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第2話:湊のトラウマ

 手を洗って席についた頃には、揚げたての豚カツが乗せられたカレーと、色とりどりの野菜が盛られたサラダが用意されていた。  そういえば玄関でのドタバタ騒ぎに隠れてしまっていたが、部屋に入った時、食欲を刺激する芳潤なスパイスの香りが部屋全体に広がっていたのを思いだす。 「カツカレーか。美味そうだな」 「現場の刑事って、体力が資本なんですよね? だから野菜ばかりじゃ元気でないと思って」 「よく知ってるな、そんなこと」 「テレビでやってる刑事ドラマを見て、勉強しました」  エプロンを外し、机を挟んだ真向かいに座った湊が、目を輝かせながらさっき見ていたというドラマの話をする。逃げた犯人を取り押さえる様が格好よかっただの、取調室で犯人を追いつめる姿に痺れただの、刑事ドラマではどこでも見られる場面を並べる湊に、隆司は思わず笑いを零した。 「別に否定するつもりはないが、あまりドラマばっかり見てると、実際の刑事との差が分かった時に落胆するぞ」 「そうですか? 僕、ついこの間、実際の刑事さんの仕事を目の当たりにしましたけど、格好よさは変わりませんでしたよ。もう僕、このまま抱かれてもいいって、足開きかけましたし」 「あの公園でのことはたまたま事がいいように進んだだけで普段はもっと泥臭いし、面倒な手続きをしなきゃ動けない堅苦しい仕事ばかりだ。だから、あまり刑事に夢を抱かないほうがいい。あと、ついでにそこから、いかがわしい妄想を抱くな。食欲が落ちる」  今度は先手を打って、湊の言葉を止める。このまま話を進めれば、確実に今より酷い妄想話に展開するからだ。 「むぅ……隆司さん、この頃意地悪になってきましたね」 「お前の扱いが、少しずつ分かってきただけだ。ほら、もうそろそろ話終わらせて、飯食うぞ」  湊が何か言ってくる前に「いただきます」と手を合わせ、スプーンをとる。すると湊は、隆司が一口目を口の中に入れるのをじっと見つめてから、初めて手を合わせた。 「……別に、俺が食べはじめるの、待たなくてもいいのに」 「あ、ごめんなさい。実家にいた頃の癖がなかなか抜けなくて……」  二人で食事をする際、湊は必ず隆司が食べはじめるのを見届けてから食事に手をつける。それは湊が実家で『家主よりも先に、食事に手をつけてはならない』と、厳しく躾けられていたからだそうだ。  初めてその話を聞いた時、つい「お前、まさか、お坊ちゃまか!」と聞いたら、「はい僕、お坊ちゃまでした」とケラケラ笑いながらの返答がかえってきた。  聞くところによると、湊の実家はかなりの資産家らしい。  祖父の代から経営する会社が全国に何十社とあって、社員も数千人を超えるという。家は噴水付きの大豪邸で、兄の趣味である外車が、駐車場に五台以上あるという。 だからなのだろうか、湊はその言動から窺えないほど行儀がいい。テーブルマナーはもとより、食べ方も上品で隆司とは全く違う。  それはカレーの食べ方一つでも違っていて、男ならスプーンと皿をそれぞれの手で持ち、豪快にかきこむところだが、湊は置いた皿からカレーをすくい、手を添えながら口へと運ぶ。 途中で水を飲む時も、一度スプーンを置いてからコップに手を伸ばす。そしてゆっくり時間をかけて食べるという、見ていてじれったくなるような食べ方をするのだ。 「味、どうですか?」 「ん? ああ、美味いよ」 「よかった! 今日はこだわってルーから作ってみたんです。だから口に合わなかったらどうしようって心配で」 「ルーから? まぁ、確かに市販のものとは少し味が違うとは思ったが……」  カレーなど、レトルトのものしか食べたことがない隆司には、元から作るなんて未知の世界の話。これには、さすがに驚きを隠せなかった。 「フフッ。未来の旦那様の胃袋を掴むためです。きっと、これを食べ終わった頃には、僕のことお嫁さんにしたくなりますよ」  隆司から味の保証を得た湊が、嬉しそうに笑う。その笑顔は一瞬、返す文句を喉の奥で止めてしまうほど綺麗なものだった。 「……俺はお前の未来の旦那でもなければ、嫁にもらう気もない。