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第1話

 それは、雨の降る夜のこと。  大学からの帰り、同じサークルの仲の良い友人たち数人と食事に行って、去年の春から一人暮らしをしているマンションに帰って来たときのことだった。  その日は梅雨時ということもあって、日暮れとともに雨が降り出して、夜になってその雨脚が急に強まった。  友人たちと食事をしていたファミレスは大学からほど近く、徒歩で十分足らず。晴れている日ならなんてことない距離だけれど、雨となると状況は変わる。  少し風が強かったこともあって、俺はしっかりと傘をさしていたにもかかわらず、マンションに辿り着いた頃には着ていてシャツは雨に濡れ色が変わり、履いていたジーンズは大量の水を含んで脛に張り付き、いわゆる全身びしょ濡れの状態だった。 「……ひっでぇ雨」  そう小さく息を吐きながら何気なく呟いた時、マンションのエントランスの屋根の下に佇む背の高い男の姿に気付いた。  何をしているのだろうかと気になってその男を見てみると、この雨の強い日に傘を持っているような様子もない。エントランスの下で空を眺めながら、髪に付いた水滴を払って居るところを見ると、どうやら雨宿りをしているようだった。  エントランスの屋根の下に入って、傘についた水滴を払うためバサバサと傘を開閉していると、男が小さく息を吐きながら髪をかき上げた。  その瞬間、驚きが思わず「あ!」に声が出てしまったのは、俺がその男の顔を知っていたからだ。  男が俺の声に気付いてこちらを向いたが、つい目を逸らしてしまったのは、確かにこちらは彼を知っているが、向こうが俺を知っているかどうかは分かりかねたからだ。 「あれ……きみ?」  彼が俺を見て少し驚いた顔をした。  俺が彼を見つめ返すと、彼が「ああ、やっぱり」と人の良さそうな笑顔を見せた。 「きみ、ウチの店よく来てくれるよね? ──あ、わかんない? ここ真っ直ぐ行ったとこの“Adiantum(アジアンタム)”って店の──」  驚いた。彼が俺を覚えていたとは。 「分かります。そこの店員さん……ですよね」  そう。彼は俺が良く行く近所のカフェの店員だ。  マンション前の細道から大通りに出て、すぐのところにある小さなカフェ。店の名前の通り、店内のあちこちにアジアンタムというシダの仲間の観葉植物が置かれている。今どきのカフェというよりは昔ながらの喫茶店のような落ち着いた雰囲気の店で、とても居心地がいいことからひまを見つけては通っている。  音を立てて再び激しくなる雨脚。強い風に煽られた雨がエントランスの中まで吹き込んでくる。 「酷い雨ですよね。──というか、こんなところで何してるんですか?」 「ああ、雨宿り。店に置いてあった傘、さっきの強風で壊れてね」  そう言って、彼が壊れたビニール傘をチラと俺に見せた。 「家──この先少し行ったとこなんだけど、走ろうにもこの雨じゃさすがにね……もう少し止むまでここで」  確かに、この雨脚では傘もささず走って帰るのは困難だろう。  きっとここに辿り着くまでも走って来たのだろう。彼の髪からは水が滴り落ち、真っ白なシャツも肌が透けてしまうほど濡れてぴったりと彼の身体に張り付いている。  意外と逞しい──。  濡れて張り付いたシャツが彼の身体のラインを強調している。着痩せするタイプなのだろう。カフェで見る彼は一見華奢に見えるのに、こうして間近で見る彼の身体は確かに細身ではあるが、男らしく硬そうな筋肉に覆われている。  綺麗な身体だと思った。 「あの……この傘使います?」  そう言って自分のさしてきた傘を差し出した。──が、彼の姿を見ればそれも今更な感じがした。  雨は依然激しく降り続いている。この分では当分止みそうにない。  そういえば今朝見たテレビでやっていた天気予報で今夜大雨の予報が出ていたことを思い出した。 「じゃ……もしよかったら雨が弱まるまでの間うちに来ませんか?」  俺の言葉に彼が驚いた顔をした。当然だ。俺たちは、カフェ店員とその客というただ互いの顔を知っているというだけの間柄だ。 「いや。さすがに悪いよ」  彼が遠慮するのもまた当然のこと。ただの顔見知り程度の男にそんな提案をされたところで戸惑うのは当たり前だ。  それでも、このまま彼をここに放っておくことができなかった。  雨はまだ激しく降り続いている。 「そんなずぶ濡れの身体で、ここで雨が止むのを待ってたら風邪ひきます」  そう言って俺がそっと彼の手を引くと、彼は意外にも素直にそれに従った。

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