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第1話:その男、変態につき。

「はぁ……」  刑事になって早一年。仕事には慣れたが、疲れというものに対して身体はまだ慣れてくれない。  前日の勤務から午前様で帰宅して、ろくな睡眠もとれないまま早朝五時に呼び出しをくらい、目撃情報があったという容疑者を丸半日探しまわった。その後、やっとの思いで発見し、乱闘の末に取り押さえた犯人はとにもかくにも反抗的で。取り調べも思うように進まず、何度「こいつを殴りたい」と思ったことか。それから山のように書類を書いて犯人を検察庁に引き渡し、諸々の雑務をこなして漸く自宅に戻ってこられた。  もし今、再び呼びだしを食らおうものなら、きっと署に戻る途中で行き倒れることだろう。  それなのに――――。  仕事の疲れを癒すべく場所で、これからさらなる苦難に立ち向かわなければならないなんて。  長谷部隆司は玄関の扉に鍵を差しこむ前にもう一度、一週間前から日課となった溜息を吐く。「よしっ」  しかし、これ以上玄関前で無駄な時間を過ごしていてもしかたがない。隆司は憂鬱な気分を眉間の皺に変えながら覚悟を決め、鍵を開けて扉を開く。  次の瞬間だった。 「隆司さぁーん、おっかえりなさぁい!」  部屋の中から聞こえたドタドタという足音と、妙に意気揚々とした声に、隆司は半分まで開けた扉を閉め直そうとする。だが、その前に内側から全体重で扉を押され、締めることはおろか、勢いよく開いた扉で隆司は顔面を強打しそうになった。 「うわっ」  しかしすんでの所で飛び退き、隆司は目前に迫る扉をかわす。今日ばかりは、警察官として身体の鍛練をしておいて良かったとしみじみ思った。 「お前、あ――――」  危ないだろ。そう怒鳴ろうとするも、隆司は言葉を止めた。  これはどういうことだ。  文句を言うべき相手がいなくなった。  今し方、部屋の中から弾丸のごとく飛び出してきた男、徳永湊は一体どこに行ったのだ。視線を巡らせて探していると、脇腹の辺りで何かがモゾモゾと動いた。 「ふふっ、隆司さんの香り。煙草と汗が混ざった男の香りですね」 「お前、いつの間に……」  隆司の脇腹に抱きつき、スーツに顔を埋めている湊を見つけて頬を引きつらせる。  この場合、湊の吸着力に呆れるべきか、それとも警察官のくせに簡単に脇を取られたことを悔やむべきか。頭を悩ませながら、隆司は玄関の中へと足を進める。  勿論、湊を引きずったまま。 「おい、いい加減離れろ」 「んー、もうちょっと」 「あと五秒以内に離れないと、セクハラで訴えるからな」 「…………ぶう。分かりました」  ややドスの利いた声で言うと、脇腹にひっついていた湊が漸く離れる。 「改めて、お帰りなさい。隆司さん」 「……改めてとか言う前に、部屋の外でああいうことするのはやめろ。階の住人に見られたらどうするんだ」 「そしたら隆司さんの妻です、こんにちはって挨拶します」  その場面を頭で想像しているのか、湊はふわりと綺麗に微笑むと、服の上に着けていた薄紫色のエプロンの裾を指先で摘まみ、優雅に挨拶をして見せた。  サラリと風に揺れる栗色の髪に、涼しげな瞳。まるで男とは思えないほど鮮やかな赤色の唇は、白い肌の中でも特に際立って見えるというのに、他者に与える印象は柔らかい。そんな見目美しい男の会釈姿は、認めたくはないが確かに絵になった。  ただし湊の場合は、言動で全てを台無しにしているが。 「偽りの情報を流して、他人の評価を落とすのは立派な名誉毀損だ」 「名誉毀損ですね、覚えておきます。で、それよりも、ちょうど良かった。ご飯、今できたところなんですよ。先にご飯にしますか? それともお風呂? ……あ、それともぉ……その前に、僕を食べちゃいます?」  靴を下駄箱にいれる隆司の横で、思いきり色を含んだ甘い言葉をささやきながら、湊がエプロンの腰紐の結び目を解く。その姿を視界に入れた途端、疲れが三割増した。 「悪いが、俺に人を食う趣味はない。あと、お前一体いくつだ。そのネタ、古すぎて今時お笑いのコントでも見ないぞ」  エプロンを脱いだ後、今にもズボンに手を伸ばしそうな湊に冷たい視線を送る。  何故、毎晩毎晩疲れて帰ってきては、男にこんな言葉をかけられなければならないのだ。  確かに目の前の男――――隆司の同居人である徳永湊は、魅力的な人間だ。綺麗な顔立ちに加え、雄々しさを一切感じさせない柔らかな曲線を描く身体のラインと、女性と比べても引けをとらないぐらい引き締まった腰からは、同性の意識をも取りこむ色気が漂ってくる。恐らく、少しでもその気のある人間は、その色香に酔ってしまうことだろう。  だが、それも隆司にとっては、無駄な色気にしか映らない。 「まだピッチピチの二十四歳ですよ。所謂食べ頃ってやつです。どうですか? 隆司さんがその気になれるって言うのなら、今すぐココで、でもいいんですよ。玄関プレイとか、お隣さんがこないかヒヤヒヤしながらするの楽しそうですしね。