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第8話:届かない手

 挽きたてのコーヒーの香りは、飲みすぎで鈍くなった頭を起こすのに丁度よかった。  久々に気持ちよく酒を呑んだ後、すっかり元気になった克也をタクシーが捕まえられるところまで送って帰ってくると、部屋中に香ばしい豆の香りが充満していた。勿論、それは湊が隆司の帰る頃を見計らってコーヒーを入れておいてくれたからだ。しかもコーヒーが出された時にはもう、散在していたビールの缶や皿が片づけられていて、快適に寛げる環境になっていた。  さすがは湊だ、と良すぎる手際に感心ながら隆司はリビングのソファーに腰かける。 「湊、お前もコーヒー飲まないか?」 「ええ、お皿洗い終わったら頂きます」  コーヒーに誘う隆司に、キッチンカウンターの向こう側に立つ湊が柔らかな笑みを浮かべながら答える。隆司は机の上に用意されたコーヒーを手にして口をつけると、チラリと視線だけで湊を見遣った。  結局あの後、隆司は湊に何一つ気のきいた言葉をかけてやれなかった。今の湊は元気そうに見えるが、実際はどうなのだろうか。コーヒーを楽しむ素振りを見せつつ、じっくりと湊の顔を窺う。  しかし、その途中――――不意に隆司はハッと我に戻って目を見開いた。  どうして、自分はこんなにも湊のことばかり心配しているのだ。これまでの自分なら今頃、久々に克也と同じ時を過ごせたことに大きな幸せを感じている頃だ。なのに、今はその幸せよりも湊のことに意識を向けている。  まさか、自分はいつの間にか湊のことを好きになっていたとでも言うのか。 「隆司さん、片づけ終わりました」  考えていたところで、片づけを終えた湊から声がかかる。 「ん? あ……ああ、ありがとう。今日は急に悪かったな。疲れただろう?」  突然、耳に湊の声が滑りこんできたことに驚きつつも、すぐに平常心を取り戻してこたえる。 「いいえ、平気ですよ。克也さんとも飲めて楽しかったですし」 「そう言ってくれると助かる」  言いながら、隆司は無意識に湊の顔を見つめた。 「どう……しました? 僕の顔に何かついてます?」  隆司の目の前にいる湊は、不思議そうに首を傾げてから顔に手を当てる。  その一つ一つの仕草にも目を離せず、見入ってしまう自分がいた。きっとこんな気持ちになっていることを湊に気づかれでもしたら、また「僕を抱きたくなりました?」なんて言われることだろう。  しかし今、冗談でも湊にそんなことを言われて、自分は平静を保てるだろうか。思考を巡らせた末、隆司は見事に撃沈する。  どうやら今の隆司の内側では、それぐらい湊が大きな存在になっているらしい。しかし、そのことを湊は知らない。だからこそ下手なことをしでかさないよう、十分注意をしておかなくては。隆司が誰にも気づかれない場所で気を引きしめる。すると、急に湊が隆司の服の袖を引っ張ってきた。 「ねぇ、隆司さん。一つ、聞いてもいいですか?」 「ん?」 「隆司さんて、その……克也さんのこと、好きなんですよね。勿論……恋愛感情として」    湊が確信を持った顔で、こちらを見つめる。  出し抜けに言われた言葉に、隆司は指先がわずかも震えないほど固まった。それから数秒、瞬きすら忘れてしまう。  瞬間、真っ白になった頭に巡ったのは、何故か湊が淡雪のごとく消えてしまうような、そんな恐怖だった。 「何、で……」 「フフッ、僕を誰だと思ってるんです。同性に対する恋愛のエキスパートですよ?」  唇に人差し指をあて、さながら決めポーズでもきめているかのように自慢気に話す。 「今まで何人もの男の人に、恋してきました。勿論、その大半が叶わない恋でしたけど……。でも、だからこそ分かるんです。隆司さんが、克也さんに秘めた想いを抱いているのが」  ふと向ける視線の柔らかさだったり、言葉の温かさだったりと、小さなことからでも分かるのだと湊は言う。  隆司自身、今夜の克也にそういった感情を向けたつもりはない。これまでだって、一度も克也の話題をだしたこともなければ、素振りを見せたこともなかった。  けれど――――湊が見抜いたように、少し前まで克也へ秘めた想いを抱いていたことは事実だ。その感情をきっぱりと捨てたと言いきれない今、隆司は湊の質問を否定することができなかった。 「湊……」  こちらを見る湊の視線が、あまりにも真っ直ぐで。  隆司は真実を湊に隠し通すことはできないと、直感で悟った。 