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【賭け】コーヤダーイ

「賭けをしようじゃないか」と男は言った。  男は海だというのに、白いスーツに身を包んでいる。 「賭けって何を、」 「私が勝てば、君は私の言いなりになる」  海辺には誰もいない、ここはプライベートビーチなのだ。浅瀬に立てたパラソルの作る日陰で、男は白い帽子を少し浮かせた。 「だから何の勝負だよ」 「君は私に、何を求める?」  青年はまったく人の話を聞かない男の顔から目をそらし、波間をにらみつけた。  陽射しを照り返して光る海面は、底の白砂へと万華鏡のように、幾重にも模様をつけている。  眩しすぎる、と目を動かせば、白いスーツの男の素足が目に入った。少し話をしよう、と言ったのは男だったが、砂浜は暑いからと海の中にテーブルと椅子を運び、パラソルを立てたのは青年だ。  海に入るために男は白い革靴を脱ぎ、薄い靴下をとった。普段陽にさらすこともないのだろう、男のスーツの裾から覗く足の、そのくるぶしの白さに青年は夏らしからぬものを感じた。  くるぶしまでを海水に浸し、パラソルの下とはいえ、汗の一筋さえ流さずに男は涼しそうな顔をしている。  日焼けとは無縁そうな白い顔を、青年はぐっとにらむ。 「俺が勝ったら……一発ヤらせろ」 「……ほぉ。面白い」  男の口元がはじめて、ほころんだ。  青年はただ男をギョッと驚かせたかったのだが、男は青年の発言に興味をもったようだった。 「一目で金を持っている人間に、賭けと言われて金銭を要求しなかった」  男は三度手を叩いた、それが男の拍手だったらしい。 「対価が私の身体、というのも新鮮だ」 「……いやっ、ちょっ、」 「君は私の価値などわからぬだろうに、実に賢い選択をしたものだ」 「さっきのは、じょうだ……」 「金などいくらでもある。だが私自身は、ここにひとつきりだからね」  男はやはり青年の話など、聞く気がないようだ。 「私自身が賭けの対価であり、同時に性の対象である。君は、」  青年をちらりと見て、男はひとり話を続ける。 「君は賭けに勝てば、私を手に入れる。そして私が勝てば、君は私のものだ」  逃げたい、と青年は思った。十日もある夏休みを持て余すことはわかっていたから、同僚が話を持ってきたときには飛びついた。  割のいい夏の海の家のバイトだと思ったのだ。ビーチにやってくる人間が快適に過ごすための仕事、と言われれば、誰だってそう思うだろう。  ビーチでテーブルや椅子を運び、パラソルを立てる。飲み物や簡単な食べ物を用意する。十日間住み込みで、三食まかないつき、休憩と自由時間あり。記載された日給は、かなりいいのではないだろうか。同僚に手渡された一枚の募集要項には、そう記されていた。  こんなうまい話はないと、同僚に礼さえ述べて、募集要項の紙の一番下にある電話番号を鳴らした。番号の市外局番は都内で、すぐに繋がった。  3コールで繋がった電話の向こう側の人物は、事務的ではあるが説明は非常にわかりやすく、ここでのバイトならば大丈夫だと思わされた。  指定の日、事前に自宅へと郵送されていた電車の切符を使い、都内なら日帰りで行くことも可能な範囲にある半島へと、たどり着いた。  駅からは交通費として支給するのでタクシーを使うように、という話であったから、迷わずタクシーに乗る。タクシーに住所を告げれば「あぁ、あの洋館のお客さんですか。ゆったり過ごせていいですなあ」と運転手がにこやかに話し出した。  おしゃべりな運転手によれば、たまに人がやってきて過ごしているそうだ。「別荘なんでしょうねえ、うらやましい生活ですなあ」  適当に相づちを打つうちに、十日間の職場となる洋館へと到着した。タクシーの運転手から渡されたレシートのような領収書を片手に持ち、リュックサックを片方の肩に掛けた青年は、目の前の大きな門を見上げた。  チャイムを鳴らし名前を言えば、門は自動で開いた。門から玄関までが、こんなに遠い家を青年は見たことがない。