フフッ、堅い壁と隆司さんの逞しい身体に挟まれてなんて、考えただけでもゾクゾクする」  頭一つ分下の位置から見上げながら、到底頷くことなどできない妄想を並べ、挙げ句の果て全身をクネクネとくねらせる湊の姿に、引きつらせた頬の痙攣が止まらなくなった。 「お前、人の発言を卑猥な妄想に繋げるのはよせと、いつも言ってるだろ。そろそろやめないと本当に肖像権の侵害で訴えるぞ」 「セクハラに名誉毀損に肖像権侵害。うわっ、今日だけで僕、三つも罪を犯しちゃいましたね。んーでも、それが全部隆司さんに関わることなら本望かも」 「…………勝手に言ってろ」  もう付き合っていられない、と隆司は湊を置いてさっさとリビングへ向かう。  ああ、頭が痛い。  リビングへ向かう道中に覚えた軽い頭痛は、溜息が癖になった頃から増えた追加症状だ。原因は、湊の奔放な性格に慣れないせい。恐らく、この頭痛も溜息同様、数日後には慢性化するだろう。しかし、だからといって今すぐ湊をこの部屋から追いだすことはできない。  それは、二人の出会いが大きく関係していた。  今まさに隆司の背を親鴨の後を追う子鴨のごとく追いかけ、振りかえれば綺麗な笑みを向けてくる湊は、一週間前、それまで付き合っていた恋人から暴力を振るわれていたところを帰宅途中の隆司によって助け出された被害者だ。  あの日、人通りのなくなった公園で尋常ではない男の怒声とともに殴られている湊を発見した隆司は、慌てて二人の間へと入った。  相手の男は最初、隆司のことをお節介な人間だと思ったらしい。やけに高圧的に迫ってきたが、隆司が警察官だと名乗るとすぐに大人しくなって、事情聴取にも応じた。その後、元恋人が反省の態度を見せたことと、湊が大事にしたくないと望んだため、一件は厳重注意で終えた――――というのが事件の顛末。  そう、そこまでは普段となんら変わらない、職務の一環だった。  しかし、問題はその後に起こった。  最悪なことに、その一件で隆司は湊に一目惚されてしまったのだ。  相手の男が姿を消した途端、「貴方は、僕の王子様です!」と、目を輝かせながら飛びついてきた湊は、図々しくもそのまま隆司の部屋に転がりこんできた。出ていけと言っても、「自分は今、家出中のうえ、貴重品以外全て相手の男の部屋に置いてきてしまったから、帰る場所がない」と良心に訴える始末。  仕方なくその晩は泊めてやったが、翌日帰宅すると、湊は当たり前のように夕食を作って待っていた。 『料理は前の恋人のところで毎日作っていたから、自信があるんです。あ、ちなみに掃除だって、洗濯だって一通りできます。ここに僕を置いておくと、色々便利ですよ』  なんて、求めてもいない言葉を並べながら冷蔵庫に入っていたもので作ったという親子丼を差し出された時は、思わず乾いた笑いが零れたぐらいだ。  その後、せっかく作ったものを無駄にはできないと親子丼だけはいただいたが、勿論隆司は湊に自宅へ帰るよう説得した。しかし、「同性愛者であることが原因で絶縁されているから、実家には帰れない」だの、「追いだされたら路頭に迷うか、元恋人の下に戻るしかない」だのと泣きつかれ、結局、新しい部屋を借りる資金が貯まるまでという条件のもと、居候の許可を出したのだ。  家なし、文なしの人間を追いだした末、あの暴力男に捕まって傷害ではすまない事件になったら、自分は絶対に後悔する。一瞬でも、そんな風に考えてしまったのが運の尽きだろう。  せっかく刑事課への異動を機に独身寮から出て、同僚の目が届かないマンションに引っ越したばかりだというのに、男と同居だなんて不本意極まりない。 「ん、もう、軽い冗談じゃないですか。怒らないでくださいって。僕の大好きな凛々しくて格好良い顔が、台無しですよ。――――あっ、ご飯よそっちゃってよかったですか?」  リビングに入った時点で隆司から離れ、キッチンへと向かった湊がクスクスと笑いながら謝ってくる。 「お前の妄想は、本気と冗談の境目がないから厄介なんだよ。――――ああ、飯はすぐに食べるから、用意頼む」  寝室に入り、脱いだスーツをハンガーにかけながら返事をかえす。その時、ふと開いたクローゼットに備えつけられた鏡が目に入った。  覗きこむと、眼光鋭い双眸と目が合う。  刑事になってからは有効活用ができるようになったが、子供の頃から感情が表に出にくい顔は、いつも怒っているのではないかと何度も勘違いされた。更にそこへ年を重ねるごとに伸びていく身長が加わると、隆司の印象は余計に威圧的なものになった。  この容姿のせいで素行の悪い連中に絡まれたり、子供に泣かれたりした経験は両手足の指を合わせても足りないぐらい。そんな男を捕まえて格好いいだなんて、湊の目はおかしいとしか思えない。  まさか、元恋人の部屋に眼鏡を忘れてきたのだろうか。  湊の近眼説を疑いながら着替えをすませ、隆司はダイニングへと向かった。

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