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【cold sweets】佐藤あらん

   その日は暑かった。  外気はおそろしく熱気を孕み、身体が沸騰しそうなほどに火照り、息をするのもやっとの午後。  無作為に並べられた色違いのブロックが延々と続く歩道を歩いていれば、空との境界線は熱で歪み、まるで果てしなく続く砂漠のようにさえ感じられた。  朦朧とする意識で機械のごとく足を動かし、目的の場所までをそれこそ死ぬ気で歩く。  許されるならばラクダに乗り運んでもらいたいところである。だがまさか現代の日本でそれが叶うはずもなく、文明の利器である車というものと、とことん相性の悪い自分の体質を由良密(ゆら みつ)は呪った。  ようやく坂の頂上へ到達したと蜜がわずかばかりに安堵したのも束の間、不運は怒涛のようにやってくる。  坂の向かい側を歩いていた小さな子どもが勢いよく蜜にぶつかってきた。後方から追いかけるように母親が早足でこちらに向かってきているのが見える。  勢い込んで転ぶことはしなかったが、その子どもが手に持っていたソフトクリームは無残にも蜜の膝と鉄板と変わらぬ熱を持つ地面に吸い込まれていった。  瞬時に溶けた甘く冷たい菓子に、子どもはそれこそ山をも動かす勢いで大泣きする。キンキンと甲高い泣き声は蜜の頭に針で刺すかのように響いたが、さすがの蜜もそれを表情に出すほど大人げなくはなかった。 「ごめんなさいっ。あの、本当に。ほらっ、ノエル、泣いてないで謝って!」 「ああ、いいですよ。お兄ちゃんの方こそゴメンね? えーと、ノエルちゃん? アイス、ダメにしちゃったね……」  現代日本において、ノエルという名前が普通に使われるというのは、些か違和感がなくもない。キラキラネームという奴だろうか、と蜜はどうでもいい事を考えながらその小さな子どもに頭を下げて見せた。  だが安易にそうした事を蜜は激しく後悔する。なぜなら沸騰した頭の中の血液が、それによって激しくぐるぐると回ってしまったからだ。  要は眩暈というか、立ち眩みというか、そういったものに蜜は襲われてしまったのだ。 「あっ」  泣いていた子どもが、ふらりと道路側にあるポールにしがみついた蜜に驚き、目を大きく見開く。  ぐわんぐわんと銅鑼の音が聞こえる気がした蜜は、しばらくキュッと目を閉じる。そうしていると音はしだいに遠のき、頭の中の均衡が徐々に戻ってきた。  ようやく瞼を上げた蜜の目の前に、まじまじと覗き込んでくる小さな顔がある。刹那その小さな瞳を見つめた蜜は、ようやくそれが先ほどぶつかった子どもだということに思い当たる。 「あの、大丈夫ですか?」  子どもの母親がおろおろとこちらを心配そうに見ながら携帯端末を手に持っているのに、蜜はすぐに気づいた。さすがにそれが何を意味するのか、蜜はすぐに悟る。救急車を呼ぶべきか迷っているのだろう。いい歳して身体の管理もできないのかと罵倒された方がこの際マシだ。そう考えながら蜜は、「大丈夫です。ちょっと寝不足だっただけなんで……」と、言い訳にもならないことを言いながら、自らの脚だけで立って見せると、その母親はほっとしたように微笑んだ。  下から一所懸命に見上げている子どもの頭を蜜が軽く撫でてやると、さっきまでの不機嫌はどこへやら、にこりと嬉しそうに笑うから子どもは不思議である。 「ーー驚かせちゃったね。ゴメン。あと、アイスもゴメンね?」  この際どちらに非があったかなど無用な議論で、蜜は余裕のある大人らしく子どもに謝ってみせた。すると子どもは手元に残ったコーンと地面に落ちたアイスであった染みを交互に見て、またもや笑った。 「いいのっ。また買ってもらうから。お兄ちゃん、ぶつかってゴメンね?」  ちょこんと頭を下げる子どもに、蜜はしっかりしてるなあと感心半分に苦笑する。  バイバイと手を振りながら親子と別れ、蜜は再び歩き出した。  