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【六万円の恋】圭琴子
自分で言うのもなんだけど、俺はモテるタイプだった。成績は中の下だったけど、水泳部のエースで運動神経の良かった俺は、学生時代計十二回告白された。平均すると、年に一回のペースだ。
母ちゃんは男兄弟ばかり三人のシングルマザーで苦労をかけたくなかったから、高校を卒業してすぐにダイビングショップでアルバイトを始め、今に至る。ひとの命を預かる仕事だから、真剣に取り組んだし、感謝もされてやり甲斐があった。
旅行に来た開放感で、女の子たちは一夜のアバンチュールを求め、誰彼構わず言い寄っている。だけど、そんな股の緩い女の子には興味がない。俺はモテるタイプにも関わらず、まだ誰とも付き合ったことがなかった。
だって、意識もしていなかった相手にいきなり「付き合ってください」と言われて、好きになれるだろうか? 会ったばかりの観光客も論外だ。友達になれるひとじゃないと付き合えない、と言ったら、バイト仲間に笑われた。一発ヤるだけなら、恋愛感情なんか要らないと。それは違うんじゃないかと密かに思って、二十二の夏をむかえたのだった。
「暇だな~……」
ポツリと独りごちる。今は晴れているが、台風が近付いているという予報で、店は開店休業状態だった。
「大悟 、今日はもう上がっていいぞ」
オーナーの比嘉 さんが言うのも無理がない。バイト代は惜しかったけど、台風を舐めるなと死んだひい婆ちゃんがよく言っていたから、帰ることにした。
家までは、徒歩十五分。サルスベリの花が咲く自然公園の中を突っ切って、帰ろうとした時だった。いかにも観光客な派手なアロハシャツを着た男性が、飛びつくようにして寄ってきた。
「き、君。この辺に交番はないかね?」
ちょっとビックリしたけど、お巡りさんを探していると言うのなら、悪いひとではないだろう。
「案内しますけど。どうしたんですか? もうすぐ台風がきますよ」
「そうなんだ。次の便に乗れなかったら、恐らくあとは欠航になるだろう。財布をなくしてしまって、参ってるんだ」
「次の便まで何分ですか?」
「もうギリギリなんだ。今すぐ空港に向かわなければ、搭乗時間を過ぎてしまう」
交番までは、ここから十五分はある。タクシーを飛ばそうにも、タクシーが流れてないのがこの海だ。
「空港までの足は?」
「レンタカーがある」
それでも、交番まで車で五分、事情を話して手続きに十分。迷わず俺は、バックパックから財布を取り出した。
「幾ら必要なんですか?」
「五万あれば何とかなる」
幸い、一昨日 給料日だったから金はある。俺は諭吉を六枚出して、何の気負いもなく男性に差し出した。
「これ、どうぞ。すぐ空港に向かってください」
「え!? 良いのかい?」
「はい。ご縁があったら、返してくだされば結構です」
男性は一瞬もの言いたげに声を詰まらせたけど、両手で俺の右手をしっかりと握って、頭を下げた。
「ありがとう! 恩に着るよ!」
「お気を付けて」
それが一ヶ月前のこと。バイト仲間に話したら、また盛大に笑われた。
「お前それ、騙されたんだよ」
「そうかなあ」
「観光地専門の、詐欺とかもあるみたいだし」
「そうかなあ……」
「六万か。被害届け出した方が、良いと思うぞ」
「……」
だんだん自信がなくなってきた俺に、バイト仲間三人はわあわあと畳みかける。そうかなあ。俺、ひとを見る目はあると思ってたんだけどなあ。まあ、あげるつもりで出した六万だから、いいや。そう締めくくって、なかったことにすることにした。
その時。ダイビングショップの来客チャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