バカなこと言ってないで、さっさと食べろ」  しかし、ほんのわずかでも見入ってしまったことを悟られたくなかった隆司は、『今のは疲れからくる幻覚作用だ』と意識を彼方へ追いやり、目を逸らす。けれど逸らす瞬間、それまで気づかなかった湊の服の違和感に目がとまった。 「おい、また俺のシャツ着てるのか?」   細身で肩幅が女性より少し広いだけの湊は、男性用の普通サイズですら肩の位置がずれ、服が余ってしまう。そんな小柄な湊が今着ている隆司のシャツは、肩の縫い目が大きくずれ落ち、第一ボタンまで開けただけの胸元も不自然に大きくはだけていた。  開いた胸元から、白く艶やかな肌が覗いている。 「はい、お借りしてます。でも、ご心配なく。ちゃんと使ったら、洗ってクローゼットに返しておきますから」 「そういう意味で言ったんじゃない。まだ自分用のシャツを用意してないのかっていう意味だ。金が足りないなら、渡すから買ってこいよ」  溜息を吐く隆司の眉間の距離が、言葉とともに狭くなる。  ただでさえ色気の大安売りをしている状態なのに、これ以上肌の露出が高くなる服を着て外にでたら、良からぬ輩に目をつけられるではないか。   宿を貸している人間としては、変な事件に巻きこまれてほしくない。だというのに、根からのお坊ちゃま体質の湊は警戒心や危機管理がまるでなく、こうしてつけいれられる隙を自ら作ってくれる。  それが気になって身体のサイズにあった服を買えと言うのだが、湊は首を縦に振らない。先日、さすがに下着とスラックスだけはサイズが合わないとみっともないと言って頷かせたが、シャツはまだ納得していないらしい。 「この一週間で、たくさんお金を貸してもらってるのに、シャツのお金まで借りられません。バイトのお給料もらったら買いに行きますから、それまで待ってください」 「その給料だって、来月にならないと入らないんだろ?」  湊は居候をはじめてすぐに、アルバイト先を見つけてきた。隆司の部屋の近くにある、飲食店の厨房だそうだ。それは大いに喜ばしいことだが昨今のバイトは前借りなんてできないため、湊が給料を手にするのは最低でも一ヶ月先だ。 「ええ。ただ、来月のお給料は買ってもらった服の返金に回しますから、シャツを買うのは再来月になると思いますけど」 「再来月……」  返ってきた言葉に、隆司の頭はまた頭痛を訴えた。自分はこれから二ヶ月も、しなくてもいい懸念を抱き続けなければならないのか。 「別に遊びに使ってるわけじゃないんだし、最低限の必要経費なんだから金は返さなくてもいい。それよりもそんな格好で外歩いて、変な男に引っかかったらどうするんだ」  まるで、年頃の娘を心配する父親のようだ。複雑な気分になりながら、湊に注意を渡す。 「その点は、前回の失敗を踏まえて気をつけてます。それに今は隆司さん一筋ですから、声をかけられても絶対についていかないので安心して下さい。――――それと、借りたお金は、必ず全額返します。このまま頂くようなことは、絶対にしませんから」  その点だけは譲れないと、湊は顔と強い言葉で主張する。  はじまった。湊がこれを言い出したら何がなんでも後に引くことはない。  目の前の男は顔に似合わずとにかく頑固で、自分のものは自分が稼いだお金で買うという信念を曲げないのだ。  今回のように一時的に借りることがあっても、必ず一円単位まで記録につけて完済しようとする。お坊ちゃまのわりにしっかりとした金銭感覚を持っていることは褒められることだが、だからといって身の危険を後回しにするところは、まだまだだと言ってやりたい。  が、彼はきっとどんな理由で説得しても、隆司から余分な金を受けとることはしないだろう。隆司がそう言い切ることができるのは、数日前に湊から実家で暮らしていた時の話を聞いたからだ。   裕福な家庭に生まれた湊は学生時代、子に甘い親から「学生のうちは働かなくてもいい」と余るほどの小遣いを渡されていたため、一度もバイトをしたことがなかったそうだ。大学を卒業した後も、そのまま父の会社に入社した湊は、一日数時間の雑用で他の正社員と同等の賃金をもらうという典型的なお坊ちゃん生活を送っていたという。  表面だけは社会人で、中身は子供のまま。  