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「お前はαなんだから」
子どもの頃、αだと判明した時から呪文のようにそう周りから唱え続けられて来た言葉。
元々、服も家の品位を落とさないように決められ、食事作法を教え込まれ、習い事はごまんとやらせられた。
うちはβの中でも格闘の名家だった。αに負けじと劣らずの壮代(そうだい)家。そんな家にαとして生まれたら、将来は官房長官だなどと期待を背負わされるのは考えてみれば当たり前のことだ。
αなんだから、α以外とは深く関わらないように。αなんだから、当然学校は名門校。αなんだから、これくらいできて当然。αなんだから……。
「第二性に振り回されるなよ」
俺にそう言ってくれたのは、βの兄、智夕(ともゆう)だった。兄は警察学校を首席で卒業したβ界の化け物だ。
「親父たちには俺からもちゃんと言っておいてやるからさ」
兄はよくできた男だと思う。本当に。
「なあ、枩吏(まつり)」
今では家族の中で兄だけが味方だ。兄だけが俺を本気で心配してくれる。
αの俺を壮代家繁栄の駒として扱わなかったのは……兄だけ。そう、自分の居場所を守るために。
優秀だとしても所詮はβ。
同じ家にαがいては存在意義がなくなる。
だから優しくしてくれた。
それでも構わなかった。兄が優しくしてくれる理由なんて、どうでも。
だけど、今は、今ばかりはその下心を剥き出しにした優しさが砂糖の焦げたにおいのように鼻についた。
「出て行けよ」
「枩吏……」
「出て行けっ!」
怒鳴り付けると兄は俺に冷たい目を向け、鼻白んだ様子で部屋を出ていった。
*
義務化されていることの中に、Ωの防護首輪がある。そしてもうひとつ。遺伝子的に遠い先祖の血を色濃く受け継いだ人間と区別されるヒトの中に獣人がいる。
獣人は攻撃的になると、その名の通り獣の姿になる。その獣は、大昔、獣人の差別が酷かった時代に絶滅した狼だ。
獣人と人間は長らく関わり合いを絶っていたが、その原因とされるのが獣人の獣化だった。
人間の中でも優秀とされるαでも、獣人のαには力では敵わない。人間の歴史的に見て獣人弾圧がかなりの長期間に及んだのも、獣化した獣人を押さえ込む力がなかったせいだ。
分岐点が訪れたのは五十年前。獣化制御装置が開発されて以来、獣人は少しずつ人間社会に溶け込むようになってきた。
その制御装置というのが、Ωの防護首輪と似た首輪だった。
獣人は第二性に関係なく首輪を義務づけられている。
人間のβほども力がない獣人のΩも制御装置を兼ねた首輪をつけなければ、保健所送りにされる。
杉春月懐(すぎはるつきかね)は獣人のΩだった。
小学六年の夏。第二性が判明するまでは、俺は月懐を好敵手だと思っていた。いや、今もその気持ちは変わらない。好敵手で、親友だった。
勉強も、運動も、遊びでさえ。
壮代家の人間と本気で張り合おうなんてやつはいなかったから、俺にとって月懐は特別だった。獣人を気味悪がるやつもいたが、制御装置をつけ、獣化しなければ人間と同じだ。見た目も、身体能力も。
β家系でもα社会に名を馳せる壮代家の男子として俺はあらゆる制限をかけられてきた。そんな窮屈さに嫌気が差し、よく親の目を盗んで月懐と遊んでいた。
休日に校庭で競争したり、秘密基地を作ったり。月懐の家は俺の家と同じβの家系なのに居心地がよくて、よく入り浸ったりして。おばさんとおじさんもよくしてくれて、月懐と一緒に俺もピクニックや、野球観戦に連れていってくれた。
俺たちは何をするにも一緒だった。
俺と月懐はクラスの中でも目立つ方で、月懐を好きだと言うやつも多く、友だちとして誇らしい反面、月懐の一番は俺なのにと言う嫉妬心みたいなものもあった。
月懐が他に取られないように警戒して、誰かと仲よさげに話していると間に割って入ったり、連れ出したりした。
そんな俺を仕方がなさそうに許してくれる月懐が本当に大好きだった。
ただ、そんなふうな生活が続いたのも、六年生に第二性が判明するまでの話だ。
診断結果は公表されるものではない、そのはずなのに、一夜明けたら俺の第二性は学校中に知れ渡っていた。
最悪の居心地だった。
昨日まで普通に軽口を叩いて遊んでいたやつが急に媚びるようになる。俺が黒と言えば白も黒くなってしまうようなそんな異様な雰囲気の中、唯一の救いは親友の月懐のはずだった。
月懐は俺に媚びたりしない。
月懐だけは、俺と対等でいてくれる。
それは絶対に揺るがない事実のはずだったのに。