威勢よく声が揃う。だが入ってきた男性の姿を見て、みんなはあからさまに機嫌を悪くした。男性は、白髪のまじったボサボサの髪に顔の下半分を覆う無精髭、汚れた土色のハーフパンツとTシャツを身に付けていた。何処から見ても、立派なホームレスだ。
「爺さん、クーラーに当たりに来たのか?」
「仕事の邪魔だから、出てけよ」
年齢不詳の男性は、ポケットに両手を突っ込んで、クシャクシャの紙を引っ張り出した。
「ほら、金だ。これで客だろう」
よくよく見ると、それはクシャクシャの一万円札だった。
「金出せばいいってモンじゃねぇんだよ。アンタみたいなのが居たら、他の客が逃げちまう。出てけ!」
大きな声を聞きつけて、奥からオーナーが出てきた。
「おい、何の騒ぎだ」
「家なしが来たんすよ」
「ふむ」
比嘉さんは、顎を撫でた。比嘉さんは暴言を吐くような人柄じゃなかったけど、俺は一生懸命貯めたお金をダイビングにつぎ込もうというおじさんを受け入れたくて、思わず口を挟んでいた。
「俺が、担当します。おじさん、ダイビングは初めて?」
「ああ……トラウマがあってね。顔を水に浸ける事が出来ないんだが、それでも楽しめることってあるかな?」
「何だよ、それ」
「帰れ帰れ」
「こら、お前たち。お客さんに向かって、何て口を利く」
比嘉さんが止めてくれた。良かった。
「ええっと……イルカツアー! ならどう? おじさん」
「イルカ?」
「船で沖まで出て、イルカを見たり触ったりするツアー。ね、比嘉さん、どうでしょう」
比嘉さんは、深く頷いて微笑んだ。
「そうだな。アレなら、水に浸からなくても楽しめる。失礼ですが、持ち合わせは?」
「足りないか。まだある」
おじさんはポケットの中から、クシャクシャの一万円札をまた出した。先に出していた数枚が、バラバラと床に散る。
「ああ、結構。十分です。じゃあ、大悟、お会計とツアー説明、奥でしてあげて」
「はい!」
* * *
正午過ぎの空の天辺に近い太陽が、ジリジリと肌を焦がす。でも海風はカラッとしていて、最高のドルフィンウォッチング日和だった。俺たちに許されたのはモーターボートだったから、もろに日光を浴びる。
「おじさん、右目、どうしたの?」
モーター音に負けないように、声を張り上げる。おじさんは、右目だけをシパシパさせていた。
「生まれ付き、右目だけ色素が薄くてね。ひどく眩しいんだよ」
「これ、使って」
俺は躊躇いなく、自分のかけていたスポーツサングラスを外して渡す。おじさんは笑った。初めて笑った。
「こんなカッコいいサングラス、かけたことない。汚れるから、いいよ」
「いいから。かけて」
おじさんは嬉しそうに笑って、そうっとミラー加工のスポーツサングラスをかけた。
「あはは。おじさん、細いから市民ランナーみたい」
「水は駄目だが、足は速いぞ。金メダリストくらい言ってくれ」
ひとしきり笑い合って、俺たちはウォッチングスポットに到着した。モーターを止めると、波が船底に当たる、チャプチャプという音だけが響く。辺り一面、透き通ったマリンブルーの世界だった。そこで初めて実感がわいたのか、おじさんがポツリと言った。
「お……落ちないよな」
「大丈夫、おじさん。ニシ浜は深いけど、ヒガシ浜は遠浅で、ここでもギリギリ足が着くから。救命胴衣も着てるし、絶対に溺れないよ」
「そ……そうか」
それでもおじさんは、薄ら寒そうに二の腕を自分で抱き締めていた。
「ここのイルカは人間と遊ぶのが好きだから、海に入ってると見られる確率が上がるんだ。俺、海に入るけど良い?」
「落ちないんだよな」
「うん。俺だけ。何があっても、おじさんは俺が絶対守るから」
おじさんを見ると、ミラー加工のサングラスに、俺がきちんと映っていた。おじさんも、真っ直ぐに俺を見ているってことだろう。
