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第7話:二人と一人の溝

 目の前には隆司と湊が二人で用意した料理と、克也が買ってきた酒のつまみが豊かに並んでいた。  どうやら克也も湊の料理を気に入ったようで、先程からよく箸が動いている。追いこまれると食が細くなる克也でも、湊の料理ならきっと食べられるはず。そう踏んだ予測は見事に当たり、隆司は胸中で握った拳を天高く掲げた。   「そっか、湊君も大変だったんだね。でも偉いなぁ、自立するために親元を飛び出すなんて、誰でもできることじゃないよ」  コップに注いだビールに口をつけながら、克也がうんうんと頷く。 「格好良く言えばそうなりますけど、実際は自分の我儘を通しただけの身勝手者ですよ」  箸を動かす克也の正面で、湊が照れたように笑う。  湊の事情に関しては食事の用意をしていた時に『湊が同性愛者だということだけを隠して、あとは話そう』と、二人で示し合わせた。  本来なら隠さずに告げたいはずだが、そうすると隆司に迷惑がかかるから嫌だと、湊自身が拒んだからだ。 「まぁ、その身勝手で隆司さんには凄く面倒をかけさせちゃって、申し訳ないんですけど」  色鮮やかな野菜が混ざったポテトサラダを取り分けながら、湊が整った眉を八の字に垂らす。その言葉に、隆司は目を見開いた。 「お前……一応、面倒かけてるって自覚はあったんだな」 「酷い。僕だって常識ぐらい備えてますよ」 「常識が備わっている人間は、人の部屋に強引に転がりこまないけどな」  鋭く突っこんでやると、湊がむぅっと唇を尖らせた。そんな二人のやりとりを見ていた克也が、クスクスと笑う。 「いいじゃない、僕だって一時期隆司の部屋に転がりこんだことあるんだし」 「え、克也さんが?」  いきなり持ちだした過去の話に、湊が声をあげて驚く。 「うん。うちは医者の家系でね、大学受験の時、親に医学部以外は認めないって言われたんだ。でも僕はどうしても警察官僚になりたかったから、反発して家出したんだよ」  あれは高校三年生の一月。確かセンター試験直前のことだった。  受験ということで入所していた養護施設の施設長の計らいで離れの部屋を一人で使わせて貰っていた隆司のもとへ、突然克也が「家出してきたから、泊めて」と言って転がりこんできたのだ。  制服と参考書、そして小学生の頃からいざという時のために溜めていたという貯金を持って。 「そ、それで?」  家出という部分で共感したのだろう。湊が息を呑みながら話の続きを待つ。 「そのまま受験日まで帰らず居座って、入試テスト受けたんだ。で、後日、T大文一の合格通知叩きつけて、『認めてくれないなら、大学に行かずに就職してやる』って脅したら、さすがに認めてくれたよ」  T大か、高卒で就職か。どちらかにしか進まないと言われたら、誰だって大学を選ぶだろう。克也の親は、そこまでの決意と結果を見せた息子にとうとう折れたのだ。 「す、ごい……。じ、じゃあ、試験の間はずっと隆司さんの部屋から帰らずに……?」 「そうだよ。確か二ヶ月ぐらいったかな。六畳一間の暖房もない部屋に居候させてもらってたんだ」  克也が当時の隆司の部屋を思い出しながら、しみじみと語る。その言葉にやや棘を感じるのは、気のせいだろうか。 「暖房もない家で悪かったな。頼れるのは俺しかいないって泣きついてきたくせに、随分な言い方してくれる」 「ハハッ。ごめんごめん。でも、おかげでちゃんと集中できたし、無事に合格もできたから、隆司にはすごく感謝してるんだよ」  隆司がいなかったら希望の進路にも進めなかった。克也は少し照れくさそうに、感謝の言葉を綴る。 「でも懐かしいなぁ。あの時は、二人で肩寄せ合って温めあいながら頑張ったよね。それに、毎日が修学旅行みたいで楽しかったし」  一日中親友と一緒にいて、勿論勉強が目的だが、夜は毎晩「うちの担任が先週お見合いした」だの「クラスの奴が彼女をつくった」だのと高校生らしい話をした。  どれも他愛もない話だったが、飽きることは決してなかったのを今でも覚えている。 「まぁ……な。毎日一枚しかない布団の取り合いしたのも、今じゃいい思い出だ」 「でしょう。だから、きっと湊君との生活も、何年後かには酒を飲みながら話し合ってるだろうと思うよ」 「何年後かにねぇ……」  例えば五年後の未来を想像してみる。多分、その頃には湊だって正社員になっているだろうことは予想できるが、その他は何も思い浮かばない。  その頃も、二人は同じ屋根の下で暮らしているのだろうか。 「ま、それは将来の楽しみにとっておくとして。でもよかったよね、隆司。湊君がここにきてくれて。湊君はいい子だし、隆司のために家のこと全部やってくれてるんでしょ? この年でここまでやってくれる子なんて、そうそういないよ」  どうやら湊に対してすっかり好感を抱いてしまった克也が、兄のように柔らかな表情で見つめる。すると湊は、照れた様子ではい、と頷いた。  いや、何故そこで湊が顔を赤くするのだ。突っこもうか悩んでいると、何を思ったのか克也が唐突に隆司の昔話を持ちだした。 「隆司もこれまで苦労してきたから、湊君の気持ちも分かるだろ? だからちゃんと支えてあげるんだよ」 「隆司さんが苦労を?」  酒は人を饒舌にする。その言葉を表すように次から次へと昔話を晒していく克也に、湊は鋭く反応し、食いついた。湊が隆司に恋をしていることを知らない克也は、身を乗りだす湊に、よくぞ聞いてくれと言わんばかりに語りだす。 「うん。