にも関わらず自分を一人前だと思いこんだ湊は、認めてもらえるだろうと算段をつけて家族に自らの性癖を打ち明けた。しかし、当然そんな告白を受け入れられるはずもなく、結果、湊は家を出なければならなくなったらしい。  湊は、家族に認められなかった原因を『自立していなかった自分が悪い』と考え、その時に自分の力だけで生きていこうと誓ったのだそうだ。例え何年かかってもいいから一人前の社会人になって、もう一度、家族の前に立つと。  そう語った湊の目には、驚いて息をのむほど強い意思がこめられていた。恐らく、湊の決意は生半可なものではない。だからこそ、隆司は強く言えないのだ。 「……そういうところだけは、評価できるんだがな」 「え? 何? 今、僕のこと恋人にしてくれるって言いました?」  つい零した呟きに、湊がお得意の反応をかえす。 「言ってない。お前、カレーのルー作る前に一度耳掃除してこい」  隆司はあからさまに双眸を細め、頬を大きく引きつらせた。  せっかくほんの一握りほど見直してやったというのに、これでは台無しだ。  隆司の返答に対して頬をぷっくりと脹らませる湊を完全に無視して、最後の一口を口の中へと放りこむ。それからすぐにごちそうさまと手を合わせて席を立つと、皿を持ってキッチンへと向かった。 「あ、食器はシンクに置いておいてください。食べ終わったら一緒に洗っちゃいますから」 「これぐらいなら、洗っとくぞ」 「いいんですよ。僕は居候させてもらってる身なんだし、それに今朝は早くから出たから疲れてるでしょう? それ置いて、先にお風呂入っちゃってください」  確かに早朝五時から酷使させている身体は、そろそろ休息をとってくれと訴えている。こんな時に、食事の準備や片づけや風呂の準備ができているのは正直助かる、というのが本音だ。 「そうか、悪いな」  せめて皿洗いがしやすいよう、カレーがこびりついた皿に水を張りながら、隆司は湊の予定を聞く。 「そういえば明日もバイトか?」 「ええ、そうです」 「バイトはじめてから今日まで、ずっと休みなしじゃないか。最初から飛ばしたら疲れるんじゃないか?」 「まだ六日目ですし、大丈夫ですよ。それに僕、一日も早く正社員になりたいから、店長には出られる日は毎日でも働かせてくださいって言ってあるんです」 「頑張るのはいいが、体力と相談しながらにしておけよ。倒れて長く休むことになったら意味がないからな。あと、バイトはじめる時にも注意したが、帰りが遅くなる時は一人になる道を絶対に避けること。いくら俺が注意したからと言って、完全に安心だというわけじゃないからな」  湊に暴力を振るっていた相手の名前も住所も分かっているから、いざという時は警察官として動くことはできる。だが、そうだとしても十二分の用心は必要だ。 「はーい。了解しました。フフッ」 「何がおかしい?」 「いいえ、おかしくなんてありませんよ。隆司さんが心配してくれたって思ったら、嬉しくなったんです!」  漸く食べ終わった湊が、皿を持ってこちらに歩いてくる。その皿をシンクに置いた途端、突然湊が飛びついてきた。 「隆司さんの、そういうところ大好きです!」 「おい、こら。抱きつくな」  隆司の腰に絡みつくように腕を回す湊を剥がそうとするが、なかなか頑固に離れようとしない。 「この胸の中に溢れる気持ちは、もう言葉だけじゃ伝えきれません!」 「言葉だけでも十分うるさいくせに、何言ってんだよ。だいたいな、お前は思ったことを言動に出しすぎだ。そんなに口にばっかりだしてると、逆に信憑性を疑われるぞ」  強い想いほど、簡単に言葉にはしないで胸に秘めておくべきだと考える隆司にとって、気持ちを包み隠さず曝ける湊は奇異な存在にしか見えない。  しかし呆れ顔を見せる隆司に対して、こればかりは黙っていられないとばかりに、湊から反論がかえってきた。 「ん、もう、隆司さんは分かってませんね。こういう気持ちは、口や態度に出さないと相手に伝わらないんですよ。僕がどれだけ隆司さんのことを愛してるか、こうでもしないと分かってもらえないじゃないですか」  だから僕は、こうやって愛を全身で表現するんです。そう言って湊は腰に巻きつかせる腕の力を強める。 