月懐が教室に入ってくるなり、ガラリと周りの雰囲気が変わった。俺の時とは違い、それは雨が降る前の寒気のように嫌な陰湿さを秘めて、冷え冷えとしていた。
「壮代の犬が来たぞ」
誰かが言った。
「っおい! 誰だ、今の」
思わず怒鳴り声を上げたが、名乗り出てくるわけもなく教室が静まり返った。
獣人を『飼う』人間のαがいるせいだ。飼われるのはほとんどがΩで、契約次第では獣人は高級な愛玩動物に成り果ててしまう。それは言い換えれば現代の奴隷契約のようなものだった。
いつもの月懐ならこんなこと、鼻で笑って相手にしなかったはずだ。
それとも、カッとなって掴みかかっただろうか。どっちでもいい。
どっちでもいいから、そうしてほしかった。
俺と月懐はずっと対等でいられる友だちのはずで……。
だが、俺のその子どもじみた期待は、簡単に裏切られた。
月懐はただ黙って教室を出ていってしまった。声を上げることもなく。それこそ、石を投げつけられた野良犬のように。
「月懐」
俺は咄嗟にそのあとを追いかけた。
廊下で月懐の手を掴んで引き止める。
「あんな馬鹿、気にするなって」
月懐は無言で俺の手を振り払って、こちらを向き責めるような目をして呟く。
「事実なのに?」
「事実って何が」
「俺みたいなのはペットにでもならないとまともに生活できなくなる」
「それは……」
獣人用の抑制剤は保険が適用されないために高額になる。確かに、月懐の両親の経済状況では今後、困窮することが目に見えていた。
「……でも、最近は支援団体とかあるし」
「本当に支援してもらえるなら誰も悩んだりしないっ!」
月懐の大声に驚いて一歩下がる。普段は俺に声を張り上げたりなんてしなかったのに。
廊下で揉めたせいですぐ担任の男先生がすっ飛んできて、俺たちを引き離した。
そして思いもしなかったことを口にする。
「杉春。壮代に向かってその口のきき方はなんだ」
まさかそんな注意を受けるとは思っていなかったのか、月懐がぽかんとする。
俺も唖然とした。
「次に問題を起こしたら退学だからな」
「たっ……!」
言葉を失う月懐。俺は信じられない思いで先生を見上げた。
獣人は義務教育の対象となっていないため、法的には、小中学校でも獣人の退学処分は有り得たし、当時の俺もそのことについては知っていた。だが、まさか、こんなに簡単に学ぶ権利を剥奪されるとは思っていなかった。
「立場を弁えなさい。大人になったら引き取り手も減るんだから。小さいうちに身の振り方を覚えないと、将来苦労することになるぞ」
愕然とする月懐を見ていられずに、口を挟む。
「口のきき方に気をつけるのは月懐じゃない」
月懐を背に隠すように立つと、先生は目を丸くして、それからじわりと俺に不気味に笑いかけてきた。
「壮代は優しいなあ」
「……は?」
「Ωをかばってやるなんて。それも獣人の。将来は人格者としてこの国を引っ張って行けそうだな」
媚び、へつらう。笑った時に見える歯が、持ち上がった頬の肉が、鈍く光る目が。
αを生徒に持てた幸運にどっぷり酔っている。
怖かった。そして、それ以上に腹が立った。
背中の月懐を見ると……俺を見る目が、昨日までとは変わってしまっていた。
「月懐、俺たち友だちだよな?」
慌てて問いかけた。
月懐は黙ってうつむく。
「何で何も言わないんだよ、友だちだろ? 月懐」
「……友だち、か」
月懐が俺を嘲弄するように笑ったのは、後にも先にもこの時だけだった。
「月懐?」
「僕を、飼う気はないんだな」
「当たり前だ! そんなこと、お前が一番わかってるはずだろっ?」
肩を掴み、揺さぶって問いかけた。
月懐がうなずいてくれるのを待った。
だけど、いつまで経っても月懐が返事をすることはなかった。
「おい、ちゃんと考えろよ!」
まだ子どもだった俺にはそんな、心ない責め句を紡ぐしかできなかった。月懐が、考えていないわけがなかった。当時の俺よりずっと、ちゃんと考えていたはずだ。
俺はそんな月懐を責めた。そうするしかできなかった。月懐を失えば、俺はひとりぼっちになる。諦めたような月懐を見たくなくて必死だった。
俺が納得できてないなら、月懐だって納得していないに決まってる。そう、勝手に思い込んで望む答えを引き出そうとした。
「ちゃんと返事しろよ、月懐!」
月懐は顔を背けたままなにも言わなかった。
俺たちは友だちじゃなかったのか。家柄も第二性も関係ない。そう言う関係だったはずなのに。
あまりの怒りに言葉も出ない俺を一瞥して、月懐は早退した。その背中をじっと恨むような気持ちで睨み付けていた。