「高校の時……からだ」  湊をみることができない状態で、ポツリと告げる。 「そうですか……」  わずかの沈黙が走った。  二人は目を合わさないまま、それぞれ黙りこむ。  湊に、きちんと謝らなければ。  今日までずっと湊からの好意を無下にしてきたくせに、実は自分も同性相手に恋をしていただなんて、馬鹿にしていたと責められても文句は言えない。 「湊、あの……」  意を決した隆司が口を開く。しかし謝罪を述べようとした矢先に、湊が喋りだした。 「隆司さんから見た克也さんて、どんな人なんですか?」 「え……?」 「克也さんのどんなところを好きになったのか。ねぇ、教えてくださいよ」  真っ直ぐに聞かれて、隆司は悩んだ。  克也を好きになった理由を、湊に話してしまってもいいのだろうか。それで湊は悲しまないだろうか。  湊の気持ちを考えて言い淀む。が、二人を包む空気が沈黙を許してくれなかった。  手の中のコーヒーカップがいつの間にか熱を失い、指の温度と同じになっている。隆司はカップを持ちあげると一気に飲み干し、そして大きく深呼吸をした。 「克也は昔から考え方や思想に一本筋が入った、意志の強い奴だった。高校時代から『自分は将来、警察官僚になって日本をもっと安全な国にしたい』って言ってたぐらいだしな」  昔を思い出すためか、はたまた湊の顔を見ないようにするためか、隆司は自分でも意識しないうちに瞳を閉じていた。 「最初は、克也の強さに同じ男として惹かれた。けどある時、俺はそんな克也に脆い部分を見つけたんだ」  暗闇に包まれた世界の中で、古い記憶を震える手で手繰りよせる。 「脆い部分?」 「ああ、あいつは高い理想と現実の壁にぶち当たって身動きが取れなくなると、自分の力の弱さを責めて自らを追い詰めるようになる。そうなると厄介でな。食事も睡眠も取らずに壁と戦おうとするんだ」  あれは確か、克也が生徒会長を務めていた時のこと。前年度に一部の生徒が不祥事を起こしたからという理由で、その年の修学旅行を中止すると学校が決めたことに生徒が反発。生徒会長だった克也に協力を求めてきたことがはじまりだった。  克也は修学旅行を実施して欲しいという生徒達の願いを叶えるべく、教師達に何度も嘆願した。しかし願いはなかなか認められず、克也は酷く落ちこんだ。自分には教師を説得するだけの力がないと、ならば何のための生徒会長なのだと。そう言って涙を零した。  「そんな姿を見て、守ってやりたいって思うようになったのがきっかけだったと思う」 「克也さんは本当に責任感が強いんですね」 「強いというより、強すぎだ。克也は決して人に頼ろうとしない。こちらから手を伸ばしても、絶対に手を取らない。だから俺は今日みたいに、何も知らない振りをして酒の相手になってやることしかできないんだ」 「今日? もしかして、克也さんが今日来たのも……」  湊の問いに、隆司はゆっくりと目を開く。それでも視線は前を向いたまま、湊の方には向けない。 「多分、仕事で何かあったんだろうな」 「見た限りじゃ、凄く元気そうだったのに」 「あいつ、頑固なうえに見栄っ張りなんだよ。俺やお前に、格好悪いところを見られたくなかったんだろ。でも、俺のところにきたってことは、相当ギリギリだったんだと思う」  だから、何も言わなくても分かるのだ。しかし、それでも昔に比べたらまだいいほうになった。  一番酷かったのは二人が大学を卒業し、それぞれの道を進んで二年ほど過ぎた頃。当時、隆司の前に現れた克也は、言葉にならないほど心も身体も衰弱していた。驚いた隆司は痩せ細った克也の腕を掴み、強引に病院へ連れて行こうとしたが、克也は頑なに首を縦に振らなかった。  頑固な克也は、何も理由を言わずに「隆司と一緒に酒を飲みたい」と言って、缶ビールをあけるだけ。そんな克也を見て、隆司は決めたのだ。根本的な部分で支えることができないのなら、支えられる部分だけを支えてやろうと。 「二人は、強い絆で結ばれてるんですね……」  歪な二人の関係を語り終えると、湊が消え入りそうな声でそう呟いた。 「ねぇ、隆司さんは克也さんに告白しないんですか?」 「なっ……」  まさか、湊の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。隆司は、驚愕して思わず湊の方を向いてしまう。  湊は愛情に対してもっと貪欲だと思っていた。自分の愛は、誰にも負けない。