もそうだが、何よりも―― (なんで、こんなところが、痛いんだよ……!)  局部に感じる違和感が怖かった。ムズムズした感覚が酷く恥ずかしかった。  父の行為を目の当たりにした直後、祖父母へと言った。「そっちで暮らしたい。そっちに行きたい」と――。  父の了承を得ているのかと聞かれたが、そんな事はもうどうでも良かった。父とは一緒に居られない、痛くないと思ったからだ。  それから少しして、父は何食わぬ顔で部屋へと戻って来た。 話合いの結果、祖父母宅で住む事を父はあっさりと認めた上で、俺の気持ちを尊重すると言った。尊重するもなにも、父は俺の事など要らないはずだ。そもそも俺たち親子は、まともな会話すら交わした事が無い。 父の元を離れたあとは、平穏な日々を過ごした。 祖父母もよくしてくれた。叔父や叔母、従兄弟たちとも楽しい思い出を創ることが出来た。父が住む家には一切戻らなかった。しかし思春期を迎えた頃、厄介な記憶に苛まれる日々となった。 父と男と交わしたい行為がセックスだと認識したのは中学一年の冬の事だ。母が狂った真の理由を知った瞬間でもあった。父が愛していたのは、あの男だったのだ。父は同性愛者だったのだと――。 何よりも最大に俺を苦しめたのが、男の喘ぐ姿を思い出す度に酷く興奮してしまうという事だった。時には夢精にも繋がった。そして自慰にも利用した。おかしいとわかっていながらも、鮮烈に刻まれた記憶が。興奮作用を引き起こす。嫌でもこの体はあの男を抱いてみたいと渇望していた。 俺も父と同じで同性愛者なのかと問われたら、答えはわからなかった。女性に対しての性的興奮はそれなにあったからだ。交際もしてきた。もちろんセックスもした。 たた、何かが違った。物足りないのだ。 あの男だからこそ爆発するような欲情を昂ぶらせる。これは、れっきとした事実だった。それは今でも変わらないままだ――。 高校卒業後、俺は都内の大学へ進学した。卒業後、そのまま大手ゼネコン企業に就職した。 社会人となって二年目。やっと仕事も一通り慣れて来たところで、祖父母から連絡が入ったのだ。父が亡くなったと――。  自宅で亡くなったとの事だった。心筋梗塞だった。地域の住民によって、父の亡骸は既に埋葬されていた。その際、どうして何も連絡が無かったのか。父の遺言によると、息子である俺や親族には、死んだとしても一切知らせるなとこの事だった。 しかし問題が生じる。残った遺産と家屋、裏山などの土地だ。その相続権は実子ある俺にあるという。  そして、もう一つ気がかりなことがあった。 (あいつは、もう居ないのか?)  電車に揺られながら、あの男を思い返していた。父はあの男と、あれからどう過ごしてきたのだろうかと――。  そして今、俺は盆休暇を使って生まれ故郷へと向かっていた。今後、実家の家屋をどうするべきか、その話合いを祖父母とする為でもあった。悩みどころであった。 父の親戚の殆どは田舎を離れて遠方に住んでいる。連絡すらつかない者も居た。もはや疎遠状態だ。年月と共に朽ち果てていく実家を管理するのにも無理があった。 都心から電車を乗り継いで四時間。ディーゼル車輛が山間を進んでいく。長いトンネルを抜けると、車窓が夏の田園風景を一斉に映し出した。緑色が鮮やかだった。雲一つない青空との境界線が美しかった。まるで絵画だ。 田舎(ここ)はこんなにも綺麗だったのかと、感動を覚えながら、俺は久し振りに故郷へと足を下ろした。 降り立った無人の田舎駅は相変わらず小さい。思い出に残るより寂れた様子だったが、山々に囲まれた空気は澄み、吹き付ける夏風は爽やかだった。 本来なら祖父母宅のある、一駅に先に降りる予定だったが、どうしても先に、あの家に立ち寄りたかった。