「……最高の口説き文句だな」
「え?」
咄嗟に何て返したら良いか分からず、思わず聞こえなかったフリなんてしてしまう。何でもない、とおじさんは笑った。そ……そうだよな。おじさんに言う台詞じゃないかもな。何だか赤くなってしまううなじを隠して、俺はシュノーケルを着けて海に飛び込んだ。
「わ、わ」
船が揺れたからか、おじさんが小さく悲鳴を上げる。俺は素早く船の縁 を掴んで体重をかけ、船体をおさえた。
「大丈夫だよ、おじさん」
おじさんはさっきまでの笑顔が嘘みたいに、顔色を蒼くして船の縁に捕まっていた。トラウマ、って言ってたっけ。それなのに、わざわざお金を使ってダイビングショップに来たのは何でだろう。白くなるほど力の入ったおじさんの手の甲に掌を重ねて、おじさんの気持ちが落ち着くまで、俺は黙って待っていた。
「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
ボサボサの前髪をかき上げて、おじさんは細く溜め息をついた。
「そう? 楽しむ為のツアーだから、無理だったら言ってね。すぐ岸に戻るから」
「大丈夫だ。ああ、アレ、何だ? アレがイルカか?」
振り返ると、遠くから灰色の塊が、波をかき分け凄い速さで近付いてくる所だった。
「そうだよ、おじさん。見ててね」
あんな遠くから見分けられたってことは、目が弱いって言ってたけど、視力は良いんだな。せっかくお金を使ってくれたおじさんに、楽しんで貰いたい。そう思って、俺はシュノーケリングしながらイルカたちと戯れた。並んで海面近くを泳いだり、潜ってグルグル回ったり。海の中から船を見上げると、眩しい太陽と、身を乗り出してこちらを覗き込んでいるおじさんが見えた。良かった。嬉しくて、浮かび上がって、おじさんに笑いかけた。
「おじさん、楽しい?」
「ああ。楽しい」
そして一大決心したように、不意に表情が真剣になった。
「……ここ、浅いんだよな?」
「うん」
「救命胴衣着けてたら、溺れないんだよな?」
「うん」
おじさんの緊張した口調に、こっちまで緊張してしまう。まさか。
「海……入ってみるかな」
「え、無理しなくていいよ?」
「いや、何だか……楽しそうだ」
言葉とは裏腹に、頬が強 ばっている。
「ど、どうやって入れば良いんだ」
え、そこから!? 俺は両腕を広げて、覚悟を決めた。
「いいよ、おじさん! 顔が浸かないように、受け止めるから!」
おじさんが頷き、気合いを発して振ってくる。身長は同じくらいで、筋肉質な俺に比べて細かったから、何とか抱き留めることが出来た。爪先を海底に突っ張って、踏ん張る。あとは、救命胴衣がいい仕事をしてくれた。
「う……海……入れた」
呆然としてるおじさんの前に、イルカが一瞬顔を出してケケ、と鳴いた。
「わっ」
「おじさん、凄い! 初めて会ったのに、イルカに歓迎されてるよ!」
「そ……そうなのか?」
「うん。ほら、見て」
おじさんを支えるように泳ぐ俺たちの周りを、イルカがグルグルと回り始めていた。四年この仕事をやっているけれど、こんな光景は初めて見た。何だか、言葉にすると陳腐な言い回しになってしまうけれど……感動、した。
水平線に沈む夕陽を見るサンセットクルーズまでがセットだったから、そのあと船に上がって、色んなことを話した。
おじさん、何処から来たの?
え? 何でだ?
だって、日焼けしてないし。なまってないし。
ああ……東の方から、流れてきたんだ。こっちでホームレスすれば、寒くないかと思って。
え、そうなんだ。確かに冬もあったかいけど、その分夏は暑いし、台風もあるよ。よく考えた方がいいよ。
……こんな家なしに、そんなに親身になってくれるのは、何でだ? 哀れみか?