青年自身は歩くことが苦痛になるわけではないが、毎日ここから出掛けるとしたら、自転車がほしい距離である。  ようやく着いた玄関の扉にはノックがついていた。昔の映画か何かでしか見たことがないが、これを鳴らすのだろう、カツカツッと金具を持って打ち付ければ、二枚の扉が内側へと開いた。 「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」  暗い色のスーツを着た男性が、頭を軽く下げていた。それに挨拶をしつつ頭を下げて、青年は電話の応対をしてくれた人だ、と気づいた。  十日間を過ごす部屋へと案内されると、そこは一階の客間だった。高級そうなグリーンの絨毯が美しい木目の床に敷かれ、大きな窓が三つもついている。それぞれに重々しいカーテンがあるが、今はそれも開け放たれて光が入り、目の前に海が広がっている。大変落ち着いた開放的な空間となっていた。  テーブルと椅子しかない部屋の奥に扉があり、まさかと開けてみれば天蓋付きの大きなベッドがあるだけの、ベッドルームであった。こちらの窓からも海を望むことができる。片側の壁にある扉を開ければ、浴室と洗面である。  ただの短期バイトにこの部屋はないだろう、と案内してくれた男性を探す。大きな声を出すのもはばかられて、青年は玄関付近をウロウロと歩き回った。 「おや、部屋は落ち着きませんか」 「あ、いえ、立派な部屋です。あの、俺はお客さんじゃなくて、バイトで来たんですが」 「もちろん、働いていただきます。といっても、ここには旦那様お一人ですから、それほど忙しくはないでしょう」  簡単に説明しておきます、と男性は仕事の内容を説明した。食事や掃除の係は別にいるらしい。男性はこの洋館にずっといるわけではなく「仕事のためすぐに戻ります」との話で、要は男性の代わりに旦那様の身の回りの力仕事をすればよい、というのが大筋だった。  その後、食堂に案内され、食事と掃除をまかなう老夫婦に紹介された。たしかにこの老人二人では、力仕事は無理だろう。青年は何でもやります、よろしくお願いします。と頭を下げた。 「この建物の前の海は、プライベートビーチになっております」 「プライベートビーチ……」 「旦那様は海を散策されることを好みますので、おいでになられたら、おそばに控えご一緒するようにお願いします」 「わかりました」  きっと旦那様もご年配に違いない、青年はそう思い込んだ。 「旦那様がいらっしゃる前に、海をご覧になったらいかがですか? 私は仕事へ戻りますので、あとは頼みます」  男性に送り出され、海へと続く砂浜を歩く。  のどかだ。暑すぎず、誰もいない。仕事といっても、一日中砂浜でパラソルを立てるわけではなさそうだ。  靴と靴下を脱ぎ捨て、ジーンズをまくって海水に浸かった。この辺りは湾になっているのだろう、引いては押し寄せる穏やかな波はぬるい。 「あ~、泳ぎてぇな~」 「泳げばいいだろう」  いつの間に来たのか、一人の男が立っていた。白いスーツに、靴も帽子も白。うさんくさいこと、この上ない。 「……誰だ、あんた」  ここはプライベートビーチとはいえ、砂浜は繋がっているのだ。外から歩いてくれば、ここにだって来られる。 「この辺に住んでいる者だが、君は?」 「あんたに教える筋合いはない」  ひどいな、と言って男はクツクツと笑った。  確かに尋ねておいて、それは失礼だったかもしれない。青年はそこの洋館でバイトに来たのだと答えた。 「あぁ、そうなの」  大して興味もないのだろう、男は海を眺めたまま返事をした。 「それで? 泳ぐのではなかったのかい」 「……泳ぐ」  青年はこれ以上、うさんくさい男と話す気になれず、少し波打ち際から離れた場所まで歩くと、ジーンズとTシャツを脱ぎ捨てた。  ぴたりとした黒のボクサーパンツだから、それほど下着には見えないだろう。青年は白いスーツの男の前を無言で走り抜けると、浅瀬の小さな波をいくつか越えて、頭から海水に飛び込んだ。  波打ち際ではぬるかった海水も、足が届かぬ場所までくると、ひやりとする。青年は濡れた髪を後ろに撫でつけ、ビーチに目をやった。  