何かに急き立てられるようだった。 スマートフォンを確認すると、十二時ちょうどを表示していた。時間通りだと、ひとり頷いた俺は黒のボディバッグを掛け直しながら、砂利道を急いだ。  駅から歩いて三十分。山沿いに建つ一軒家が目に入った。正面門へと続く坂道を昇る。家の様子が次第にハッキリとしてきた。 「うわ……酷いな」 思わず一言吐き捨てた。敷地内は雑草に覆われていた。 家屋もそうだ。屋根は色褪せ、木の外壁は剥がれが多く見られた。完全に古びた家と化していた。 足で草を蹴り分けながら玄関へと向かう。蚊が飛び交っていた。鬱陶しいと手で追い払いながら、俺は久し振りに実家の鍵を取り出し、扉を引いた。雨戸が締め切られているせいか、家の中は薄暗く蒸し熱かった。しかし外見とは違って、室内はそこまで汚れていなかった。 もともとは自分の家なのに、妙な感覚だった。なにかこう、人の家に侵入するような、罪悪感が少しあった。 何故、今此処に来たのか。そう、悩んでいるなんて嘘だ。もう俺の中では、この家を手放す事は決まっている。その最終決断の為に訪れたのだ。 あの部屋に行こう。 あの男が父に抱かれたあの部屋に。 訪れたとして何になるのか……それでも俺は、あの淫夢と男の記憶を断ち切る為に向かうと決めた。過去を直視した上で――。 父が何故あの男を愛し、抱いていたのか、詳細は分からない。ただひとつ言える事は…… (父はあの男を愛していた――)  そう。妻である母よりも。息子である俺よりも。 そもそも、あれは誰だったのだ。今更答えを求めても何ら無意味な作業だと、仄暗い廊下を進んだ。  あの部屋は、西側に位置していたはずだ。十三年経った廊下は更に傷んでおり、軋む音が煩かった。  『――っ、はっ、あぁ……っ、――さん……っ』  進む度に、あの嬌声がこだまする。父の名前を呼んだあの男は今、何処で何をしているのだろうか。父と最後まで居たのだろうか。  気が付いた時には、目的とする部屋前まで辿り着いていた。当時と同じように、数センチだけ開いていた。ここで気付いた。 (どうして、明るい……?)  日の光が存在していたのだ。 この部屋だけ雨戸が締めていなかったのだろうかと、ゆっくりと襖を引いた。やはり窓からは夏の陽光が差し込んでいた。しかし西側に位置している所為か、夏日とはいえ、少しどんよりとしていた。そして、部屋の中央にあるものが目に入った。 「……ノート?」  それは畳の上に散らばった数冊のノートだった。室内に足を踏み入れる。古い畳が湿気を含んでいるのだろう。じっとりとしていた。おれは両膝を突き、ノートを手に取った。 「違う……これは……」 開いて知った。それは日記のようなものだった。 これは父の字では無い……では誰のだと。 心臓が騒ぎ出した。見てはいけない気がした。しかし、どうだろう。この日記はまるで、見てもらう時を待っていたようではないかと。 俺は震える指先でページを捲った。これが全ての答えになる。どこかでそう確信しながら――。 *** 「っ……はぁ、はぁっ……!」 古びたノートを手に、裏山を必死に駆け上った。険しい坂道を縺れる足でとにかく走った。早くあの湖に行かなければならない。そんな焦燥感に苛まれていた。  いる……母が亡くなった湖に、あの男は絶対にいる。日記の最後の頁にはこう書かれてあったからだ。 『僕はいつまでも君を待つだろう――』と――。  視界の先に木々に囲まれた湖を捉えた。俺は生い茂る草を掻き分けながら湖の麓へと向かった。  そして見つけた。一糸纏わぬ姿で、湖の中いる男を。水深は浅く、男の体は半身だけを水に浸からせていた。 