例え、想い人が他の人間を好きでも、必ず自分のほうを振りむかせると言い切る強さがあるのだと。だから湊の言葉に、隆司は意表を突かれたのだ。  しかし、視線を向けた先にあった湊の顔を見て、隆司は今の言葉が強がりからくるものだとすぐに気づく。  身体を震わせながら唇を噛み、眉を寄せる姿は泣くのを必死に堪えているようにしか見えない。どうしてそこまで辛そうな顔をしながらも尚、そんなことを聞こうとするのだ。 隆司は理解に苦しむのと同時に、胸が苦しくなった。  こんな湊の顔は、見たくない。 「……克也に告白するつもりはない」 「どうしてです?」  理由を問われ、隆司は口を閉ざす。  克也に告白しないのは、湊の存在が気になるから。本来ならそう答えるべきなのだろうが、隆司には言葉にすることができない。代わりに出たのは、昔、克也への告白を諦めた時の理由だった。 「あいつは日本の将来を背負おうって考えてる人間だ。そんな奴に男の俺が告白なんてしたら、迷惑に決まってるだろう。それに俺は克也の夢も理想も引っくるめた全てが大切だから……あいつが夢を掴む日まで支えてやれるだけで充分だ」  それは高校時代、克也と二人で恋愛について話した時のこと。その頃はまだ秘めた想いを伝えることも考えていた隆司が、好きな人間の好みが知りたいという純粋な気持ちで尋ねたところ、克也から返された決意は並の人間が想像できないぐらい強く、重たいものだった。  克也の夢は警察官僚になって、日本の未来を守ること。そのためなら、自分はどんなことでもする。例え私生活や自由を奪われたとしても、出世のために愛した人と結ばれないとしても、自分は官僚としての未来を選ぶ。克也は高校生の時点で、そう決めていたのだ。  そんな強い決意を固めた人間の邪魔が、隆司にできるはずがない。 「隆司さんがそこまで考えるぐらい、克也さんは魅力的な人間だということですよね」  納得した様子で告げると、湊は続けてフフッ、といつものように笑った。 「どうした? 今の話に、何かおかしいことでもあったか?」 「いえ、そういう意味で笑ったんじゃなくて……、僕じゃ克也さんには勝てないなぁって」 「は? さっきも他人とか他人じゃないとか似たようなこと言ってたが、勝つとか負けるとかそういうものじゃないだろ? お前はお前で、克也は克也なんだから」  湊と克也では見た目も、人間性も、歩んできた道も、そして進む道も全く違う。だからこそ克也には独りでも生きていける強さが、湊には他者から愛情を与えられることで輝くという魅力が生まれたのだ。そんな二人を並べて、優劣をつけろというほうがおかしい。 「もう……隆司さんって、頭良いのにそういうところは鈍いんだから」  隣でクスクス笑う湊を見て、また意表を突かれた。  今さっきの湊が嘘のように、表情や口調の明るさが突然変わっている。いつ、笑えるぐらいまでの元気を取り戻したのか。 「でも克也さんって、良い人ですよね。こんな僕にも『何かあったら、力になる』って言ってくれましたし。確かに克也さんは、日本の未来に必要な人だと思います。だから……――――これからも、大切にしてあげて下さいね」  また、湊らしからぬ言葉が放たれた。  今日はあまりにも湊らしくない言葉ばかりで、聞いていると調子が狂いそうだ。 「なぁ、お前……何か、今日はおかしくないか?」 「そうですか?」 「ああ、何て言うか妙に聞き分けがいいって言うか……さっきも、俺が克也のこと好きって聞いて、てっきり『僕っていう人間がいるのに!』って怒るかと思ったのに、全然怒らないし……」  素直に疑問を口にすると見る間に湊の頬が膨らみ、唇の先が尖った。 「ちょっと、隆司さん。僕のこと、どんな人間だと思ってるんです? こんなに健気で献身的で、言うなれば心清らかな人間を捕まえて、まるで独占欲の強い鬼嫁のように言うなんて心外です」  軽く手をあげた湊が、隆司の太腿をペチンと叩く。勿論、痛くはない。 「そうそう、それ。それがいつものお前だよ。あと、本当に心清らかな人間は、自分で自分のことを心清らかなんて言わないからな」  普段の湊に戻ったことが嬉しくて、隆司は自然と笑みを浮かべる。やはり湊は、こんな風に子供のように笑ったり、時に拗ねたりしているほうがいい。 「あーもう! これ以上ここにいたら、僕のイメージがもっと悪くなりそうだから、退散します!」    湊がさっと立ち上がる。向かう先は恐らく湊が寝室として使っている部屋だろう。隆司は笑いながら、いつものように見送ろうとする。  