えっ。……確かに最初は、気の毒だって思ったけど。今は違うよ。友だちになったから。
そうか、友だち、か。
あっ。ごめんなさい。年上のひとに、友だちって失礼だったかな。
いや、最高の殺し文句だよ。友だちにしてくれて、ありがとう。……ああ、陽が沈むな。
うん。今日は、凄く綺麗に見えてるよ。イルカといい、おじさん、運が良いね。不思議だね。
ああ。運が良いのだけが、取り柄なんだ。
ふふ。
そのあとは黙って、鮮烈に燃える夕陽が海面に長く光の道を作って沈んでいくのを見詰めていた。沈みきってしまうと、辺りは真っ暗になって、岸に帰るのが困難になってしまう。だから、沈みゆく夕陽と追いかけっこするように、船を走らせた。
岸に着くとおじさんは、両手で俺の右手をしっかりと握って、頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう。楽しかった。お礼がしたいから、明日、ヒガシ浜に来て欲しい」
「え? お礼なんて良いよ。ちゃんとお金を払って貰って、仕事しただけだし」
「いや。明日の十五時、パラソルを立てておくから、それを目印に来て欲しい」
明日は、バイトは休みだった。何処に行く予定もなく、友だちになったホームレスのおじさんとパラソルの下で、お喋りするのも悪くない。そんな風に気軽に考えて、微笑んだ。
「……うん。分かった」
* * *
翌日十五時、俺はヒガシ浜を目指してアパートを出た。今日も天気がいい。通り道の高台から見下ろしたら、空と海の境目が分からないほど、雲ひとつない青空だった。おじさんの運のお陰かな。思い出し笑いをしてから、砂浜目指しておりていく。
「え……?」
確かに、パラソルはあった。だけどとても、あのおじさんが用意したとは思えない、ピカピカの真っ白なパラソルだった。もうひとつ、違和感がある。パラソルは、砂浜ではなく、足首ほどまで海水に浸かる、波間に立てられていた。その下に、ビーチテーブルとチェアがふたつ。ブルーのトロピカルジュースがひとつだけ、テーブルの上に置かれていた。
俺は、迷う。これがホントに、おじさんの言ってたパラソルかな。どっちに座れば良いのかな。取り敢えずジーンズの裾をふくらはぎまでまくって、ジャブジャブと波をかき分けてパラソルに近付く。突っ立って悩んだのは、十五秒だけだった。後ろから、同じように波をかき分ける足音が近付いてきたから。
振り返って、状況が分からずにフリーズする。白いスーツなんてひとを選ぶのに、細身で三十代の白いスーツの男性が、薄く笑って近付いてきた。揃いのハットも粋に着こなし、だけど足元は裸足だった。俺は真っ黒に日焼けしていたけど、男性の肌は真っ白で余所者と知れる。胡散臭い。
「座ってくれ」
「え……は、はい」
男性は、トロピカルジュースのない方に座った。だから必然、それは俺の為に用意されたものなのだろう。座ったものの、落ち着かなく視線を巡らす。
「あ、あの」
「何だね」
「おじさんは、何処ですか?」
「ふふ」
男性は胸ポケットから、ミラー加工のスポーツサングラスを出して、テーブルに置いた。
「アッ」
ことここに至っても、信じられなかった。この男性は、おじさんの知り合いなんじゃないかと考える。男性は倚子の背もたれにゆっくりと体重を預けながら、無言で微笑んでいた。あっ! 右目だけが、シパシパと眇 められる。既視感。疑いようもなく、男性はおじさんだった。
「失礼して、サングラスをかけさせて貰うよ」
そう言って、もうひとつファッションサングラスを出してかける。思わず細かく観察して、時計はロレックス、ネクタイはブルガリ、サングラスはグッチなのを知る。おじさん、と声をかけようとして、こんな紳士におじさんはないだろうと黙ってしまった。
「昨日はありがとう。とても楽しかった。トラウマも克服出来たし」
「おじさ……あ」
慌てて口を押さえると、おじさんは朗らかに笑った。
「おじさんで構わないよ。昨日みたいに、気兼ねなく接してくれると嬉しい」
「お……おじさん、ホームレスじゃないんですか?」
「ああ。騙して悪かった。君の、普段のひとと成りを見たくてね」
そしてまた懐から、封筒を出した。
「これを」
「え?」
「開けてみてくれ」