「……来てくれたんだね」  男が振り返る。耳下までの髪が濡れていた。数メートル離れた向こうで、彼は微笑んでいた。葬儀の時に見せた同じ表情で――。 「っ…………!」  声が喉に張り付いていた。この男が此処にいる時点で答えは決まったからだ。  ノートには過去の全てが書かれていた。この男が書き記したのだ。父の全てを、母の事も、そして俺の事も――。 「それ、読んでくれたんだね……。どうだった? 吃驚した?」 「…………っ」  尋ねられても、何も言えないまま俺は突っ立っていた。いや、言えないのだ。だってまだ何も整理が出来ていない。頭も心も酷く混乱したまま、来てしまったのだ。 「……そうだよね。仕方ないよね……けれどそこに記してある事は全て事実だ」 「っ……嘘だ……そんな事、おかしい!」  やっと出た声は否定の言葉であった。 「おかしくなんかないさ。現に君はこの世に生まれている……」 「っ……!」  透かさず返ってきた言葉が心に突き刺さった。衝撃的な真実がいよいよ俺の過去や現在、未来すらも引き摺り込んでいく。 ノートの内容は備忘録的ではあったが、流れる歳月に沿って記されてあった――。 今から約三十年前――。 一人の男が自死した。この男の兄で、二人は歳の離れた兄弟だったそうだ。 男の兄は、父とは長い友人関係にあったそうで、共に小説家を志してきたという。その男は父の事を好いていた。父もそうだった。二人は両想いだったのだ。 しかし、まだ若かった父はその想いに気付きながらも逃げ、見て見ぬ振りを続けてきた。 偏見の目が厳しい時代だ。同性愛者として生きるのには、抵抗があったようだ。世間の目が怖かったらしい。そして母と結婚した。男の兄が自死したのは、それから二週間後の事であった。この湖に身を沈め、亡くなったのだ。 死を知った父は激しく後悔し慟哭したとあった。 悲しみに暮れていた或る日、弟であるこの男と出会った。もともと離れて暮らしていたところを、兄が亡くなった事で本家へと呼び戻されたらしい。 父の想いは、かつて愛した男と瓜二つの弟へと向かった。弟である男もまた、兄の想いを踏み躙ったとして父に深い怒りを抱いていた。そして母の心に近付き、復讐の意味で母を抱いた。男がまだ十八歳の頃だ。 父の心寄せる相手がこの男だったと、母は最初から気付いていたという。 女として、妻として愛してくれない事を嘆いた、父への抗議だったのかもしれない。女を使い、父の想い人に抱かれる……確かに最大級の仕返しだ。 男との関係を知った父は激怒したどころか、その時はじめて母と性交に及んだそうだ。理由は母の体から愛する男の味を消す為だ。父が欲情する相手は母では無く、その向こうにいるこの男と、その兄だったのだろう。そして母は俺を身籠った。 そうか、そりゃあ上手くいくはずもない。俺が生まれる前から家族は破綻していた。狂っていたのだ。 しかしひとつ謎があった。どうして憎むべき相手である父にこの男は抱かれたのかという事だ。その答えは何処にも書かれていなかった。 「……僕はね、兄の願いを叶えてやりたかった」 「っ……!」  パシャリと、水揺れる音が間近に聞こえた。ハッとした時には、水浸しとなった素裸で男は俺の目の前に立っていた。そして俺の両頬に手を這わせてきた。 「あぁ、大きくなったね……立派になった……兄もきっと喜ぶよ」 「―――っ、やめろ!」 その手を力いっぱいに振り払った。そして顔を伏せた。柔らかい眼差しに耐え切れなかった。 「……ごめんね。でも、僕は君だけを待っていた」 「……やめろ、やめてくれ……っ」 俺は耳を両手で覆ってその場にしゃがみ込んだ。 