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第29話
「今日は誰もいないから、倒れるなよ。」
「倒れないよ。」
あの時ぶりに入ったノアの部屋は、やっぱり生活感が薄い。
「とりあえずその辺座って。」
ダイニングの椅子に座るように勧められ、座っているとキッチンからコーヒーの匂いがした。
「お子様味覚に合わせといたぞ。」
お子様味覚って、絶対貶してる。失礼だ。と思ったが、目の前に出されたのは甘いミルクコーヒーで、一口飲むと思わず美味しい、と声に出してしまった。ミルクがふわふわだ。
「キッチンは意外と使ってるんだね。」
よくみるとしっかり収納されているだけで色々な器具が置いてある。
「意外とってなんだ。結構ちゃんと自炊してるぞ。」
「いや、それ以外のところに生活感がないから。」
「…あー、あんまり無駄なもの置かない主義だから。アシュリーさんもそうだろ?」
そう言われてアシュリーの部屋のことを思い出す。確かに、ベッドと本棚、机と椅子がある以外は、ほとんど何もなかった。
僕の部屋では紙とかペンとか、最近では編み物の道具とか、色々なものが目に入るのになんであんなに何もないんだろう。
そしてその何もない部屋で…
「確かに。アシュリーの部屋にはほとんど何もないかもしれない。」
またあのことが頭をめぐりそうになったのを、なんとか食い止める。
「で、本題だ。」
そこからノアが話した内容は、全く知らない世界だった。
僕が色々な単語に反応しては顔を赤くするのをうぶだなぁと笑いながら、ノアは小学生の頃には下品だと先生が口を酸っぱくして規制した単語を抵抗もなく交えながら普通の口調で説明し出した。
むしろ恥ずかしがっているこっちがおかしいのではないかと疑うくらい普通に。
「まあ、男同士ならちょっと違うけど、でもまあその辺はアシュリーさんに聞いて。
好きな人の処理なんかしたら、あの人も結構ダメージ食らったんじゃないか?
まあ、処理とかそういうのは、普通自分1人でやるものだけどな。」
「え、あれ1人ですることなの?」
「誰かにしてもらうとか逆に無理だわ。」
「…そっか。」
色々聞いて、自分が知らないことが世の中にはたくさんあるのだと素直に感心した。
ちなみにアシュリーが悲しそうな顔をしていた意味も、わかってしまった。
基本子孫を残すための現象。
それを子孫を残せない男同士で付き合っているというのに、エラーなどと言われたのだ。優しい彼は僕を普通ではなくしてしまった自分を責めたのだろう。
今はノアの話を聞いて、別に子供はできなくても、彼との愛を確かめる行為のためにあるのならそれはエラーじゃないと感じる。
差別されることもあるから外では兄弟でも装ってろよ、とノアは簡単に付け加えた。この関係はたしかにきっと普通じゃない。
世の中の人は普通が1番で異分子は取り除こうとする。それはもう、学校という空間で学んでいた。
だから、相談したのがノアで良かったのかもしれない。彼は驚いた顔もせず、やっぱりなと受け入れてくれた。
そしてアシュリーは優しいからきっと、僕を預けることを決めた時、そういうことも考えていたのだろう。
ちなみにノアの話を聞いたあと、僕はアシュリーとそういう関係になれたことに心から感謝した。
アシュリーを独り占めできるのなら、僕はそれがいい。もしもっと繋がれるのなら、そこまでいってみたいと思った。
「じゃあノアは、好きな女の人とするの?」
ふと、気になった。
もしもあの女の人とノアがそういうことをするのなら、ノアはあの人が好き、ということだろうか。それだからといってなんとも思わないが、本当に少し疑問に思ったのだ。
「いや、俺はそういうのは、身体だけって決めてるから。
心で人を好きにはならない。」
人を好きにはならない、というその言葉は、普段からりと明るい彼の口から発せられたとは考えにくいほど無機質で冷たい。
身体だけ、というのは、心を抜きにして好きでもない人と、ということだろうか。
「それでもいいの?」
「気持ち良さはある。でもお前はやめとけ。」
なんとも言えない表情で笑った彼に頭を雑に撫でられて、これ以上は聞いてはいけない、と本能でわかった。
きっと、色々あるんだ。誰にでも、色々。
「今日は泊まってくか?」
無駄に明るい声は、場の空気を変えようと虚勢を張ったようにも思えた。けれど敢えてそれを言うことはしない。
「ベッドは?」
「俺はソファーで寝るからいいよ。そもそもほとんどベッドは使ってないし。」
「じゃあ泊まる。」
「人を泊めるの久しぶりだなー。今晩は腕を振るうか。楽しみにしてろ。」
時計を見ると、ちょうど夕食時だった。ノアはキッチンに行くと、手際よく僕があまり扱ったことのない食材を棚から出していく。
できた料理は自分が作ったものよりずっと美味しくて、そして目にも鮮やかだった。なんと言うか、全体的におしゃれな感じだ。
「本当に、美味しい。僕も作りたいな。こう言うの。」
「そうかよかった。作り方聞いてくか?」
美味しい、と言われると、ノアは嬉しそうに目を細めた。さっき流れていた冷たい空気はもうない。
「見てたからだいたい大丈夫。でも隠し味だけ忘れそうだからメモしたい。」
「後で渡すよ。」
その夜もアシュリーのことを考えていて、なかなか寝付けなかった。恥ずかしいけれど、思い切ってそのことを聞いてみたら、彼はどんな反応をするのだろう。
考えていると、会いたくなる。明日の午後には帰ってくるだろうから、あったらまず、抱きしめてもらおう。
眠らないと、明日また心配されてしまうかもしれないな、と目を瞑り羊の数を数え始めると、だんだんと意識が薄れていった。
次の日の朝、仕事が朝からだと言いながら全く起きようとしないノアを起こすのが大変だったのは、また別の話だ。
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