封筒は封がしていなくて、開けると諭吉が見て取れた。何これ。ヤバい。タダより恐いものはない、というのもひい婆ちゃんの家訓だった。
「何のお金ですか。受け取れません」
おじさんは、テーブルに肘をついて指を組み合わせ、その上から目だけ出して破顔した。目尻に、優しい笑いじわが刻まれる。
「安心しろ。君から借りた、六万円だよ。返すだけだ」
その瞬間、脳内でニューロンを目まぐるしく情報が行き交った。貸した六万円。ホームレスのおじさん。今、目の前に居るおじさん。全てが繋がった気がした。
「あの時の……」
「思い出してくれたかな」
「でも、何だって昨日みたいな……」
「金城大悟 。二十二歳。三人兄弟の長男。シングルマザーの母を助けて、高校卒業と同時に、ダイビングショップで働き始める。財布を落とした見ず知らずの男にポンと六万円を貸し、ホームレスにも偏見なく接する。友達になれるひとじゃないと付き合えない、というポリシーがある」
淀みなく静かに言って、おじさんは何でも出てくる内ポケットから、今度は茶色の書類を取り出した。視線を落として、ビックリ仰天する。それには、『婚姻届』と書いてあった。サッと顔を上げると、おじさんは鷹揚 に微笑んだ。
「ああ……いきなりで驚くのは、無理もないかな。まあ落ち着いて、ジュースでも飲むといい」
俺は無言で、微かに震える指先でトロピカルジュースのストローを摘まみ、ゴクゴクと飲み干した。喉がカラカラだった。
「本当はシャンパンで乾杯でもしたかったのだが、君が呑めないといけないと思ってね」
「はい……呑めないです、俺」
手の甲で唇を拭いながら、何処かフワフワした心地で話す。おじさんは何気なく立ち上がって、濡れるのも構わず海水の中に片膝をつき、何でもない事みたいにポケットから蒼いビロードの小箱を出してパカッと開けた。透明な煌めきが、キラキラと午後の陽射しを照り返していた。
「結婚してくれ。君みたいなひとに出逢えるのを、待っていた」
「ケッ……!?」
俺は動揺してニワトリみたいな声を出す。確かに同性婚が認められて久しいけど、まさか自分がプロポーズされる立場になるとは思わなかった。俺が固まってると、下から掬い上げるように左手を握られた。
「私は幼い頃、客船の事故で両親を亡くしたんだ。エア・ポケットに三日間、閉じ込められた。だんだんと空気がなくなって、海面が迫ってきて……だから、ずっと海が恐かった。それが楽しい所だと再び教えてくれたのは、君だった。私だけが生き残ったことでずっと自分を責めていたが、君が私は「運が良い」と言った瞬間、何もかも腑 に落ちた。私は……君に出逢う為に、生き残ったんだ。どうか、家族になって欲しい」
俺は色んな言葉が脳内に渦巻いて、結局ひとつも発せなかった。言葉の渋滞だ。長い長い沈黙のあと、俺はうなじを赤くしてポツリと言った。
「リサーチが甘いです。友だちになって、一ヶ月は一緒に過ごしてみたひとじゃないと、付き合えないです」
おじさんは、海水を滴らせて立ち上がった。左手は握られたまま。振り払うことも出来ずに、なすがまま体温が上がる。
「じゃあ、一ヶ月間私と、友だちとして付き合ってくれ」
「おじさん、仕事は?」
「株のデイトレーダーなんだ。もうこっちに家を借りて、環境も整えてある」
株? 株で儲けてるってこと? 簡単に稼げる訳じゃない、っていうのだけは知っていた。頭が良くなきゃ出来ないよな。おじさんはそれをうかがわせる、理知的な瞳で俺を見詰めている。サングラスの色は淡く、右目だけキャラメル色なのが分かって、状況も忘れて綺麗だななんて思った。
「一ヶ月間友だちとして過ごしてみて、それから答えを出して欲しい」
気を遣った言葉に聞こえるけど、その声音は自信に満ちあふれていた。俺のうなじが赤いから。
「だけどこれくらいは今、許して欲しい」
突然左手の甲に、リップ音を立てて口付けられた。俺は防戦一方だったが、思わず腰を上げ大声で怒鳴る。
「ちょっ! 友だちはそんなことしないだろ!」
おじさんは朗らかに笑いながら、振り上げた俺の拳が届かない所まで、水しぶきを上げて逃げていった。生まれて初めての、恋の駆け引きが、始まる。
End.
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