しかし、少しずつ離れて行く湊の背中を見ていたその時――――不意に胸が騒いだ。  何だ、この不安と焦りが混ざったような感覚は。隆司は唐突に湧いた感情に突き動かされると、意識する前に立ち上がり、先を歩いていた湊の腕を掴んだ。 「え? 隆司さん、急にどうしたんですか?」  腕を掴まれた湊が首だけで振りかえり、きょとんとした様子でこちらを見る。 「あ……いや……」  説明を求められるも、答えられない。当たり前だ、自分でもどうして急にこんなことをしたのか、分かっていないのだから。だが行動を起こしたからには、何か言わないと。考えた末に、隆司はふと思いついた理由を口にした 「そういえば、今日の礼……まだしてないと思って……」 「今日の?」 「ホラ、突然克也が来たから、飯、三人分作らなきゃならなくなっただろ。それの礼……」  自分でもあからさまに取ってつけた理由だと思ったが、情けないことに今はそれしか浮かばない。 「別に二人分も、三人分も手間は変わりませんよ。だから気にしないで下さい」 「いや、それじゃ俺の気持ちがおさまらない。何か礼がしたいんだが……希望とかあるか?」  隆司の必死さが伝わったのだろう。礼を断ろうとしていた湊は、「何かあるかな」と言いながら考える。 「…………ねぇ、隆司さん。もしも今、僕が抱いて下さいってお願いしたら、抱いてくれます?」  そう告げた湊の顔は、やけに真剣味を帯びていた。 「え、抱いてって……」 「勿論、セックスするってことです」  迷いが一切ない強い言葉で言い切ると、湊はクルリと身体を翻して隆司の胸の中に飛びこんできた。  二人の体温が重なる。少しだけ隆司よりも高い湊の体温は、密着すると心地好い温かさだった。  こういった形で他人の体温を感じるのは、いつ振りだろう。幼い頃に両親を失った隆司には思い出すことができないぐらい昔に感じたが、それでも身体は心地好さを覚えているようだ。  この胸の中にある、華奢な背中に触れてみたい。そんな衝動が生まれる。鼓動も感情に合わせて高鳴りを強めた。  どうして、突然こんな行動を取ったのだろうか。自分自身の感情すら形にできない不器用な隆司には、湊の考えを推測するのは不可能だった。刑事なのに相手の感情を理解できないなんて、情けないにもほどがある。 「ね、隆司さん、僕を……抱いて……」  石のように固まる隆司の手を引くかのように、湊が再度甘い願いを口にする。  本能を刺激する体温に、艶のある声。そして鼻を擽る果実のような体臭。それら全てが、じわりじわりと隆司の退路を奪っていく。  正直、湊を抱くことに全く嫌悪感が湧かなかった。  今ここで隆司が頷けば、二人の関係は大きく変わる。  しかし、それで本当にいいのだろうか。  この両手で湊の身体を包んでしまったら、もう後には戻れない。なのに、自分の心はまだ変わってしまう環境に順応できるだけの準備ができていないのだ。そんな状態で湊を抱いてしまうなんて、本気で感情をぶつけてくれている湊に失礼ではないか。そう考えるとどうしても一歩を踏み出す勇気が持てなかった。 「湊、あの……」 「――――フフッ。冗談ですよ」 「え?」 「ちょっと隆司さんを困らせてみたくなっただけです」    ひょいっと軽やかな足どりで隆司から離れた湊が、悪戯を成功させた子供のように笑う。 「もう、僕のことどこまで節操なしだと思ってるんです? 確かにそういった類の発言はしてますけど、実際はちゃんと手順踏んでからって決めてるんですよ」 「冗談? ……って、お前、人をからかったのか!」 「だって、あまりにも隆司さんが克也さんのこと褒めるから。嫉妬しちゃったんです」  もう一度、ごめんなさいと謝って湊が背を向ける。  心底悩んだことを冗談だと笑われ、どうにも怒りの向けどころが見つからない隆司は一発だけでもいいから頭を叩いてやりたくなる。けれど、湊が暴力を怖がることを思い出してとどまった。 「ったく、今度やったら部屋から追いだすからな」 「……はーい。じゃあ、お休みなさい」  リビングから出る扉の前で振りかえった湊が、手を振って挨拶する。そしてすぐに廊下へと出て行ってしまった。  その間、わずか五秒もない。  だからだろうか、振り向いた時の湊の瞳が濡れていたような気がしたが、隆司にはそれを確認することができなかった。

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