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 神社の正面に回ると、その忘れられ具合がよくわかる。扉は壊れ、解れたしめ縄から鈴も外れていた。階段も虫に食われたのか、板が落ちている。 「人間が来なくなってからは、わたしの気に入りの場所だったのだが数年前の台風でこの有り様だ。直したくても技術を持たないわたしには、どうすることもできなかった」  杉林に挟まれた石段の下に町が見えた。校舎裏からここまでは登っているなんて感じなかったが、こうして見てみるとずいぶん高いところにある神社だ。人が遠退くのもわかる。 「夜一?」  急に夜一が神社の脇の茂みに入っていく。俺もあとを追いかけた。  最初は蛇がいたらとか変な虫がいたらと、気にしていたが、今はもう全く気にならない。蛇や蛙、虫なんて一番嫌いなくらいだったのに不思議だった。 「急にどうし……おお」  茂みの奥、笹などに埋もれるようにして野苺がたくさん実をつけていた。 「さすがにもう蟻の餌だな」  夜一が腕を組む。時期を過ぎたからか、確かに蟻がわんさか集っていた。 「山桃は?」 「これ」  ちょうど、夜一の視線の高さくらいの木にうずらの卵よりやや大きいくらいの赤い丸い実が重なりあって成っていた。想像していた桃とは大分違う。 「まだ食べない方がいいぞ」  手を伸ばすと夜一に言われた。 「もう少し置かないと酸っぱいからな。青臭いし」 「え? こんなに赤いのに食えないのかよ?」 「食べられないことはない」  夜一がひとつ実をもぎ取り、俺にくれた。自分の分もひとつ取って口に放り込む。俺も真似をした。  そしてすぐ後悔する。  口を手で押さえて、夜一を見上げた。 「ほら、酸っぱいだろう?」  夜一が「ふふ」と笑う。  想像よりはるかに酸っぱかった。それに確かに青臭い。  何とか飲み込んであまりの酸っぱさにぶるっと震え、滲んできた生理的な涙を拭う。 「……不味い」 「もう少ししたら甘くなる。わたしはこれも好きなんだがな」  獣人は人間より味覚が鈍く、香りで味を判断するところがあるらしい。夜一がこれを食べて平気なのはそういうことだろう。 「俺も何か食いたい」 「何かと言われても、こんなの食べないだろう?」  そう言って足元の葉っぱを千切って差し出してくる。 「いや、青虫じゃないんだから」 「これ一応、生食できるぞ」 「そうなのか?」 「酸っぱいけどな」 「酸っぱいのかよ」  もう酸っぱいものはいらない。  夜一が笑って、俺の代わりに葉っぱを食った。そのためらいのない動きで、ひょっとしてと思った。 「お前ってさ、雑草見て食えるか食えないか全部わかったりするのか?」 「もちろんわかるさ。ここに住んでいるからな」  夜一は上を見た。 「わたしたちにとってここは人間で言うところの畑のような場所だ。ただし、雑草は生えない」 「え、なに。どういう意味?」  見渡すかぎり雑草だらけだ。神社の周りだと言うのに全く人の手が入っていない。 「わたしたちにはいらない草や、名前を知らない葉はないんだよ」 「ああ、なるほど……」 「人間と同じ呼び方をしているかはわからないがな」  今、改めて夜一はこの山で生きる獣人なのだと思った。自由に獣の姿になり、狩りをして、草木に囲まれて暮らす。  俺が体験しているのはそういう暮らしのほんの触りだけなのだろう。  夜一と暮らしたい。もっと色々なことを知りたい。  今は物理的に壮代の家と距離を置いているが、卒業すれば家に引き戻されるだろう。どれだけ逃げても、αとはいえ一人の力じゃまず逃げ切れない。壮代家が持つパイプはβの家系とは思えないほどに太く、方々に伸びている。  このまま大人になり月懐を殺した社会で、それを発展させるための歯車にはなりたくなかった。  だが、俺が何をどう考えていても、俺は獣人ではない。戸籍のある人間で、αだ。  獣になることができない様に、俺は夜一とは暮らせない。 「どうした、松風」  名前を呼ばれ、自分がうつ向いていたことに気づく。  顔を上げると夜一と目が合った。