でも、実際に人を殺しても檻に入らなくてすむαに、首輪を強制されるΩの気持ちなんて、ましてや、奴隷にならなければまともに暮らせない獣人の気持ちなんて、理解できるはずがなかった。
この国で、この世界で、獣人のΩが並みの生活を送るためにはペットになるしかない、その現実を見据えることができなかった俺はお子ちゃまで、本物の馬鹿だった。
今でも思う。
俺が月懐を愛玩動物として届けを出していれば、守ってやれたのではないか、と。あの時、多分、月懐は俺に飼ってほしがっていた気がする。
友だちという言葉で俺はそんな月懐の願いを踏みにじってしまったのではないかと、今さらになって思う。
昨日まで対等だった相手に「飼い主になってくれ」なんて、常人なら言えない。月懐もそうだったのではないだろうか。
見ず知らずのαの奴隷になるくらいなら、俺のところに来たかったはずだ。だが、そう思ってしまうのは、自分を慰めるための逃げのような気もする。
あの月懐が本当に俺のペットになりたがっていたのかは、もうわからない。
だけど少なくとも、俺が飼い主になっていれば、月懐は害獣として銃殺されるようなことはなかったはずだ。
「ねえ、枩吏」
ラブホテルのソファーでタバコを吸っていると、ナンパして連れ込んだβの女が裸でバスルームから出てきた。α女より線が柔らかく、Ω女より痩せているβ女の特徴をそのまま表したような体。
「寝ておいてなんだけど」
「ん?」
「あなた、学生じゃないの? いいの? 天下のαがこんな遊びしていて」
裸で俺のとなりに座り、手からタバコを取り上げる。
「おい」
「若いうちはいいけど、口臭やばくなるよ」
勝手に灰皿に押しつけて俺のタバコを処分する。
「何だよ。セックスに不満があったなら言えばいいだろ」
「セックスが問題なんじゃなくて」
女はため息をついて、俺の太ももを触った。
「本命出来た時、後悔するよ。タバコも、遊びも」
「βのくせに」
「あんたもガキでしょ。αらしく、与えられた幸せを甘んじて受け入れたらいいのに」
「今さら」
月懐が死んだのは、あの翌年。
月懐はΩだというだけでいじめられ、不登校になっていた。俺は毎日のように月懐の家に行ったが、おばさんは俺を中へ入れてくれなかった。
それどころか、どこか俺を煙たがっているように見えた。
そりゃそうだ。今ならわかる。彼らにとって俺は、自分の家に居場所がないかわいそうな子どもで、彼らの息子の友人だった。
だが第二性が判明した瞬間から、その関係は覆された。
彼らにとって俺は、自分たちの息子を奴隷にするために近づく悪魔のように見えただろう。
そして例の日、運悪く、月懐の両親とも留守にしていて、月懐は家に一人だった。
そんな時にΩがもっとも恐れる事態が起きた。
発情期だ。
薬もなく、朦朧として親や救急車を呼ぶこともできず、月懐はにおいに誘われて家に侵入してきたβを拒むこともできなかった……人間のままでは。
実際に見ていない俺は想像することしかできなかったが、月懐は暴漢から逃れるため、首輪を引きちぎり、狼になって家を逃げ出したのだろう。
放課後に俺が行った時には、家は空き巣が入ったような有り様で、引きちぎられた首輪が落ちていた。そして、その凄惨な現場にはそぐわない甘い残り香が漂っていた。
あの時は何が何だかわからず、とにかく非常事態だからと警察に通報した。警察から連絡を受けて月懐の両親もすぐに帰ってきた。
だけど、その頃にはすべて俺たちの知らないところで終わっていた。
首輪をつけていない月懐は隣町で射殺されていた。
名目は害獣駆除。一連の騒動はニュースにもなったが、月懐を殺した男の発言は、あたかもΩの発情したにおいは、毒ガスだとでも言うかのようだった。
そして月懐の両親は月懐を襲ったβの男から過失傷害罪で起訴され、俺が軽率にも通報した時の捜査が決め手となり、多額の慰謝料を払うことになってしまった。
会わせる顔がない。
まさか、その時はそこまで容赦ない制裁が下されるとは思っていなかった。
俺は所詮、人間で、月懐のことや獣人の現状をまるで理解できていなかった。
βの女は俺の顔を覗きこみ、キスして来た。
それに答えてソファに押し倒す。
女の考えていることは、結局、翌朝を迎えてもわからなかった。
ホテルの窓辺に立って、ごちゃごちゃした街並みを見る。
月懐の両親がそうしたように、俺もこの町を出ていく。
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