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第9話:彩りが消えた世界

 翌朝、いつも起きる時間に目が覚めた隆司は、家全体がやけに静まりかえっていることに、寝ぼけながらも首を捻った。  いつもなら、この時間は隣のリビングから明かりが漏れているはずなのに。まさか珍しくも湊が寝坊しているのだろうか。そんな危惧を片隅に思い浮かべながら、まだ霞みが残る思考のままリビングへの扉を開ける。  すると、開けた途端に微かだが作りたての味噌汁の香りが鼻を擽った。 「湊?」  乾燥のせいで枯れた喉で、湊を呼ぶが返答はない。味噌汁の香りに反して、トイレや洗面所も含めた部屋中の電気も全て消されている。湊が寝坊しているのではないとするなら、これは一体どういう状況だ。隆司は頭に疑問符を浮かべながら、部屋の電気をつけた。 「……っ!」  部屋が明るくなると同時に、隆司の目は食卓の上に釘づけになった。食卓の上にはラップをかけられた朝食の用意と昼食用の弁当、そして表書きに『隆司さんへ』と書かれた封筒が置いてあったからだ。  何だろう、また昨夜覚えたような胸騒ぎがする。もしかしたらバイトが早朝に入っただけかもしれないではないかと、自分自身を安心させるような理由を頭に並べるが、それでも嫌な焦りが消えてくれない。  隆司は起きたばかりにもかかわらず、まるで凶悪犯と対峙した時のような緊張を抱きながら、封筒を手にとり開封する。 「…………なっ……」  一文字一文字目で追いながら読んだ手紙の内容は、胸騒ぎを的中させるものだった。 『隆司さんへ。今日までお世話になりました。挨拶もせずに出て行くこと、どうか許してください。部屋の鍵は郵便ポストの中に入れておきますね。湊』  手紙は紛れもなく湊がこの部屋から出て行ったことを示していた。驚きを超えた衝撃を受けた隆司は、信じられない思いを抱いたまま湊が使っていた部屋に飛びこむ。 「湊っ」  扉を開けると、ひんやりとした風が頬に当たった。その風には勿論、人の温もりなんてない。  冬の寒さに包まれた部屋は、湊がこの家で生活する前と同じ状態に戻っていた。元から少なかった私物は全て消え、湊が使っていた布団も綺麗に折りたたまれて部屋の端に置かれている。それでも状況を飲みこむことができない隆司が乱暴に部屋のクローゼットを開けると、数枚のシャツがハンガーにかけられていた。  どれも隆司が湊に貸していたものばかりだ。 「嘘、だろ……」  信じることができない状況に、放心状態になってしまった隆司はふらふらと再びダイニングへと戻り、食卓の椅子に腰を降ろす。そして目に止まった手紙をもう一度読み返してみた。 「……ん……?」  先程は慌てていたために見落としていたらしい。余白の下の方には追伸が記されていた。 『追伸。生意気かもしれませんが、一つだけ言わせて下さい。――――想いは心に留めておくだけじゃなくて、ちゃんと言葉にして伝えた方がいいですよ。その結果が良くても悪くても、必ず前に進むことができますから。僕は隆司さんを好きになったことで、それを学びました。だから、僕は一人でも前に進めます』  隆司はその数行だけで、湊が何を考えて出て行ったのか確信する。そう、湊は隆司が克也のことを想っていると勘違いして、身を引いたのだと。 「バカか……余計なこと考えて……」  別に、隆司は克也に想いを告げることを我慢しているわけじゃない。それなのに勝手に告白した方がいいだなんて決めつけて出ていくなんて、ありがた迷惑以外の何でもない。  出て行きたければ、勝手に出て行けばいい。胸中に沸々と怒りが湧く。だが、それと同じぐらいの寂寥感も募った。  もうこの部屋に湊はいない。  その事実を受け止めようとすると、心臓を直に握られたかのように胸が苦しくなった。  震える手で手紙を握りつぶし、そのまま頭を抱える。  瞬間、机にポタリと雫が落ちた。  続けるようにして二つ、三つと涙の球が天板の上で弾ける。  目頭が熱い。鼻の奥が痛む。双肩が痙攣でもしているかのように震える。考えるまでもなく、自分が泣いているのだと気づかされた。  震える声で、ハハッと乾いた笑いをあげる。 「ああ……、そうか……」  こんな状態になって、やっと答えがでた。いや、漸く言葉にできたと言った方が正しいのかもしれない。 「俺が好きなのは――――」  いつも呼ぶような声で、湊の名を呼ぶ。  けれどキッチンからは湊の声も、料理を作る音も聞こえてはこなかった。

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