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【君がくれた初恋】美乃吹雪
見上げれば真っ白な入道雲が真っ青な空を悠々と泳いでいるように見える快晴の空。
生い茂る樹々には煩く鳴く蝉の声が暑さを倍増させる。むせ返るような茹だる暑さは、滲む汗と小麦色に焼け白い歯を見せながら爽やかに微笑む航平との時間を夏の匂いと一緒に記憶に刻んでいく。
部活の帰り道、駄菓子屋の前で立ち止まった香織が航平にアイスをせがんだ。
昔ながらのアイスボックスを二人は覗き込みアイスを選んでいる。
それを横目で見ながら俺は空を見上げた。
俺達は生まれた時からご近所さんの幼馴染みというやつだ。
新興住宅地に一番乗りで家を建てたのは俺達の家だけだったらしい。親同士も仲が良く家族ぐるみの付き合いってやつが続いている。
それは今となっては俺にはうざったくもある。知り過ぎている関係は強固な絆を作り、蔓のように絡まり合ってこの先もずっと切れることはない。
航平が手に持っているのは二本繋がっているアイス。パキッと割って片方を差し出した。
「はい。由紀(ゆき)」
航平は子供の頃から由紀(よしのり)と書く俺の名前を「ゆき」と呼ぶ。
長年呼ばれた愛おしいあだ名を無表情で聴き、胸が熱くなるのをひたすら隠している。
無言で受け取った俺は先端をねじり取りそれを航平に渡す。二つの先端は航平の手からゴミ箱に放り込まれた。
明日は俺が奢る番。それは暗黙の了解のように俺達の約束。香織はそんなことはつゆ知らず航平に奢ってもらったクルクルと巻いたアイスを頬張り嬉しそうに航平を見つめる。
記憶を遡ってもこの光景は変わらない。きっと航平は香織の初恋の相手だし、その揺るがない想いは痛いほど俺には伝わる。
その視線の先の航平を俺も香織と同じ想いで見てきたからだ。
同性が好きなのかはわからない。いつの頃からか自分の中で膨れ上がる航平への想い。振り返ってみても俺の中は航平しかいない。同じ視線を向ける香織の想いは同じものだと確信した時、俺は現実に晒された。
決して口に出せないこの想い。苦しくて辛くてでも誰よりも近くそばに居られる嬉しさにかき乱されている。
航平は少し荒っぽいけど優しい男だ。どこをどう切り取っても優しさの塊で、気遣いのできるいい奴なんだ。だからこそもどかしい断ち切れないこの気持ちを持て余してしまう。
三人並んで三軒並んだ家路へと向かう。部屋に入り窓を開ければ目の前には航平の部屋があるという何とも切りたくても切れない状況下にある。
後、半年。
俺達がここから自分達の道へと向かって歩き出す。
勿論、俺はここから出て行こうと思っている。近くにいるだけで幸せで残酷な日常も離れて暮らすことでこの想いを風化させてしまいたい。いつまでも仲のいい航平の幼馴染みでいたい。
そんなことを思いながら航平と歩く見慣れた景色を忘れないように脳裏に焼き付けていた。
「なあ、夏休みどこにも行かないつもりなん?」
テーブルを挟んで課題をこなしている航平はシャープペンをクルクルと器用に回しながら、退屈そうに聞いてくる。
「受験生が夏休みを満喫してどうするんだよ。それに塾の夏期講習が始まってるのにどこにも行けねーだろ」
志望大学は合格範囲だとしても油断はできないし、勉強して損はない。同じ学校で同じ塾。隣の家で毎日顔を合わせる俺の身にもなって欲しい。嬉しくて残酷な日常。
この上、二人で出かけるとか……俺をどうしたいんだと聞きたいが聞けない。
「ゆき……最近俺に冷たくない?」
「そんなことないよ。航平が呑気すぎるだけ」
『そうかなぁ』とぼやきながら手元に視線を落とした。
モクモクと課題を済ませている背中には西陽が差し込み、その頃には学校の課題を終わらせ、夏期講習のテキストに向かっていた。
「これクリアしたらさ、もう俺達ってこんな風に勉強する事なんてなくなるんだろうな……」
同じくテキストに向かいながら呟いた科白に視線を上げ、目の前の航平を見つめた。
こんな風に二人っきりで勉強や過ごす事は二度とやってこない。リアルな現実に熱い西陽を背にしているはずが身体は冷たくなっていくような気がした。
「勉強は出来なくても……幼馴染みじゃなくなるわけじゃないし……いつだって連絡くれれば会いにいくよ」
航平がどこの大学を目指しているのかは聞いた事はないが、自分とは違う道に進んでいく事は明らかで、いつかこんな風に過ごした事は思い出になっていく。
自分とは違う道……それは航平と離れて暮らすという現実。この想いを風化させようとしているのは自分自身なのに。張り裂けそうになる胸をテーブルで隠すように押さえ浅く深呼吸をした。
「そうだよな、俺だってゆきが連絡くれたら飛んでいくから。ゆきは俺の大事な親友だからな」