ちょっとしたアクシデントでベタベタの足が気になりはするもの、どうせ水を浴びに行くのだからと、蜜は不快さを我慢する。さっきまでだって汗でベタベタしていたのだから、ふわりと香る甘さが追加されたくらい、なんてことはない。  親子のおかげで意識もいささかはっきりしたので、蜜は気合を入れて目的の場所へ向かった。  しばらくするとようやくそこへ辿り着き、蜜はほっと胸を撫で下ろして肩に掛けていたバッグを手に持ち替える。  狭い駐車場には一台の車も止まっておらず、それを見た蜜はほくそ笑んだ。  ここは地元でも穴場中の穴場で、まさか鬱蒼とした樹木の向こう側に楽園があるとは皆考えもしないらしい。それもそうだろう。何せ案内の看板は小さく、いつ設置されたのかもわからないほどに錆びていて、その文字すら読み取ることができないのだから。駐車場の横に小さな東屋があるために、ここはドライバーのただの休憩所と思われるらしい。  蜜は背の高い雑草で覆われた、獣道と化した階段を足元に注意しながら下りた。どこからか流れてくる水が土と混ざり合い、階段の表面は泥だらけで滑りやすい。初めて来た時にしたたかにこけた思い出があるので、そこは慎重に慎重を重ねて蜜はゆっくりと足を動かした。  階段は途中で終わり、その先はまさにその名の通りの獣道。  左右から道を阻むように覆い繁る草や低木の枝をかき分けながら、蜜は先へと進む。そしてようやく開けた場所へ来ると、蜜は思い切り両腕を伸ばして背伸びをした。 「んーーっ」  文明から隔たれたそこは、見る限り草木と大きな岩場しかない。  だが、その岩場の向こう側にある楽園を蜜は知っていた。  不思議な場所だ。  流れる川も橋もなく、窪んだ地には角の丸い石ころとその間から顔を出した雑草があるだけ。聞いた話では、このずっと奥には昔湖があり、ここにはそこから流れ出た支流が川を作っていたらしい。しかしその湖を作っていた湧き水が枯渇し、長らくここはただの荒れ果てた窪みであるという。  しかし蜜の向かっている先には、秘密の場所がある。  蜜は大きな岩を回り込むと、その影に荷物を置いた。  すでにさっきまでの沸騰するような暑さはなく、心地よい風が蜜を包み込む。  それは今蜜の目の前にある、豊かな水のおかげ。  いつからかは知らないが、ここは周囲よりも深く抉れており、そこに湧き水が流れ込んで小さな湖とも云えぬ池を作っている。そして元がなんだったのかわからない壁のような物もあり、それが岩と一体化してこの池を人の目から隠しているのだ。  上に車が止まっていなかったことと、足元にそれらしき荷物がないことから、今日はこの水場を独り占めできると考えた蜜は、思い切って着ていた服をすべてその場に脱ぎ捨てた。  生まれたままの姿になった蜜は、うきうきと爪先を水に浸す。 「ーーきもちー」  思わず声が零れるほど、池の水は火照った身体を冷やしてくれた。蜜はざぶりと身体を滑り込ませると、いっさい濁りのない水の中に頭まで浸かる。広さはないものの、少し移動すれば深さもそれなりで、大人ひとり泳ぐのには贅沢なほどの天然プールなのだ。  蜜は一番深い場所まで潜ったまま進むと、ようやく水の中から顔を出した。  小さく息をつき、濡れた髪を片手で後ろに撫で付け、ゆっくりと水を手足でかく。  水場から見えるのは、鮮やかで深い色の緑と、それに縁取られた抜けるように澄んだ青い空。  そんな場所を独占しているのかと思うと、気持ちも大らかになるというもの。  普通の場所では決してできない、布一つ纏わぬ姿で、蜜は優雅に、水の中を堪能した。  というよりも堪能し過ぎたというべきか。  ひとりであることの開放感に、蜜は浸り過ぎたのだ。  だから丸砂利を踏みしめ、近づく足音にも気がつかなかった。 「ーーお邪魔していいかな?」  蜜が池の縁の岩に両腕を乗せ、下半身を無防備に水の中に晒していると、突然頭上から声が降ってきた。  ぼうっとしていた蜜は、驚きハッと顔を上げる。  