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第3話(最終話)

 その日のうちに左右の犬歯がぽろりと抜け落ち、歯茎の中から尖った八重歯が頭を覗かせた。 「確実に吸血鬼になったね。おめでとうございます、これからの人生をゆっくり楽しんでください」  診察してくれた医師には何年間も鈍重な気持ちを訴えてきた。このまま治らないなら、いっそ死んだ方がマシだと叫んだこともある。今はもうそんな症状があったことなど忘れそうなくらいに心も身体も軽くなって、生きてみるものだと深呼吸ができる。こんなに素直に深く新鮮な空気が肺に入ってきたのはいつ以来だろう。 「ありがとうございます。お世話になりました」  カルテには終結という文字が打ち込まれ、オレが照れて少し笑っただけで泣き出した両親の背中を感謝の気持ちを込めて撫でながら病院を出た。  吸血鬼の生活は驚くほど快適だった。  日中は罪悪感なく眠って過ごし、夕方になってから自然に目覚めて活動を始める。大学の夜間学部へ転部したオレは、たっぷり眠った充足感を得て、すっきりした頭で集中して勉学に取り組んだ。一日中頭の上に雨雲を乗せていたような倦怠感から解放され、自分の部屋を出るだけでなく、一人暮らしまで始めることができた。友人の誘いには気軽に応じて遊びに行けるし、その費用を深夜のアルバイトで稼ぐこともできた。吸血鬼になるだけで、こんなにも毎日が生きやすいなんて! 見るものの輪郭はどれもくっきりとして、聞く音は心地良かった。たまに会う両親がオレの近況報告を笑いながら聞きつつ、そっと涙を拭うほどに、オレは元気と笑顔を取り戻した。  食事は週に一回程度、冷凍庫に保存してある血液パックを流水解凍して飲めば充分だ。ちなみに血液は宅配形式で、自宅前の保冷ボックスに血液センターの人が一か月分四パックをまとめて入れておいてくれる。 「あ、治験終了。吸血鬼化治療が異例のスピードで承認だって!」 オレはスマホ画面でニュースを知り、内容を読み上げた。 「これから吸血鬼が一気に増えるね、きっと」  治験の日に相手をしてくれた彼と気が合って、一緒に暮らすようになっていた。  吸血鬼化治療が承認されたというニュース以降、吸血鬼は一気に増えた。オレも何度か吸血鬼になるお手伝いをしたし、そのときに直接啜る生血の旨さも味わわせてもらった。生血は最高に美味しかったが、そう思うのはオレだけではなかったので、吸血鬼の人数が増えるにつれて、お手伝いの登録者は増え、呼ばれる回数は減っていった。  オレが大学を卒業して定時制高校の夜間部で国語科の教員になった頃には、受け持ちクラスの半数が吸血鬼だった。  夜間高校とはいえ主に十代の高校生でこの割合だから、世の中の吸血鬼の割合はもっと増えていて、街は夜のほうがにぎやかになり、無理に早起きを強要されなくなり、心身の健康を脅かされることも、病むこともなくなって、人々の笑顔が増えた。  国民が少ない食料で病気もせず、怪我をしてもすぐ回復して働くから、農業や畜産業、飲食店などはダメージを受けたが、それを補ってもなお景気は上昇した。誰も年金なんて必要ないし、病院へも行かない。今はまだ税金が教育費に充てられるけれど、わざわざ手の掛かる子どもを産まなくても、自分たちが生きている限り人口の減少はないのだから、研究機関以外の学校は十数年の内には必要なくなるだろう。  街は華やかにきらめき、細かいことは気にしなくなって、人々は大らかに人生を楽しんでいる。  ゴミをゴミ箱に入れなくても、疫病が広まることはない。掃除しなくても死なないし、食物アレルギーに苦しむ人もいない。健康や寿命に関する悩みがなくなるだけで、人々は驚くほど寛大になり、世の中はうまく回り始めていた。病院も夜間だけ、まだ残っている少ない人間のために開設しているだけで、医療や福祉に従事する人の数はぐっと減ったし、労働時間も大幅に短縮された。  彼も看護師の仕事は辞めて、今は遊園地のスタッフをしている。夜の遊園地は、昼の遊園地よりずっときれいで楽しい。 「あ、また『代替血液配送のお知らせ』だって」 彼がスマホをタップして、ため息をついた。オレも同じ連絡を受け取っていて、文面に目を通す。 「うーん。人間が少なくなってきてるから、代替血液になるのはしょうがないけど、あれ、人工甘味料みたいな不自然さがあるんだよね。変に舌に残るような味がするし。家の前の宅配用ボックスから血液パックを盗まれる事件も頻発してて、ちょっと物騒だよ」 「半年前に血液センターが専売を辞めて民営化してから、値段も質もいろいろになっちゃったしね。今、血液用の人間飼育を手掛けている業者は大儲けらしいけど」 「人間って寿命短いし、すぐに病気で死ぬし、怪我も治らないし、飼育するの厄介だけど、結局いないと困るんだよね」 「僕、また看護師に戻ろうかな。人間飼育用の看護師求人が増えてきてる」 「人間相手の仕事って大変なんじゃない? 前はモンスターなんとかって、暴れる患者さん相手に手こずったりしてたじゃん」 「そうだね。でも、飼育用の人間には言葉も道具の使い方も獲得させない。清潔操作だけ気をつけて作業すればいいらしいから、昔と較べたら気楽なんだって」 「そっか。じゃあいいかもねー」 川から汲み上げたままの値段が安く茶色い水道水で解凍した血液パックにそれぞれストローを挿し、オレたちは笑顔で食事を楽しんだ。

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