『親友』と釘を刺された俺の立ち位置。どんな立ち位置でも航平の一番なら……幸せだと思わないと。
風化させると決めたはずなのに往生際の悪い俺はまだその覚悟はできていない。
後半年……このままでいたい。航平の側で笑って過ごしたい。目頭が熱くなるのを隠すようにテキストに向かう。
「…………付き合うことになったんだ」
航平の声が鼓膜を揺らし、聞き漏らした言葉を航平を見つめ聞き直す。嫌な予感が俺を覆い、一瞬空気も時間も止まった気がした。
「え?」
「香織とな」
……香織とな、付き合うことになったんだ……
そう聞こえた。聞き直す……聞き直したいがもう一度聞くのは恐ろしく怖い。
「そう……なんだ……」
「まあ凄かった。香織、マジ凄かったから」
何が凄かったんだろう……グイグイ責め立てられて押されて折れたんだろうか……香織は世間一般的に可愛い部類だとクラスの誰かが言っていた気がする。航平とはお似合いだとその科白にムカついたことを思い出した。改めて香織を観察してみれば、可愛い女の子に成長していた。こんなに近くにいたのに航平しか眼中になかった自分に赤面したことがある。
「まあ香織、可愛いしな。明るいしいい子だからいんじゃないかなって思ってさ」
航平とお似合いだと言ったクラスメイトの科白が大きく頭の中で木霊する。そんな軽い感じで告白を受け入れられる女の子が羨ましい。お試しのような始まりでも自分だけを見てもらえるなんて羨ましすぎる。
ドンと殴られたような痛みと激しく打ち続ける鼓動に胸が押し潰されそうな息苦しさで、俺はテーブルに広げた物をカバンに押し込んで立ち上がった。
適当な理由を並べるなんて器量はなく、『帰るわ』そう言い残し航平の部屋を出た。
帰ると言っても隣だし向かいの部屋なのだが。そんなことを考える余裕もないくらい俺はパニックに陥っていた。
後ろから俺の名前を叫ぶ航平の声がまた胸を締め付け階段を駆け下りた。
明日から俺はどうやって航平と付き合っていけばいいのか。そんなことを事ばかりが浮かんでは気持ちは沈んでしまう。
香織が羨ましい。悔しくてやりきれない。何故香織なのか。ずっと一緒にいたのは自分だって同じはずなのに。男というだけで好きだと告白さえできず辛く悲しい想いをしなければならない。
ベッドにダイブした俺は枕に顔を押し付けて声を殺して泣き続けた。窓の外で航平が叫んでいるが今は航平の顔を見るなんて事はできないし、二人の幸せそうな顔がちらついては込み上げてくる涙と嗚咽を枕に押し付けた。
翌日、俺は航平と顔を合わせたくなくて早朝家を出た。あてもなく電車に飛び乗り西へと向かう。それなのに俺はどこに行こうとも航平のことばかり考えている。
今日から親は旅行でいないし、こずかいはたんまりある。一泊ぐらいどこかでできるかもしれないとスマホの電源をオフにした。
この気持ちを終わらせなければいけない。リセットできない想いは強制終了させなければいけなんて急すぎで考えることなんてできない。ただ真っ白になった頭の中から航平の想いだけを思い浮かべて終わらせる旅に出ようと思ったんだ。
海岸沿いを西へと走る電車はローカル線だけあって人もまばらだ。時折女子学生の甲高い笑い声が響いてくる。
この電車だって航平とよく乗った。中学受験の為に通っていた塾はこの電車で通った。
洋楽にハマっていた航平から片方のイヤフォンを借り二人でききながら通った。それが嬉しくて塾への道中は俺にとって至福の大切な思い出だ。
優しくスポーツマンの航平はよくモテた。だけど一度も彼女を作る事はなかった。
『付き合うってよくわからないんだよな。好きでもない人とどうしろっていうんだろうな』
好きな相手じゃないと付き合わないとか、ウブな航平には彼女という存在はずっとできないんじゃないかってどこかで決め込んでいた。そんなわけないのに。いつか大人になるなって誰かを心から好きになって……航平ならきっと大事にする。それが香織だったって事なのか。出来たら俺の知らない奴が良かった。
香織も物心がついた頃からずっと一緒に育ってきた。どんな事だって知ってる。それに2人が恋人同士になるって……なんだか俺だけ除け者のように感じるのは幼稚なわがままなんだけど。
どう考えたって香織と張り合う以前の問題だ。恋愛対象外の俺がどんなにこうを思い続けでも同じ土俵に登るなんてことはない。
そう、この想いは不毛だ。航平に知られたらもう一生幼馴染みには戻れない。
これで良かったんだ……遅かれ早かれ終わりにしないといけない時がくる。
それでも……まだ好きでいたかった……いや好きでいてもバレなければ構わない。それでもこの気持ちは香織の為にも終わらせないといけない。
元の……幼馴染みに戻って祝福してならないと……
静かに頬を伝う涙を拭もせず景色を見る振りをして隠した。
降りたことのない駅に飛び降りた俺はあてもなくブラブラと歩き始める。