するとそこには大岩に手をつき、こちらを見ている長身の男が立っているのが見えた。 「え……と、どうぞ……」  あまりに唐突だったために蜜の口から出たのは、電車で隣の空いた席に座ろうとした相手に言うような、覇気のないものになってしまう。  だが男は気にせずにそこへバッグを置くと、おもむろに服を脱ぎ始めた。岩陰になりその輪郭しかはっきりとは見えなかったが、蜜は男のその均整のとれた腹筋に目を奪われた。見世物のための筋肉ではなく、それは普段から必要とされたためについたような筋肉。一般的な男であれば誰もが憧れる形がそこにあり、蜜は思わず凝視してしまう。  すると男はそんな蜜の視線に気づき、少し照れくさそうに笑うと、それでも男らしく少ない衣服をすべて脱ぎ捨てた。  さすがの蜜もそれをまじまじと見るわけにはいかず、さっと目を逸らす。そして蜜があらぬ方向を見ていると、ちゃぷりと男が水へ入る音が聞こえてきた。 「……ていうか、なんで裸ーー」  聞かせるつもりもなく呟いた蜜のそれだったが、男の耳へ届いてしまったらしい。男がぷっと噴き出し笑った。 「キミが言うの?」  そう言われ、なんのことだと蜜は考えた。だが次の瞬間、ザパァと派手な水音を鳴らして蜜は自分の股間を両手で隠す。 「あ、え、ちょっ……」  ひとりで悠々とした時間を過ごしていたために、蜜はうっかり素っ裸だということを忘れてしまっていたのだ。  顔を真っ赤にして水の中で両脚を閉じ、手で急所を隠すその蜜の姿に、男の笑い声はさらに大きくなる。 「忘れてたんだ? 面白いね、キミ」  くっくっと口元に手を当て笑う男は恥ずかしさなど皆無のようで、堂々と身体を見せていた。だがそれも自分に自信があるからなのかも、と蜜は思う。筋肉がないわけではないが、蜜はどちらかといえばほっそりした身体で、そんな自分にコンプレックスを持っている。だから堂々とした男が羨ましくもあり、眩しくもあった。  笑い声こそ聞こえなくなったが、男はそれでも笑顔のまま水の中を泳いだり、ただ周りの木立を見つめたりとずいぶんとリラックスしている。  端の方で固まっていた蜜はなんだか考え過ぎている自分が馬鹿馬鹿らしくなり、そっと水の中で手を伸ばした。  ここは外界とかけ離れた場所なのだ。  ひとりでないとはいえ、男同士でもある。蜜は銭湯でもタオルを腰に巻いているタイプだったが、ここではもっと開放的でありたかった。せっかくの時間を、男がいるからとせせこましく過ごしたくない。  そこまで考えた蜜は、ようやく吹っ切れたように水の中を自由に動き始めた。  男は男で楽しんでいる。ならば自分も好きにやるだけだ。  今日はすこぶる天気も良く、清涼な水があるというだけで風さえも爽やかに頰を撫でてゆく。そんな喧騒とはかけ離れた空間で、男二人は、まるでその池の主のように水遊びを楽しんだ。  真夏の灼熱で火照っていた身体は次第に冷め、そろそろ上がろうかと蜜が考えていた時だった。  頭上の青い空を横切る影があった。  さっとすぐに消えたと思ったら、また時間を置いて木々を移動しているように見え、蜜はなんだろうと足がぎりぎり届く深さの場所で真上を見る。 「っ、あ……」  影の形が見えた、と思った瞬間、蜜は足を滑らせた。  いつもであればそんな間抜けなことはしないのに、真上に顔を向けていたために思い切り水を飲んでしまう。するとパニックになって手足をばたばたと動かすだけでまったく浮上しない自分の身体に、蜜は余計に慌ててしまった。そのせいで足が池の底のちょっとした凹凸を蹴ってしまい、ズキリと痛みが走る。  やばい、と考えた瞬間、蜜の身体がぐいっと重力に逆らうように腰から持ち上げられた。 「っく、はあっ、はあっーー」  空気のある場所でゲホゲホと水を吐き息を荒げた蜜は、溺れそうになったショックからそばにあった支えに思い切りしがみつく。  そしてようやく落ち着いてきた蜜が気づいたのは、自分のすぐそばに男の逞しい身体があったことだった。 「あ、え……?」  