本当に整った顔をしている。目は相変わらず涼やかで、強かな印象だが、長く一緒にいるようになってわかったことがある。強かに見えるのは、彼の中に芯が通っているからだ。  だからこそ、俺は怖いと思うに違いない。恐ろしいほど整っている顔と言うのは、内側から溢れてくる自信や清廉さがそうさせている。  それは、俺にはない眩しさだった。  俺はここへ、ただ逃げてきただけだ。 「……夜一」 「ん?」 「話したいことが……」  俺が切り出すと夜一も「ちょうどよかった」と笑う。 「わたしも話したいことがあったからな」  立ち話ではと、茂みを出て神社のまだ大丈夫そうな階に二人で腰かけた。  校舎の屋根が見える辺りで夜一と別れた。 「あの川の向こう岸で待っているからな」  別れ際、夜一はそう言った。  制服はクリーニングに出して、翌日は田舎丸出しの古くさいデザインのジャージで登校。壊滅的な出で立ち。ひそひそ俺を見て話す奴らの気持ちもわかる。だが、動きやすければ別に服装なんてどうでもよかった。  今まで抜いていた朝食を取ることから始め、授業はとりあえず体育だけ出てグランドを走り込み、他の時間は不良の溜まり場になっているウエイトルームに顔を出すことにした。  俺の頭の中は麓から山を駆け上がってあの川を飛び越えることで一杯になっていた。  ウエイトルームの先住者は俺を快く思わなかったらしいが、タバコを喫むだけで悪ぶっているβがどれだけ喚こうと俺には関係ない。  ウエイトルームに入り浸り、足腰中心に負荷をかけて、昼はこれでもかというほど食って、夜は早めに寝る。  翌日に夜一のいる山に挑んだ。  筋肉痛の体で駆け上がり、気合いと根性で川までたどり着くが飛び越えられずに川に落ちる。  そんな俺をどこで見ていたのか、楽しそうに夜一が笑いながら現れて、手を引っ張って起き上がらせてくれた。 「昨日今日で跳べるようになんてならないだろう?」  そもそもが筋肉痛で、初日よりここに到着するまでの時間が遅くなってしまった。それでも跳ばずに戻る、と言う選択肢は俺にはなく、そうと言うのもこの男が別れ際に向こう岸で待っていると言ったせいだった。 「お前だって、ここで俺を待っていたくせに」 「そうだな」  嫌味を言ったはずが、夜一は目を細めて笑った。  俺はつい目をそらす。  ただの笑顔のはずなのに、妙に目を引く。顔が整っていると言う理由以外にも何かある気がするのに、考えてもわからなかった。 「これからは二日空けてから来る」 「二日か……」  どことなく残念そうな夜一の声を聞いて胸が騒ぐ。 「わたしが行ってもいいんだが」 「すれ違いになるだろ。山まで来て凍えて帰れって言うのかよ」 「いいや」  夜一が顔を近づけてきた。  何をするつもりなのかわからず身構えた。  夜一の鼻先が耳をかすり、濡れた首筋に温かい吐息がかかる。 「や、やめろ。くすぐったい」  押し退けようとすると、背中に腕を回され身動きがとれなくなる。強く拘束されたから、と言うよりは、車の前に飛び出した猫みたいな、そう言う緊張が走った。 「君、タバコ吸う?」 「え? なんで」 「一昨日も思ったことだが、少し服が焦げ臭いし、体臭は苦い」 「は……?」  体臭。まさかと思ったが、においを嗅がれているとわかり、さっと顔が火照った。  手で夜一の吐息がかかる首筋を隠したが、獣人相手にそんなことをしても無駄だろう。 「耳、真っ赤だな。ここから汗のにおいがする」 「馬鹿、やめろっ……」  くっと体を抱き寄せられた。耳の裏やうなじの辺りを嗅がれている恥ずかしさに顔から火が出そうになる。  濡れて冷たかったはずの体が火照り、汗がにじむ。夜一の鼻息がくすぐったく、嗅がれていると実感して余計に変な汗が出た。 「は、恥ずかしいから、やめろってば」 「皮脂くらい構わんだろう? それとも、動物の姿ならかまわないか?」 「そう言うことじゃ……あ」  一瞬、夜一が体を離したかと思うと、あっという間に目の前に巨大な黒い狼が現れた。  夜一は俺の周りを一周して、鼻先を擦り付けてくる。首元だけでなく、脇や足先にふんふんと鼻を近づけてしきりににおいを嗅いでいる。