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裏山がある学校に通うのは初めてだった。
廊下の窓から外を見ると、校舎からいくらも離れていないところに雑草生い茂る林が広がり、山へ続く斜面になっていて、それほど太くない幹の木々が立ち並んで鬱蒼とした雰囲気を醸し出している。
窓を開ければ濡れたように涼しい風が吹いてくる。その風が緑の濃いにおいを伴って髪をすいていく心地が好きだった。
始業の鐘が鳴っても、教室には戻らずぼうっと外を見ていたが、誰も注意しに来なかった。
元々、家族と住んでいた場所から新幹線で三時間。バスを乗り継いでやって来た田舎の高校は、真面目三割、不登校や登校拒否が二割。残りが不良と言う構図で、第二性云々関係なく、授業に出ない生徒は放置されていた。
αだからああだこうだと言うやつは、ここにはいない。俺におべっかを使うようなやつも。過度に避けるやつも……。
もしも俺が壮代家らしくβだったのなら、月懐は俺を避けることはなかったろう。おばさんたちだって、きっと俺を家に入れてくれた。
月懐とは今でも友だちで、運動も勉強も張り合って、今も楽しく一緒にいられたはずなのに。
雑木林に日の白い光が差し込む。鬱蒼としていた雰囲気が一変した。草木の緑が鮮やかに見える。
そして俺は考えるより先に、窓から外へ飛び出した。校舎裏の苔が生い茂る地面に着地し、山へ続く茂みへ向かって走った。
光が差し込んだ斜面にふわりと現れたのは、狼だった。
狼はこっちを見ていた。かなり離れていたのにはっきり目が合い、俺を誘うように高く跳ね太い尾を振って木々の中に消えた。
あれは野犬などではない。間違いなく、獣人だった。
視界が悪く、葉が生い茂る小枝に邪魔されながらあの狼を探す。
「どこだ……」
呟いた時、我に返りそうになる。この国で野生の獣人なんて、聞いたことがない。月懐のことを考えて見てしまった幻ではないのだろうか。
今ならまだ一人で下山できる。帰るなら今だ。
引き返そうとした時、視界の端で何かが動いた。
ハッとして振り向くと、いた。やっぱり狼……獣人だ。俺を見ると、またすぐに駆け出す。まるで試されている気分だった。
それでも、なぜかそんなことを心地よく思う自分がいる。
また狼の後ろを追いかけた。
今度はしっかり背中が見える。黒い毛並みがきらめき、大きな足でしっかりと地面を蹴り、ぐんぐん進んでいく。すさまじいスピードにも関わらず、寸前で幹や木の根を避けて飛ぶように走る。
俺は見失わないように必死になって追いかけた。
周りの景色が信じられない速さで流れていく。
息が切れて胸が小さくなったように苦しい。それこそ獣のようにハアハアと息をつき、もつれる足を懸命に動かした。
そして急に緑が晴れた。
眼前に大きな川が広がる。
目の前の狼は大きく跳躍すると、翼でもあるかのように距離を伸ばす。そして対岸に着地した。
ここまで来て引き下がる訳にはいかない。
俺も地面を蹴った。
だが、もう膝が笑っていて力が入らなかった。
「げっ」
昼の日差しできらきらする水面が近づいた。
そして川の中に落ちた。
「ぶへ……」
頭から川に入り、鼻に水が入った。慌てて咳き込み、水を吐き出していると、笑い声が降ってきた。
顔を上げると、黒髪を靡かせる青年がいた。
青年は恐ろしく整った顔をしていて、動きやすそうな黒の上下を身につけていた。川原にしゃがみこみ、いかにも愉快そうに笑っている。
俺は顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、急いで立ち上がった。だが、何かで足を滑らせてまた尻餅をつく。
「いってぇ……」
涼やかな目を持つ青年はくくっと笑いを押さえ込み、俺に手を差し伸べてくる。
「苔で滑るんだ。怪我はないか?」
「まあ……」
気恥ずかしさからぶっきらぼうになる。人前でこんなみっともない失敗はしたことがない。
青年が差し出してきた手を握り、立ち上がるのを手伝ってもらう。
彼の手はやけに熱を持っていて、皮膚が硬く、骨張っているのとあいまってごつごつしていた。
αだ。
直感でそう感じた。
川原に引き上げられ、ずぶ濡れの服を絞った。
「わたしは夜一(やいち)だ」
「やいち?」
「夜に一本棒だ。お前は?」
黒毛だからそんな名前なのだろうかと思いながら、俺も名乗った。
枩吏と聞いて、じろじろ俺を見る。
「似合わない名だな。枩とはこれだろう?」
夜一は一本の木に近づき、幹を叩いた。