おそらく青年のことを見ているのだろう、と思った白いスーツの男は、消えてどこにもいなかった。  バイトの初日に、ずいぶん勝手な行動をとってしまった、と海から上がりTシャツで水気を拭いながら青年は洋館へと戻った。下着も濡れているからジーンズを履くわけにもいかず、どうしたものかと考えていれば、海へと続く扉が開いて老婦人が顔を覗かせていた。 「海は楽しゅうございましたか」と聞かれて、はい気持ち良かったです、と答えれば老婦人は頷きながら微笑んだ。 「あなたのお部屋の浴室の扉は、外とも繋がっておりますのでね」  外へと出てきた老婦人が、曲がった腰でゆっくりと案内をしてくれた。教えられた通りに扉を開けば、そこは確かに貸し与えられた部屋の浴室であった。  至れり尽くせりか、とシャワーを浴びながら青年は鼻歌をうたう。これでまかないのご飯が美味しければ、言うことないなと思っていた青年は、昼食の時間と呼ばれていった食堂のごちそうに歓喜の声を上げていた。  食堂では老夫婦と青年だけが、食事を摂っている。聞けば、仕事に戻ると言っていた男性は、すでに出掛けた後だった。 「あの、旦那様……は?」 「旦那様は昼は済ませてきたそうで、夕食はご一緒にとのことでございました」 「そ、そうですか」  いつ戻ってきたのだろうか。挨拶もせずに、海で泳いでいたとは。 「旦那様は、大層お優しい方でございます。そんなに緊張なさらず」  老婦人がにこにことしながら言うのだから、優しい方なのだろう。 「どうぞ旦那様のことを、よろしくお願いいたします」  なぜか老夫婦に丁寧に頭を下げられ、青年もあわててテーブルにつくほど頭を下げる。 「こ、こちらこそよろしくお願いしますっ」  ふふふ、と嬉しそうに笑っている老婦人がかわいらしくて、青年も思わず笑顔になった。  旦那様が呼ばれるまでは、本当に仕事がないのでございます。どうぞ自室で休まれてください、と押しやられ部屋へと戻ったが、やることがない。 一人ではもて余す広いベッドの端に横になると、青年は移動と遠泳の疲れもあり、すぐに寝入ってしまった。 青年が眠ってしまうと、音もなく扉が開いた。入ってきたのは白いスーツの男で、青年のベッドの脇に立つと、しばらくの間その寝顔を見つめていた。 白い手を伸ばし、青年の頬にそっと触れる。ひくりと動いた肩をいさめるように撫で、額に唇を軽く押し当てると、男は部屋を出ていった。 トントン、トントンと遠くで聞こえる音に、意識が浮上する。 「そろそろ夕食でございます」 小さな声がどこかで聞こえて、青年は飛び起きた。寝てしまったのだ! すみません、すぐ行きますっ。と答えれば、ごゆっくりどうぞと返事がかえってきた。 これでは給料泥棒と言われても仕方ない、慌てて食堂へ向かうと、昼間には居なかった人物が席に着いていた。 それは白いスーツの男だった。テーブルの先の奥に座っているのだから、彼が旦那様なのだろう。青年は昼間の失礼な態度が、急に恥ずかしくなった。 失礼を詫び改めて名乗った青年に、旦那様は頷いたキリだった。 「君が私に会ったのは、今日が初めて?」 「? はい、たぶん」 「そうか」 とだけ旦那様は言って、あとは黙ってしまった。 共に席についている老夫婦も、何も話さなかったので、青年はこれがここの食事のマナーなのだろうと、黙々と箸を進めた。いやにうまい味噌汁が気になって、老婦人に聞くと伊勢エビの頭出汁でございます。と言われた。 「伊勢エビ、俺初めて食べました」 そうか、これが伊勢エビの味か、と青年が感動していると、旦那様が「明日は伊勢エビの刺身にしてくれ」と老婦人に頼んだ。 えっ、旦那様めっちゃいいやつ、と思わず声に出る。さすがに口の利き方がまずかったか、と口を手で抑えたが、出た言葉は戻らない。 しかし、旦那様も老夫婦も何もなかったような顔をして、食事を続けている。 「あの、俺、口が悪くってすみません」 「かまわないさ。それが君なんだろう、そのままでかまわない」 旦那様がいいと言うのなら、それでいいのだろう。青年はぺこっと頭を下げた。 翌日も特にすることはない、という旦那様のお達しで、青年は暇をもて余していた。