「……でも、君は此処に来たじゃないか。逃げようと思えば、逃げれたはずだ」 「っ……」  核心と突かれ、顔を弾け上げた。 男が先程言った「願い」の真意を語り出す。 「兄の願いはね、あの男と体をひとつにする事、そして家族になりたいと思っていた。だから僕がそれを叶えてやった」 「叶えてって……じゃあ母と関係を結んだ本当の理由は……」 ゾッとした。体の芯から冷えていくようだった。 「そうだよ。君は兄の為に生まれてきたんだ。だから僕はあの女と寝た……君のお父さんの行動を予測した上でね」 「――――っ!」  ヒュッと喉が鳴った。心底狂っていると思った。父が誰を焦がれ母を孕ませた事を全て最初から計算されていたのだ。父の遺伝子を受け継ぐ子が必要だからだ。彼の兄が求める「家族」になる為に。  男は続ける。 「でもね、ひとつだけ順序を間違えちゃった……」 「間違い……?」  ひとつどころか最初から全て間違っているじゃないかと、俺は双眸を険しくした。 「君があのセックスを見たことだよ……あれがあったから君は逃げ出したんだよね。あの家から」 「っ……!」 「本当ならあの家で、三人で過ごそうと思っていたけれど、それは叶わなかったな兄に悪い事をした」 「悪いこと……あんた、何を言って……っ!?」 (まさか――)  勘付いた。恐ろしい可能性が過ったのだ。何故なら、この男は兄の願いの中で「家族」と言った。 「まさか、母が死んだのは…………」 「……ふふっ、どうだろうね」 「ふざけるなっ! 答えろ!」  立ち上がった俺は男を湖へと突き飛ばした。抵抗も見せずにその体は湖面の下へと沈んだ。程無くして浮上した男であったが、その顔はやはり笑っていた。 「……あの女は、僕が抱いた時点で既に狂っていたよ。僕は殺してない……自死のきっかけの一つにはなっているだろうけどね」 「っ……お前――っ……!?」  殴りかかろうとして飛び掛かったが、水草に足を取られた。俺の体は無様にも水中へと突っ込んでしまった。咄嗟に身を起こしたが、振り返る前に男は更に追い打ちをかけてくる。 「あの時、君は勃起していたよね?」 「――――っ!?」  背後から腕が腰に巻き付いた。艶めかしい動作であった。濡れたシャツが肌にへばり付いていた。 「それで……あれから僕の抱かれる姿、ずっと忘れられなかったじゃないの?」 「っ、ふざける……あっ、……はっ――ぅ……!」  突として鋭い電流が走った。男の手が中心部へと向かったのだ。 「あれ……勃ってるね。どうして?」 「っ、え……?」  嘘だろうと恐る恐ると目線をしたに下ろした。そこは確かに隆起していた。ハーフパンツを鋭利な角度で押し上げていた。 「嘘……だ、なんで……」  ただ困惑した。こんな状況で欲情を猛らせて、何をしているのかと、その痴態に目を疑った。 「……まだ十一歳だったよね。可愛かったな……あの時、初めて勃ったのかな?」 「っ、てめ……離せ……っあっは……ぅ」  男が耳元で囁きながら、衣服に手を突っ込んできた。そして滾った局部を直で撫で繰ってきたのだ。 「離さないよ……やっとやっと君が自分の意思で戻ってきたんだ。どれだけ待っていたか……」 「っひぃ――っ……!」 次は陰嚢ごと持ち上げられた。手の内に収まった袋が拉げた。 「あの男とよく大きさも形もよく似てる……やっぱり親子だね」 「っ……はっ……うっ、あぁ――ぅっ!」  指先が裏筋を辿ったあと、切っ先肉を摘ままれた。先端の穴から粘ついた蜜がドッと溢れた。 「あぁ、いっぱい出てきたね。若いっていいね……」  問いには答えないまま、男は恍惚とした様子で刺激を与え続けてくる。 「っは……っ、離せって……俺はっ、こんなの違うっ!!」 