「松は昔から節操や長寿の象徴とされ、神の宿る木とされる。そこに官吏とつけば、いわば、神官だろう? だが、お前からはそんな力強いものは感じられない」
夜一はきっぱり言い切った。
俺はそんなことかと思い「今時、松は希少だ」と言ってから、夜一が話を聞く態勢になったのを見て続けた。
「それでいて、頑丈。そんな役人になれと言う親の願いが枩吏に込められてる」
そもそもマツリと言う音も政(まつりごと)を思わせる。
話を聞いて、夜一は妙な顔になる。
「それはつまらない名だな」
そう呟いた夜一の姿が月懐と重なり、ぎょっとした。
ただ、名前をつまらないと言われて黙っているのも業腹だった。
「そっちこそ、見たままのつまらない名前じゃないか」
「わたしはいいんだ。気に入っているからな。お前は気に入ってないだろう? 顔にそう書いてあるぞ」
ふふん、と偉そうに胸を張る。
俺は図星をさされ顔を背けた。こんな、親のエゴ丸出しの名前、好きになれるはずもなかった。それに、今となっては親しみを込めて名を呼んでくれるような大切な人はいない。
「なあ」
夜一に顔を覗きこまれた。
突然、近くに現れた顔に驚き、ふらふらと下がる。
そんな俺を見てまた転ぶと思ったのか、夜一がぐっと手首を掴んできた。「放せ」と言って手を振れば「おお、すまん」と手を放す。
「転ぶかと思って」
「そんな何回も転ばねえし……そんなことより、お前、何なんだよ。野良なのか?」
「野良? ああ、まあ。一応な」
首輪をしていないし、布の着物も着ていない。
話でしか聞いたことがなかったが、獣人は毛皮と同じ色の服を自分の意思で作り上げることができるらしい。夜一の簡素な黒い服も、そういうものなのだろう。
「本当は人里には顔を出しちゃならんのだが、わたしは時々、仲間に秘密で村の様子を見に行くんだよ。まあ、普段なら目立たないように人の姿で行くが、今日は狩りの途中だったからな。つい、獣の姿をお前に見られてしまった」
見られてしまった、と困ったように言っているが、ここまで誘ってきたのはこの男の方だ。
ついてきた俺も俺だが、こいつも大概変な男だと思った。
「仲間がいるのか、野良の」
「ああ。わたしを含め、十五頭の群れだ」
「十五……多いな」
この山にそんなに大勢の獣人がいるとは信じられなかった。
「αは、あんただけなのか」
「そうだ。大抵、ひとつの群れにαはひとりになる」
「……あとは、βなのか?」
「そういう群れもあるが、うちにはΩがいる。一頭だけだがな」
獣人のΩ。
当たり前のように月懐の姿がよぎる。
「一緒にいてやらなくていいのか」
「ん?」
「Ωだろ。αが守ってやらなくていいのかって聞いたんだ」
夜一は俺の顔を見て目を細め、何か勘ぐるような顔になる。
「……Ωも自分の身を守るくらいの術は持っているぞ。人間の生き方に食われてしまわなければな」
やはり、何となく俺の考えていたことに気づいたらしく夜一は僅かに目に冷たさを見せた。
「首輪をつけて獣人を管理しようなんて馬鹿げている。薬などで本能を殺すこともな」
「……俺もそう思う」
どうして会ったばかりの他人にこんな話をしているのかわからない。ただ夜一なら、俺のこの、説明しようのない憤りをわかってくれるような気がした。
俺が賛同したことが意外だったのか夜一は「ほお」と興味深そうに顎をさする。
「人間のαにしては面白い返事だ」
「悪いか」
「いいや。だが、あの首輪はお前たちαによる階級の序列を乱さないための代物だろう? 薬も同じだ」
「獣人に人間が劣るとは思ってない」
「ずぶ濡れでよく言えたな」
夜一は、あっはっはっと豪快に笑う。
「っこ、これは、最近、ちゃんと鍛えていなかっただけだ」
「そうか? いや、キツネザルとチンパンジーの差は大きいぞ」
獣人と人間は同じ肉食目の系統だが、確かにサル目で言えばそれくらい遠い分類になる。いや、厳密に言えばもっと遠い。獣人は特殊な進化を遂げた種で、人間より狼に近く、学者によっては人間より遥かに進化した種だとも言われている。
「俺だってちゃんと鍛えりゃ、麓からここまで走って川を飛び越えるくらい――っくしょん!」
俺のくしゃみでまた夜一が笑う。
「あはは、悪かった。乾かしに行こう」
夜一は「乗れ」と言って跳躍し、くるりと宙返りした。着地した時には黒毛の狼の姿になっている。
何となく気は進まないが、情けないことにまだ膝が笑っている。どこかに行くには夜一の背中に乗るしかなさそうだ。
夜一は俺が乗りやすいように体を下げてくれた。黒くて温かい背に跨がると、ぐんっと体を起こす。