駅前は露天のような店が軒を連ね、何かの催しな行われているようだ。沢山の人達が楽しそうに行き交う。
航平が好みそうな物を見つける度、あいつの顔が浮かんでは頭を振る。
気持ちを整理しなければいけない。これからは幼馴染みで親友の立ち位置であいつとこれからの人生を歩んでいく。
頭ではわかっていても心が言うことを聞かない。どう考えたって先のない関係より航平には幸せになってほしい。
そう俺とじゃなくてもあいつの未来は幸せな人生であってほしい。
そして良き理解者でいたい。
「そんな簡単に切り替えるなんてできるかな……」
見知らぬ街で一人旅なんて悠長に楽しむなんて事はこんな心情でできるわけもなく、いつのまにか人気のない木陰になった公園のベンチに腰掛け、現実逃避しそうな自分に自嘲しながら雲ひとつない空を見上げた。
こんな夏空を航平と何度見ただろうか。
数えきれない思い出は俺だけのモンだ。口にできなくてもあいつとの思い出は俺の大切な宝物なんだ。
思い出しかなくたって……航平が俺を忘れることなんてないだろうし、縁が切れる訳でもない。だけど俺自身がこの想いをここで終わらせないといけない。
「航平も香織も大事な幼馴染みでなんだから……祝ってやらないとな……」
言葉にすれば悲しさが増す気がした。込み上げる想いはツンと鼻を突き涙を誘ってこぼれ落ちた。
『なんで俺と香織を祝うんだよ!』
息遣いは荒いが聞き覚えのある声。俺が聴き間違えるなんてあるわけがない声。
「幻聴まで聞こえるとか……重症だな……」
『幻聴って何よ。俺は幻なんかじゃねーし』
どかっと隣に腰を下ろしたのは……滝のような汗を拭う航平。
「なんで……幻……?まで見えるとか……」
「暑さでおかしくなってんのか?ゆき、なんでこんな所まで……見失って焦ったわ!」
片方の手に握ったペットボトルを俺に手渡し、もう片方のペットボトルをゴクゴクと喉を鳴らし吸い込まれるように液体が航平の中へと消えていく。
「ゆきも飲んどけ、熱中症になる」
横目で俺を捉え、その視線で見惚れていた俺は我に返った。
「なんで……航平……?」
「朝早くどこ行くのかって思ったら、訳わかんねー駅で降りるわ、祭りで人が多いわ、見失って走り回るわで、まじヤベ……」
立ち上がった航平は飲み干したペットボトルをゴミ箱に放り投げ、俺の前に仁王立ちになる。
「それで?ゆきはなんで俺と香織を祝うわけ?昨日俺が言ったことちゃんと聞いてなかったろ。珍しくぼんやりしてたもんな」
確かにぼんやりはしていた。だけど二人が付き合う事はちゃんと聞いた。
「香織と……付き合うんだろ……」
自分が放った声が鼓膜を揺らし胸を締め付ける。言葉にするとリアルに響き苦しさが増した。
「香織が付き合うんだよ」
「……」
「佐藤と」
「え……?佐藤……?」
「そうだよ、お前の隣の席の佐藤と付き合うんだよ。やっぱちゃんと聞いてねーじゃん」
確かに隣の席は佐藤君だ。香織と佐藤君……香織と佐藤君……!
ぼんやりと聞き逃した航平の科白は『佐藤と付き合うことになったんだ』だったのか?
「まあ、聞き間違いしてくれたおかげで確信がもてたけどな」
「確信……ってなんだよ」
「ゆきさ、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん。俺もゆきのこと信頼と信用と愛情を持ってる」
「愛情……?」
「すっ飛ばしてそこだけ切り取るんじゃねーよ。そりゃそうだろ、これだけ長くいてさ、ゆきの性格も癖も全部引っくるめて俺はゆきが大好きだし。そうじゃなきゃこんなに長く一緒にいないだろ。誰よりも愛おしくて可愛くてちょっとムカつくクソ真面目なとこも全部ゆきだしな」
「航平、俺のこと好きなの?」
「ああ、大好きだし、これからも大切にしたいと思ってる」
「それって……れ、恋愛の……?」
「さあ、どうかな。早とちりしてこんなに走らせたゆきにはまだお預けだな」
俺の腕を引き立ち上がらせた航平は、滴る汗を擦りつけるように俺を抱きしめた。
「何でも話してよ。これ約束だからな」
「……気持ち悪い……」
「はは、それ言う?俺これでも必死で追ってきたんだけど」
背中に腕を回せば汗で張り付いたTシャツは絞れそうなほどだ。この暑い真夏に必死で俺を探してくれたことがわかる。
それだけでいい。航平が俺の為に必死になってくれたことが嬉しくてたまらなかった。
恋でも愛でも友情でも。ひと時でも航平の一番であったのなら。
「帰ろうぜ、俺らの街に」
そう言って掌を合わせ握り締めた航平は満面の笑みに白い歯を見せた。
「お楽しみはこれたらだからな」
意味深な科白を吐いた航平は嬉しそうに俺の手を引いて歩き出した。
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