「あっ……!」  男の短い声が上がった。  俺は渾身の力を振り絞って絡み付く腕や手を振り払ったのだ。男の体が湖面へとぶつかり、大きな水飛沫が舞った。 「違うっ、俺は……こんなの違うっ!」  そう口にしながらも昂ぶった性器は鎮まりを見せない。それどころか、どんどん硬化していく。この男を見るだけで、欲情か喚起されてしまうのだ。脳内に浮かぶのはあの情交シーンだ。  父に体を貫かれ、狂ったように喘ぐ、あの姿が離れない。畳を引っ掻く音も、肌打つ打音も、父の逸物が抜き差しされる様も、全部離れない――。  それだけ鮮烈だったのだ。当時十一歳だった俺には衝撃的且つ背徳的だった。性の対象を覆すほどに。 「違うなんて嘘だよ……」  ずぶ濡れの髪を鬱陶しげに掻き上げた男が、愕然とする俺の体を真正面から抱き締めたかと思うと―― 「――っ……」  慈しむような動きで唇を合わせてきたのだ。 髄が痺れた。この口付けに目眩が引き起こった。男は舌をはわせ、味わう動きで俺の唇を抉じ開ける。滑った舌がズルリと咥内に侵入した。唾液が交じり合った瞬間、俺の箍がいよいよ外れていく。そのまま男の舌を攫い、獰猛な摩擦を与えた。 「っふ……んっ――っん」  甘い声が男の喉奥から発せられた。それを聞いただけで俺の記憶は過去を引っ張りだしてくる。 理性が吹っ飛んだ。俺は濡れたシャツを脱ぎ捨てて、無我夢中で男の体を弄った。 素肌が吸い付き合う。肌理細かな男の肌が情欲を呼ぶ。俺は取り憑かれたように、口付ける行為に没頭していた。走り出した欲が、十三年前の父と俺を一体化させていく――。 「っは――、あぁ、凄い……こんなにさせて」  唾液の糸が濃く長く引く中、男は再び俺の生雄へと触れた。そしてそのまま上下に擦られた。 「はっ……あ、っぐ……」  腰奥がブルリと震えた。手の動きは巧みで、俺の感じるところ全てを的確に捕えながら、摩擦を生み出してくる。 「ふふっ、一回出そうか……これならすぐに出そうだね」 「っあ、はぁぅ……ま、待ってくれ……っ!」  我慢汁の量が増えて行く。擦れ荒れる度に陰茎は脈打ち、漲る血管を太くした。熱放出が近いと点滅する脳で感じ取っていた。  今まで、この男を想像し、何度も自慰をした。  女を抱いても、記憶の男を、目の前の男を何度も犯した。  あぁ、きっと俺も十一年前から狂っていたんだ―――。  それが答えだと、四肢の力を抜き、男の手淫に身を任せた瞬間、腰がガクリと崩れ、下半身は水中へと沈んだ。そして―― 「っは……ぁあぅ――っ……」  射精(で)る――と、瞳を強く瞑ったと同じくして、俺は白濁を噴射した。先端から迸ったそれはすぐに冷たい水と混じり、溶け合い、ゆらゆらと俺の周りを漂っていた。 絶頂を迎えた体は、湖面へと吸い込まれていく。  ここで亡くなった母と、この男の兄が、まるで仄暗い湖底から俺を引っ張るようだった。そんな俺の体を、男が腕を差し出して、浮き上がらせた。そして言った。 「……ずっと、ずっと待っていたよ」 待っていた……そう、男は俺を待っていたのだ。  どうして……それは全て亡くなった兄の為だろう。  兄の代わりに父に抱かれ、父の子供である俺を愛するのだ。 (こんなの、狂ってる……おかしい……)  あぁ、頭が痛い。鼓膜にまで響く頭痛が、瞼を重くさせてくる。ぼやけた視界に映るのは、夏の日差しを背に浴びながら穏やかに微笑む男の姿だった。母親のような慈愛深い目で俺を見つめていた。  夏の湖に渦巻く過去は、まだ始まったばかりだ――。

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