「えっ」
「走るぞ」
俺が乗るや否や、人の姿に戻り、さっと駆け出した。背負われた俺はとっさに夜一の首に腕を回してしがみつく。子どもの頃でさえおぶられた記憶なんてないのに。
首に回した腕や、腰にかけた足に感じる骨っぽい夜一の体と、冷えた体に気持ちいい獣のような体温。僅かに首筋からは太陽と汗のにおいがする。
人間の姿なのに夜一の足は速く、下ろしてくれなんて言えるような状態ではなかった。
背負われる振動はなかなかに激しくて口も開けない。
ただ、びゅんびゅんと通りすぎる景色はやけにきれいだった。山の中を通り抜ける風になったような心地よさもあり、目的地に到着するころには夜一の背中も悪くないと思うようになっていた。
「ほら、着いたぞ」
夜一に連れてこられた場所はさっきより山の奥に入った滝壺だった。切り立った五メートルほどの崖から白い水飛沫を上げて水が流れている。
滝から続く川は先程の川へ繋がっているのだろうが、湖のように広く、滝壺の辺り以外の流れは穏やかに見えた。
川原は拓けていて日当たりがよく、大きめの乾いた岩がごろごろしている。
「脱いでその辺に広げておけば乾くぞ」
「ぬ、脱ぐのか? ここで?」
日当たりがいいとは言ってもまだ春先だ。雪はないが、日陰の風は冷たい。濡れた服でもないよりはましと言うものだ。
「脱がないのか?」
「寒いだろ、さすがに」
「狼の腹は温かいぞ」
ああ確かにそうかもしれないと、つい思ってしまったのは、さっき一瞬だけ跨がった夜一の背が温かかったからだ。おぶられてここまで来る時も、寒いと思わなかったのは夜一の体温が高いせいだろう。
俺はびしょ濡れのブレザーを脱いだ。
「お?」
「うさぎの毛みたいに柔らかかったら文句ないんだけどな」
「ふふ。熊の爪で引っ掛かれても平気な自慢の毛皮だ」
どうしてなのか、夜一と一緒にいるのは嫌じゃなかった。αなんて、傲慢で鼻持ちならないやつしかいないと思っていたのに。
山で育つと呑気になるのだろうか。
脱いだ服を広げ、下着一枚になった。風が冷たい。
「それは脱がないのか?」
「裸はさすがに……」
「そうか」
夜一は返事をするなり、狼の姿になりゆっくりと歩き、木陰で横になった。
俺は手で肩や腕をさすり、夜一の元へ近づいた。
こんなこと、変だ。そう我に返りそうになるのを押さえ込み、心地いい夜一との距離感を受け入れた。温かい夜一の毛皮に包まれると、薬でも飲んだかのような眠気に襲われ、顔を擦った。
触り心地は安い毛布みたいなのに落ち着くのが不思議だった。
さすがに初対面の相手、しかも戸籍を持たないような輩の前で寝るのは不用心だ。
「なあ、夜一」
何とか目を覚ましていようと声をかけたが、うんともすんとも返事はない。
「夜一?」
夜一はぴったりまぶたを閉じていた。そしてすぐ、大きな口吻からスピースピーと間抜けな音を出し始める。
「……寝たのか?」
犬を撫でるような気持ちで夜一の耳から首の辺りを撫でた。毛は硬いが、さらさらしていて脂気はなく、獣臭の代わりに太陽のようなにおいがする。
撫でていると黒く艶のある鼻がひくりと動き、大きな耳を背の方にぺたっと倒した。
その悠々とした様子に、月懐の家の近所で飼われていた大型犬が重なる。長毛種で金色の毛に茶色い目をしていた。耳は大きく、頭の形にそうように垂れていて、触るとひんやりしていたのをよく覚えている。
――大人しいから月懐も撫でてみろよ。
――僕は、いいよ。
曖昧に笑って断る月懐を「臆病だな」と笑ったが、ひょっとして、首輪で自由を奪われている犬に何かを感じていたのかもしれない。
犬は、家畜として飼い慣らされた狼だ。
Ωだと判明する前とはいえ、人間の社会に馴染むために首輪をつけて暮らさなければならなかった月懐にとって、飼い犬の暮らしは縮図のように思えたのだろう。一生、行動の一部を制御されて生きなければならないのだと。
俺の考えすぎかもしれないが……。
そんなことをぐるぐる頭の中で繰り返していたせいで、月懐の夢を見た。
秘密基地で遊ぶ夢だった。半分は思い出、もう半分は実際とは違う内容で……二人で狼になり秘密基地に差す木漏れ日の下でじゃれ合って遊ぶ、そんな話だった。
夢の中は楽しくて、俺は満たされていた。 森は緑が輝き、風が澄んでいて、隣にいる月懐は俺にいたずらしながら笑っていて、何もかもが完璧だった。
そして、慌てた夜一に起こされるまで泣いていることには気づかなかった。
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