「俺の目には、お前がとてつもなく軽い人間にしか見えないがな」 「僕、軽そうに見えます? んー………そっか! なら上に乗ってもオッケーってことですよね。僕、騎乗位は未経験ですけど、隆司さんのためなら頑張りますよ」 「また、人の言葉で勝手な妄想して。お前、いい加減に――――」 「隆司さん、だーいすき!」 「人の話を聞けっ」  言うことを聞かない湊に対して、ほんのわずかに苛立ちを覚えた隆司が、軽く諫めるつもりでゆっくりと左手を挙げる。  しかし、挙がった左手がまさに空を切ろうといた瞬間。 「い、やっ……!」  突然、湊はそれまで浮かべていた笑顔を一切消し去り、隆司から逃げるようにその場に蹲った。 「湊……?」  唐突過ぎる事態に、隆司は固まることしかできない。  自分はただ湊に注意するため、頭を軽く叩こうとしただけなのに。隆司の足下で蹲り、両腕で頭を覆い隠しながら全身を震わす湊の姿に、隆司は首を傾げる。 「おい、どうし……」 「ごめんなさい、ごめんなさ……」  話しかけても聞こえないのか、湊はただ謝罪を繰りかえすだけ。あまりにも身体を大きく震わせているものだから、容易に触れることもできない。  どう考えても普通ではない状態に、頭が混乱を覚えはじめる。その時、ふと湊の口から蚊の鳴くような願いが零れた。 「……願……叩…………ないで……」 「あっ……」  聞き逃しそうなぐらい小さな声で紡がれた言葉が耳に届くとほぼ同時に、一週間前の記憶が蘇る。  瞬時に、隆司の中に大きな後悔が生まれた。 「……っ! 悪いっ! お前が暴力駄目なこと、すっかり忘れてた」  湊は恋人から受けた暴力のせいで、心に大きな傷を抱えている。  一年前、家を飛びだした後、街で声をかけられたことで出会った二人の関係は、当初、絵に描いたような甘いものだったらしい。しかし、一緒に暮らして数ヶ月後、湊が自立のために働きたいと相談した日から、恋人の態度は変わった。  元来、嫉妬深い面があった恋人は湊に働くことを禁じ、それでも働きたいと言うと、今度は湊に軟禁生活を強いた。暴力は湊が恋人の下から出ていく覚悟で別れを切りだした時から始まったと、聴取の時に話していたことを隆司は思い出す。  そんな過去があるからだろうか、普段は明るく、何事もなかったように振る舞ってはいる湊だが、暴力に関することになると、尋常ではない反応を示すのだ。つい先日も、家庭内暴力による事件の報道をテレビで見て、真っ青な顔をして震えていた。 「本当に、すまない……」  暴力を受けた人間が後に心的外傷を発症させることは、男女の関係でもよくある話。少し考えれば分かることなのに、気づいてやることができなかった。  ゆっくりと膝を着き、壊れものに触れるように湊の背に触れる。触った瞬間だけ身体が強張ったが、柔らかく撫でてやると次第に緊張が和らいだ。 「ごめ……さい……僕、大丈……」  謝る隆司に対して、湊は身体を震わせながらも大丈夫だと言う。それが隆司に心配をかけまいとする湊の気遣いなのだと分かると、余計に心苦しくなった。 「お前は少しも悪くない。だから無理するな」  背中を撫でていた手を頭に移動させ、髪の毛を柔らかく混ぜてやる。すると、まだ微かに震えながらも湊がこちらに顔を向けた。  隆司を見つめる湊の顔に、拒絶の色は見えない。ならば、もう普通に触れても大丈夫だろう。確信した隆司は子猫のように小さくなった湊の身体を、優しく抱きしめた。 「隆司……さん……?」 「ったく、普段まるで遠慮なしの癖に、こんな時だけ遠慮して……変な奴だな」 「すみません……」 「謝るなよ。今回は俺が悪かったんだから、素直に甘えておけ」  片膝を着いた状態から完全に床の上へと腰を降ろし、湊の腕を優しく引く。 「ほら、俺の足の上に座っていいから。そのまま寄りかかれ」  湊は引かれるがまま隆司の膝に腰をおろし、横向きの状態で寄りかかる。母親が幼い子供をあやす姿勢に似た状況に、気恥ずかしさを感じたが、今は湊を落ち着かせることが最優先。  隆司はそう思いながら、湊の身体を抱きしめ続けた。

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