これが本当に犬猫なら気にならないが……。 「っひ、馬鹿!」  後ろからくんっと押された。口吻を尻にくっつけてにおいを嗅いだのかもしれない。  つい手を上げ、一発殴ってやろうかと思ったのに、気づけば目の前に人の姿になった夜一がいて、振り上げた拳をどうしたらいいのかわからなくなる。  夜一は俺を見下ろしてにこにこと笑っている。 「松は紅葉しないはずだがな」 「っこの」 「あはは」  やっぱり殴ってやろうと思ったのに、ひらりと拳をかわされた。 「これだけ確かめれば、どこにいるかすぐにわかるな」  うすうす、そんなことだろうとは思っていたが、尻まで嗅がれるなんて屈辱だ。と言うより、思い出したくないほど恥ずかしい。 「よし。そろそろ乾かしに行くか」 「……狼の背がいい」 「そう言うと思った。首の毛を掴むといい」  夜一は頭を振って黒い狼の姿になった。  前、その背中に乗った時はまた人に戻り、抱き抱えられた。 「今度は騙すなよ」  念押しして背中に乗った。  夜一は俺が首の毛を掴むのを待って、走り出した。足で胴を挟み、体を前へ倒して振り落とされないように体を密着させる。  前よりも体に受ける風が少ない。同時に激しく体を振られた。夜一の体温を感じながら、振動で筋肉や骨の動きまで何もかもが伝わってくる。  夜一の息づかいがわかる。  狼として走るのは、こんな感じなのだろうか。  倒れて苔むした巨木を悠々と飛び越える夜一。道のない山中を走るのはまるで自由を謳っているかのようだった。  そして、俺が山へ行かない日は夜一が山を降りてくるようになった。  山裾の雑木林で会い、何をするわけでもなく一緒にいて草笛を吹いたり、野苺を食べたり。川まで行って魚を釣ったりもした。夜一は魚嫌いらしく、好物は兎や鹿らしい。  初めて聞いた時は「げっ」と思ったが、よく考えたら俺も牛や豚を食うんだから何も変じゃない。  山へ行ったら山へ行ったで、あの滝のそばでくっついて昼寝をする。においはもう覚えたはずの夜一が、そうやってくっつくと嗅いでくることがある。やはりタバコが悪いのかと思って止めることにした。  一ヶ月と少し、初夏までそんな日々が続いた。  夜一は気づくと俺を「松風」と呼ぶようになっていた。  六月を迎えた日。高校の午後をいつものごとくサボり、夜一を待つ間、川から離れた林で野苺を探していた。  もう時期を過ぎているからなかなか食べ頃なやつは見つからない。  しゃがんであちこちかき分けていると、足音が聞こえた。 「夜一」  顔を上げた時、ぎょっとした。  知らない男が立っていた。雰囲気から獣人だとわかる。俺と目が合うと素足でこちらに向かってきた。  彼は緩い癖のある茶色い髪をしていて、鼻筋が整った細面で、どこか夜一を彷彿させる。  決定的に違うのは彼が放つ色香だった。  強烈な存在感とでも言えばいいのか、目をそらすことすらできず、ハッハッと呼吸が短く火照る。内側から体が熱を持つ。  誘蛾灯に向かう羽虫のように、俺はふらふらと彼の方に歩み寄る。  手を伸ばせば触れる近さまで来ると、背筋の毛が逆立つほどゾクリとした。  彼は近くで見れば見るほど魅力的な男で、押し倒したくてたまらなくなっていた。  彼はするりと手を伸ばし、俺の手を取った。触れられた瞬間、何かが一気に溢れた。  それは、熱などではなく、記憶だった。俺の中の一番逃げたい記憶。 ――αには、わかりっこない話なんだな。  はっきりと月懐の声が頭に響き、冷や水をかけられたようになって、俺は彼の手を振り払った。  だが、振り払った直後にはすでに離れたことを後悔して手が震えている。放すべきではないと本能が叫んでいた。こんなことは初めてで、恐ろしささえ感じる。  何なんだ、こいつ。  よろよろ数歩下がると、彼は急に狼の姿になり、パッと茂みの奥へ飛び込んで姿を消した。  本当に一体、なんだったのか。  呆気にとられていると、夜一が現れた。 「松風」  いつも通り爽やかに笑う夜一。 「今日は山桃を探しに行かないか」  どこか呑気な雰囲気に負け、さっきまで一緒にいた獣人のことは聞けなかった。  