蜜がしがみついていたのは、男の身体。その腕は蜜の腰をしっかりと掴み、水の中で揺るぎもせず立っている。  助けられたのだと知った蜜は、礼を言おうとした。  だが、その声が出ない。  あまりにも男の身体が近すぎて、今度は別の衝撃を受けていたのだ。  近すぎるというより、密着している。  それは裸の男同士で、誰もいない水の中でまるで抱き合っているような体勢で。  声は出ずとも口を開け閉めする蜜を、男は不思議な表情で見ている。  密着した肌はひんやりとしているのに、皮膚の下から伝わってくる体温が妙に生々しく、蜜は混乱した。  そして混乱の中、常識的な反応を返そうとした蜜を止めたのは、男の声。 「ーー気持ちいいね」  それは感心しているような溜め息交じりのもので、蜜は思わず男に抱かれたまま固まってしまった。自分の胸の内を見透かされたと思ったからだ。  その通りだったのだ。  冷えた肌と、その下から伝わってくる体温。硬い筋肉で覆われているはずの男の身体が、まるで自分の肌に吸い付くように密着している。まるでもともと同じ物体だったものが、たまたま二つに分かれたかのような感覚。もちろん下らない錯覚だと蜜もわかってはいるが、それを男の方も感じていると知り、余計に困惑してしまっていた。 「えーと、その、お、下ろしてもらえません?」  ぐっと腰を抱く男の力強さに慄きながらも、どうにかそう伝える。だが男の腕はまったく緩まず、どころかさらに身体を寄せてきている気がして、蜜はおどおどと視線を彷徨わせた。  水に浸かった下半身は冷えているのに、蜜の上半身は徐々に熱を上げる。  さっきまで寒いほどだったというのに、どういうことだろう。  頭に血が上り、いささか頭痛もしてきた。  するとそれに気づいたわけでもないだろうに、男が頭を蜜の方へ近づける。  何をするのかと驚いていると、男は予想だにしない行動をした。 「なっ、に……?」  あろうことか男はその唇を蜜のそれにさらりと重ねたのだ。すぐに離れはしたもの、男の顔はすぐそこにあり、蜜の目をじっと覗き込んでいる。そして何を思ったのか、ふっと笑みを溢すと、再び唇を重ねてきた。 「っ」  普通であれば頰を引っぱたくところである。なのにそれができなかったのは、ひとえに蜜自身が、その唇を気持ちいいと思ってしまっていたからだ。 「……んっ」  外界から切り離され、周囲には人の気配はおろか獣の気配さえない、秘密の場所。  その現実感のなさが、蜜の思考を惑わせたとしか言えなかった。  名前も知らない、それも男に抱き寄せられ、唇を重ねている。  これが夢ではなく、現実だとわかってはいても、蜜はその引力に逆らえなかった。  重ねられた唇はひんやりと冷たく、だがその間から顔を出した舌先は、熱い。  冷たさと熱さとを同時に与えられた蜜の腔内は、今にも蕩けそうだ。  池の水とは違う、微かに粘つく水音が辺りに響く。  合わさった身体はもはやどちらのものかもわからないほどに、その境界を曖昧にしていた。  蜜を頭からとろけさせた男の舌は、吸い付くようにさらに蜜の身体を這い、味わう。首筋を舐めあげられ、その男らしい分厚い唇に吸われ、蜜の身体はあまりの気持ちの良さに震えていた。  どんな縁があるというのだろう。  どうしてこの男とこんなにも合うのか。  それすら考えられなくなっていく蜜は、ふと空を見上げた。  そこには、まるでここの主のような大きな鳥が、木立の上から二人を見つめている。  そしてその大きな羽を広げ、青空へと飛び出していった。  蜜は男の肌を、手を、舌先を、熱を感じながら、ぼんやりと思う。  水に浸かった足先が、キンキンに冷えている。  そろそろ水から上がらなければ、風邪を引いてしまう、とーー。    ああ、頭が、いたい……。        * 完 *              

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