隆司は幼い頃に両親を事故で亡くしててね、警察官になるまでずっと苦労してきたんだよ。必死にアルバイトして大学まで出て……。学生時代は本当に頑張ってたよね」  懐かしそうに語る克也の話を聞いて、湊がこちらに視線を向けてくる。隆司は、つまみとして用意した枝豆を手に取りながら当時のことを呟いた。 「別に働くことは嫌じゃなかったし、大学は授業料免除してもらってたから、そう苦労はしてないぞ」 「授業料免除っ? それって隆司さんが、ものすごく頭がよかったってことですよね?」  大学を出ている湊は、大学の授業料免除制度のことを知っているらしい。大学には高校時代の成績と、大学入試時の成績で授業料を免除してくれる制度がある。親のいない隆司は少しでも生活を楽にして、その分勉強に時間を使うため、授業料免除制度を利用していたのだ。 「隆司はできる男だよ。昇進試験だって一発合格だったし、この年で刑事課に配属されるぐらいだからね」  驚いている湊の前で、何故か克也が自分のことのように誇らしく語る。けれど、隆司は素直に喜ばない。それには理由があった。 「国家公務員一種合格して、なおかつ警察庁にあがったキャリア様に褒められても、あまり嬉しくないんだがな」  克也の言葉に嫌味がこめられていないのは、百も承知だ。だから隆司の返答にも毒はない。 何故ならこれは、二人の中で定番となったやりとりの一つ。簡単に言ってしまえば酔っ払いお得意のかけあいだからだ。 「それは隆司が『自分は捜査一課の刑事になりたい』って言って試験受けなかったからでしょう? 試験受けていれば、隆司だって合格してたはずだよ。隆司にはそれだけの能力があるんだから、さっさと警部補の試験も合格して、上にあがってきなよ」 「あまりプレッシャーかけるな。試験は克也が考えてるほど、易しいものじゃないんだぞ」  まるで明日にでも昇進しろと言わんばかりの克也に、隆司は眉間を揉む。  克也はいとも簡単なことのように言うが、同じ警察官でもキャリアとノンキャリアでは、出発の時点も違えば出世する早さも違う。克也のように入庁時から警部補の階級を与えられ、以降も試験なしで上にあがれるキャリアと違って、隆司は一階級ずつ難しい試験を受けなければ昇進できない。想像以上に厳しい道なのだ。 「隆司なら大丈夫だよ」  だが、それでも克也の自信は揺らがない。 「……根拠は?」 「警察官の勘、かな?」 「それを言うなら刑事だろ。しかも、お前刑事じゃないし」 「ははっ、そうだね。じゃあ、長年つきあってきた友人の勘ってことにしておいて」 「結局、根拠も何もないじゃないか」  いつも湊にするように深い溜息を吐ながらも、中に苦笑を含める。 「……でも、お前がそう言うなら、大丈夫なような気がしてきた」  克也は、これまでずっと自分で道を切り開いてきた強い男だ。そんな人間に太鼓判を押されると、不思議と自信が湧いてくる。  もしかしたら、次の試験はうまくいくかもしれない。そう思うと自然に笑みが生まれた。 「そうでしょ。だから早く試験合格して、本庁に来なよ。そしたらさ、いつか高校の時みたいに二人で並んで、一緒に仕事できるかもしれないし」 「ああ、そうだな。分かった、絶対に合格して必ず一課の刑事になってやる。――――――ん? どうした湊。妙に深刻そうな顔して……」  決意を告げる隆司の横で、湊が箸を持ったまま固まっていた。そういえば今の二人の会話を、まるでテニスの試合観戦のように首を左右に振りながら見ていたようだが、湊はその間一つも口を挟んでこなかった。  話好きの湊なら、割って入ってきてもおかしくないのに。 「T大……キャリア……捜査一課……」  二人を見つめながらブツブツと口元で何かを呟く湊の顔は、初め驚愕に染まっていたが、みるみる寂しそうな顔に変わっていった。  また、何か余計なことを考えたのだろうか。隆司の中に、不安が湧く。もしそれならば、下手に気持ちが落ちてしまう前に何か言ってやらなければ。しかし、そう思っているうちに克也が湊に話しかける。 「ね、湊君。隆司がちゃんと勉強を怠らないように、見張っておいてね。きっと君が隣にいれば大丈夫だと思うから」 「え? あっ、いや、あの……僕は役に立てるか……どうか……わかりませんが、できる限りは……」   唐突に話を振られ、湊があからさまな動揺を浮かべる。その態度で、隆司の中の不安が確定に変わった。  いつもの湊なら、「任せてください。僕が必ず合格させます」ぐらいの言葉をかえしているはず。それが出てこないのは余程のことだ。きっと自分は知らない間に、何かしてしまったのだろう。胸の奥が、チクリと痛む。  とにかく、どうにかして湊を元気づけなければ。焦りながら湊にかける言葉を探すが、考えても一向に気のきいた言葉が出てこない。  料理の礼なんて今ここで言ってもおかしなだけだし、ここで何を悩んでいるのか聞いても場をしらけさせるだけ。きっとそれは湊も望んでいない。ならどうすれば。隆司は焦燥で乾いた口を潤そうと、ビールを口に含んだ。  やや炭酸が抜けたビールが、喉を通る。それはまだ幾分か冷たさを残してはいたが、何故か最初に飲んだ時よりも苦みを強く感じた。  舌を包み込む不快な苦みに、隆司はふと思う。  あたかも「こんな大切な時に何も言えないなんて、お前はそれでも男か」と、間接的に責められているみたいだと。  だが、実際に何もできない自分は、誰かにそう責められても仕方がないと思うしかなかった。

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