彼はΩだったのだろうか。そうでなければ、ばったり出くわしただけで、あんなに性的に引き付けられるなんてあり得ない。おそらく、発情期が近かったのだろう。  だが、たかが発情期であんなに心引かれるものだろうか。肉欲以上に何か強いものを感じた。  あそこで押し倒していたら、夜一に見られていたに違いない。そんなことになったら、悲惨すぎて死んでも死にきれない。  あのΩは、夜一のΩなのだろうか。  だとしたら、ここへは夜一を探しに来たのかもしれない。俺がいたら邪魔だろう。 「……夜一、今」  話を切り出そうと山桃探索に行こうとしている男を呼んでみたものの、どう尋ねたらいいのかわからなくなった。  急にΩの話をするのも変だが、つがいのことを聞く不作法も憚られる。 「今、どこから来たんだ?」  誤魔化すようにそう尋ねてみると、少しきょとんとしながら「群れだが?」と言った。 「群れから急に抜け出したりして、不審に思われないのか?」 「まあ……つがいがいないうちはあちこち歩き回るものだからな」  夜一は下を向いて、照れたように自分の耳を触った。 「つがいを探しに行くってことか、それ」 「一応な」 「群れに、Ωがいるんじゃなかったのか?」  さっきのあの獣人がそうなのだろう。  問いかけると夜一はパッと顔を上げて不愉快そうに眉を寄せた。 「なんだ、その顔」 「……群れのΩは、わたしの兄だ」 「へ」  背中がひやりとした。  さっきのあの獣人が、夜一の兄。どおりで似ているはずだ。 「え、あ、さ、さっき、会ったぞ」  隠してもにおいでバレる気がした。言われる前に先に言うと、夜一は「見ていたからわかる」とばつが悪そうに言った。 「み、見てたのか?」 「色々、事情があってな」  押し倒さなくてよかった。いや、見られていなくても、押し倒すなんてだめだ。  それにしても不思議なのは、今、思い出しても彼をどうこうしたいと言うような欲が消えていることだった。目の前にいた時は、体が燃えるのではないかと思うほど駆り立てられたのに、今は思い出してみてもむしろ気分が萎えてくる。  そして、脳裏を過る月懐のあの言葉。 「それより、山桃」  夜一が狼の姿になった。俺の制服の裾を噛み、ぐいぐい引っ張る。 「い、今行くからやめろ」  引っ張られて歩き始めると、先導するように人になった夜一が走り出した。それを追いかける。ひと月前よりずっと早く走れるようになってきた。  αのいいところは、やればやっただけの結果が必ず返ってくることだ。  川もあと少しで飛び越えられそうだった。  そしたら、もっと山の奥へ連れていってもらおう。帰ることができないほど奥に。  そうやって、本当に獣になることができたら、どんなに幸せだろうか。 「この辺りだ」  不意に夜一が失速するので追い越しかける。  慌てて俺も足を止めた。たどり着いたのは、塗装がすっかり落ちた古い神社の裏側だった。蜘蛛の巣が屋根から木の枝に向かって伸びている。 「こんなところが……」 「昔はよく人間の子どもが遊びに来ていたらしいが、この十年くらいここは殆ど忘れられている」  神社の正面に回ると、その忘れられ具合がよくわかる。扉は壊れ、解れたしめ縄から鈴も外れていた。階段も虫に食われたのか、板が落ちている。 「人間が来なくなってからは、わたしの気に入りの場所だったのだが数年前の台風でこの有り様だ。直したくても技術を持たないわたしにはどうすることもできなくてな」  杉林に挟まれた石段の下に町が見えた。校舎裏からここまでは登っているなんて感じなかったが、こうして見てみるとずいぶん高いところにある神社だ。人が遠退くのもわかる。 「夜一?」  急に夜一が神社の脇の茂みに入っていく。俺もあとを追いかけた。  最初の頃は蛇がいたらとか変な虫がいたらと、気にしていたが、今はもう全く気にならない。蛇や蛙、虫なんて一番嫌いなくらいだったのに不思議だった。 「急にどうし……おお」  茂みの奥、笹などに埋もれるようにして野苺がたくさん実をつけていた。 「さすがにもう蟻の餌だな」  夜一が腕を組む。