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『千の音』
2019.04.21
紫野楓へのお題は『恋しく思う気持ちはどこへ・楽園を蹴っ飛ばす・夢のその先に行こう』です。
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音 が売れっ子の小説家になることは、千仁 にとっては嬉しいことだ。大学時代から音は寝る間も遊ぶ間も惜しんで文学に魂を捧げていた。彼の姿を千仁はすぐ隣で見ていた。文学に勤しむ彼の横顔は情熱に溢れていて、どんな人の横顔よりも魅力的だった。
彼の横顔を大学ノートの隅にドローイングすることが千仁の楽しみで、それを不意に見つけた彼は目を見開いて一言「上手じゃないか」って褒めてくれる。
沢山の言葉を拾い集め線で結び文を紡ぐ力をもった彼のシンプルなたったその一言がとても嬉しくて、そんな何気ない日常が今はただ恋しい。
去年大きな新人賞で大賞をとった彼は多忙を極めていて、会う機会は間違いなく激減した。受賞したって報告も彼から直接されていないし、千仁もおめでとうとは言えずにいる。
新聞や雑誌で彼の顔は見るけれど、もうずっと彼と会っていない。そのうちになんだかいろんなことを言いづらくなってしまった。
音、あの時の約束覚えてるかな。
覚えてないか。いろんなことがありすぎたもの。
膝の上に置いたクロッキー帳を適当に開いて無心で線を引く。小さな鉛筆で。
彼の横顔を思い出しながら静かに線を引く。誰にも見られることも賞賛されることもない彼の横顔。
……彼と違って、僕の絵は全然日の目を浴びない。
音の受賞作は初稿の段階で読ませてもらっていた。千仁は言葉を多くは知らないけれど、すごく面白くて沢山の色とメロディーで溢れていると思った。本にそこまで親しんでいない千仁でも読みやすく引き込まれたし、前衛的でシュールでそれなのに酷く優しい。作品と作者は別のものとして考えようとは思っても、彼の生み出す世界は彼そのもののように思えた。
素晴らしい作品だ、もっと評価されるべきだ、と千仁は夜毎祈った。絵筆を執って彼の作品から感じる思いを描きもした。
その願いが叶ったのに。
四畳半のワンルームの隅で膝を抱えてテレビをつけた。
床には沢山の水彩紙が広がっている。心が窮屈で思うままに絵にした。
片付けるのも面倒だったし、紙と絵の具の香りが落ち着いた。
紙は音の匂い。いつも本に視線を落としている、彼の瞳がこちらを見上げる瞬間が好きだった。
「……音」
メディアの向こうに音が映っている。奇才でルックスも良い彼はメディアにすごくちやほやされていて、表情もまんざらでもなさそうだ。
画面の向こうの彼はまるで他人みたい。
恋しく思う気持ちは、もう一方通行になってしまったのかもしれない。夢を語り明かして朝になってもまだ止まらない、彼の大きくて偉大ですごい野望。かっこいいな、すごいな、って僕は彼を尊敬の眼差しで見ていた。僕も頑張ろうって言ったら、一緒に頑張ろうって言ってくれた。音。
音はもう僕なんて忘れてしまったのか。
彼が認められて嬉しい。でも同じくらい寂しくて、同じくらい悔しい。
音。僕、君の背中がずっと遠くに行っちゃって……自分を見失ってしまいそう。
褒めて欲しい。僕を。僕っていう存在を、君の声で証明して欲しい。
君に会いたい。
インターホンが鳴った。無視していたら何度も何度も鳴らされる。
今人に会ったらすごく酷い言葉を投げてしまいそうだったのに。もう知らないと抱えていた膝を立てて扉を開けたら、そこにはさっきテレビで見た彼がにこにこして立っていた。
「千仁! 会いたかったよ!」
音はぎゅう、と千仁を抱きしめた。
あまりに現実味がなさすぎて反応が遅れる。ボロボロの安アパートに彼の瀟洒な姿はとても浮いていた。
彼は千仁を抱きしめながら部屋にずかずか入っていく。玄関の扉を閉めてもまだ抱きしめている。
千仁は思わず彼を突き飛ばした。
「……何の用」
驚いた顔をする音を見ていたら涙が出そうだった。自分とまるで違う彼。同じ場所にいたときも確かにあったのに。今はこんなに遠くて。
「もう僕のことなんて忘れたのかと思ったよ」
違う、こんなこと言いたいんじゃないのに。
笑顔で受賞おめでとうって、言いたいのに。
「僕を笑いにきたの?」
最低だ、自分。涙がぽろ、と零れたら、音が声を出して笑った。
「忘れるわけがないだろう! すごく会いたかった! もうすごく! 毎日君のことを考えていたよ!」
すごく闊達に歯が浮くようなことを言う、いつもの音だった。
ぶわ、と顔が羞恥で紅くなる。自分が惨めだ。
「君の涙は綺麗だけど泣かないでほしいな。うん。ずっと会えなかったことは謝るよ。ごめんね。君を不安にさせてしまった。ばたばたしてたんだ。千仁、実はね、僕の小説が大賞を取ったんだよ! 本になるんだ!」
肩をがしっと掴まれて、すごく嬉しそうに言われる。
とっくに知ってるけど。千仁は黙っていた。そう、と言いながら涙を拭う。
それでね、と彼は続ける。
なにを言うのか想像した。彼の栄華は数知れない。自慢話かな、って思った。
「君の絵が世間にやっとお披露目できるってわけ! 喜ばしい! 本当に!」
彼は本当に嬉しそうにそういって千仁をもう一度抱きしめる。
全然予想していない言葉だった。
「……どういうこと?」
間の抜けた声で言ったら、音が顔を上げて、冗談だろう、と言うように眉を下げる。
「僕の処女作は、千仁に表紙を描いて欲しいと言ったじゃないか。忘れたのか? 約束しただろう、君の絵が僕は大好きだから。君もうん、って言ってくれた……もう何年も前の話だけど」
……まさか。
忘れるわけない。
音、覚えてたんだ。
「売れっ子のデザイナーに頼んだ方がいいでしょ」
無名の自分が書き下ろすよりずっといい。
「そう、その件で揉めに揉めたんだ、編集と」
音は溜め息をついた。
「説き伏せるのにこんなに時間がかかってしまったよ。はっきり決まるまで君には黙っていたかったんだ。驚かせたかった、喜んで欲しかったから。ねえ千仁、やっと夢が叶うよ。二人で一緒に作品を作ろうって、僕たち約束しただろう。君の絵は美しくて優しくて、まるで君みたいだ。僕は君が恋しいし、君の絵を愛している」
同じ言葉を数年前に言われた。
そっくりそのまま、同じ言葉だった。
千仁は思わず口を抑えた。隙間から嗚咽まじりの声を出す。
「僕も、君の文章が、好き……だから、きっと僕たち、二人で、夢を……っ叶えよ……」
音が千仁の頭を撫でる。太陽のように元気な笑顔だった。
「なんだ千仁、覚えてるんじゃないか! だったら話が早いよ!」
音がさりげなく外套からハンカチを取り出して千仁の涙を拭う。
「夢のその先へ行こう、二人で! これからもずっと!」
頷きながら、音の顔を見上げた。
震える汚い声で言う。
「受賞、おめでとう……」
ありがとう、と音が言った。
終
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