時期を過ぎたからか、確かに蟻がわんさか集っていた。 「山桃は?」 「これ」  ちょうど、夜一の視線の高さくらいの木にうずらの卵よりやや大きいくらいの赤い丸い実が重なりあって成っていた。想像していた桃とは大分違う。 「まだ食べない方がいいぞ」  手を伸ばすと夜一に言われた。 「もう少し置かないと酸っぱいからな。青臭いし」 「え? こんなに赤いのに食えないのかよ?」 「食べられないことはない」  夜一がひとつ実をもぎ取り、俺にくれた。自分の分もひとつ取って口に放り込む。俺も真似をした。  そしてすぐ後悔する。  口を手で押さえて、夜一を見上げた。 「ほら、酸っぱいだろう?」  夜一が「ふふ」と笑う。  想像よりはるかに酸っぱかった。それに確かに青臭い。  何とか飲み込んであまりの酸っぱさにぶるっと震え、滲んできた生理的な涙を拭う。 「……不味い」 「もう少ししたら甘くなる。わたしはこれも好きなんだがな」  獣人は人間より味覚が鈍く、香りで味を判断するところがあるらしい。夜一がこれを食べて平気なのはそういうことだろう。 「俺も何か食いたい」  うまそうに山桃を食う夜一が羨ましくてそう訴えると「何かと言われても、こんなの食べないだろう?」と、足元の葉っぱを千切って差し出してくる。 「いや、青虫じゃないんだから」 「これ一応、生食できるぞ」 「そうなのか?」 「酸っぱいけどな」 「酸っぱいのかよ」  もう酸っぱいものはいらない。  夜一が笑って、俺の代わりに葉っぱを食った。そのためらいのない動きで、ひょっとしてと思った。 「お前ってさ、雑草見て食えるか食えないか全部わかったりするのか?」 「もちろんわかるさ。ここに住んでいるからな」  夜一は辺りを見渡した。 「わたしたちにとってここは人間で言うところの畑のような場所だ。ただし、雑草は生えない」 「え、なに。どういう意味?」  見渡すかぎり雑草だらけだ。神社の周りだと言うのに全く人の手が入っていない。 「わたしたちにはいらない草や、名前を知らない葉はないんだよ」 「ああ、なるほど……」  今、改めて夜一はこの山で生きる獣人なのだと思った。自由に獣の姿になり、狩りをして、草木に囲まれて暮らす。  俺が体験しているのはそういう暮らしのほんの触りだけなのだろう。  夜一と暮らしたい。もっと色々なことを知りたい。  だが、今は物理的に壮代の家と距離を置いていられるが、卒業すれば家に引き戻されるだろう。どれだけ逃げても、αとはいえ一人の力じゃまず逃げ切れない。壮代家が持つパイプはβの家系とは思えないほどに太く、方々に伸びている。  このまま大人になり月懐を殺した社会で、それを発展させるための歯車になるなんてごめんだ。  だが、俺が何をどう考えていても、俺は獣人ではない。戸籍のある人間で、αだ。  獣になることができない様に、俺は夜一とは暮らせない。 「どうした、松風」  名前を呼ばれ、自分がうつ向いていたことに気づく。  顔を上げると夜一と目が合った。本当に整った顔をしている。目は相変わらず涼やかで、強かな印象だが、長く一緒にいるようになってわかったことがある。強かに見えるのは、彼の中に芯が通っているからだ。  だからこそ、俺は怖いと思うに違いない。恐ろしいほど整っている顔と言うのは、内側から溢れてくる自信や清廉さがそうさせている。  それは、俺にはない眩しさだった。  俺はここへ、ただ逃げてきただけだ。  夜一といると過去と向き合わずにすむ。楽しくて、楽だった。  だけど、さっき、Ωに会った時にはっきり感じた。俺は月懐を失った事実から逃げているだけなんだと。  月懐を奪った社会の歯車にはならない。  だけど、俺がいるべき場所はここじゃない。 「……夜一」 「ん?」 「話したいことが……」  俺が切り出すと夜一も「ちょうどよかった」と笑う。 「わたしも話したいことがあったからな」  立ち話ではと、茂みを出て神社のまだ大丈夫そうな階に二人で腰かけた。

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