老夫婦に断りをいれると、海水パンツにサンダルをひっかけて、そのまま海に出た。 青年は海が好きだった。何も考えずにボーッと浮かんでいるのもいいし、体に感じる浮力を利用しながら泳ぐのも気持ちがいい。 たいがい凪いだ海であるが、周期でたまに大きな波がくる。それに乗って腹と胸でバランスを取り、ボディサーフィンをするのも楽しかった。 青年がビーチに戻ると旦那様がいて、白いスーツのまま、青年をじっと見ていた。 「何かご用でした?」 そっちが用事はないって言ったんだぞ、言外に匂わせつつ、青年は旦那様のところまで歩いていった。 「少し話をしよう」 旦那様がそう言って、青年は一旦シャワーを浴び、またビーチへと戻った。テーブルと椅子を運び、パラソルを立てたのは青年である。 「賭けをしようじゃないか」 向かい合わせで座った旦那様が言う。青年はちょっとした反抗心で、望みもしなかったことを口にする。旦那様に快諾され、賭けとやらに勝っても負けても、逃げられないことを悟り、逃げ出したくなる。 「全てをやめて投げだし、逃げるかい?」 「まさか」  本当は声をあげて逃げ出したかったが、先手を打たれたことで、闘争心に火が点く。 「賭けの内容は?」  ぶっきらぼうに尋ねれば、意外な返事がきた。 「君が、私に心から感謝すること」 「心から……感謝」  確かに雇われているから金はもらう。だがそれを心から感謝するかといえば、別である。青年にはこの雇い主である旦那様に、心からの感謝を捧げる理由がなかった。  賭けは勝ったようなものじゃないか、青年は内心嬉しくなったが、勝った場合の賞品のことを思い出し、また憂鬱な顔に戻った。 「ふふふ……君は本当に全て顔に出る正直な人間だねぇ。いいよ、勝ったご褒美は変更可能だ」 「えっ、いいのかよ」 「構わないよ、好きにしたまえ」  旦那様にとっては、この小さな賭け事自体が、ささいなお遊びなのだろう。ようは青年が心から感謝をしなければ、賭けは青年の勝ちなのだ。  俺が勝ったら高い酒でも飲ませてもらうか、青年は飲んだこともない高い酒の味を想像して笑った。この賭けには勝つ気しかしなかった。  結果からいえば、賭けは青年の負けである。  賭けをはじめて二日後、青年は危険な目にあった。カーブの多い山道を抜けてきた県外ナンバーの自動車が、ブレーキが利かなくなり、道を歩いていた青年に突っ込んできたのである。あわや自動車事故に巻き込まれるところであった。  青年を助けたのは、青年と車の間に割り込んできた、一台の車である。先端に走る肉食獣の付いた、深い紺色をした光る車体の車が、そのボディを犠牲にして青年の命を助けたのだ。  紺色の車体の右側にめり込むようにして停車した、県外ナンバーの車の運転手も無事であった。すみませんと謝りながら降りてきた運転手を無視して、青年に怪我はないかと尋ねたのは、左シートでハンドルを握っていた旦那様であった。  青年は旦那様に、心からの感謝を捧げた。旦那様の車が、と震え声で言った青年に、車など買い直せばいい、と旦那様は即座に言い放った。  青年は落ちた、恋や愛などではないはずだ。人として、旦那様の人間性に惚れ込んでしまった。  警察が来て、諸々の検証が済み、とにかくみなが無事で良かった。と話がまとまり、洋館へと戻った。  テラスで旦那様と二人きり、お茶を飲みながら青年はどう切り出したものか悩んだ。元より違いのわからぬ紅茶の味など、熱いぬるいもわからない。 「……あの、俺、本当にありがとうございました」 「いいさ」  旦那様はせんべいの一枚を青年にくれてやった、くらいの軽さで返事をする。もっともこの旦那様がせんべいを食べるところは想像もつかなかったが。 「……えっと、それでその……賭けは、あなたの勝ちです」 「おや」  旦那様の瞳が少しだけ見開かれる。いいのかい、という表情で青年を見つめる。 「私が勝てば、君は私の言いなりだよ?」  唇を噛んだ青年は、だがしっかりと頷いた。 「賭けは賭けです、あなたに従います」 「ふぅん」  旦那様は面白そうに唇をあげた。瞳がにいっとつり上がる。 「今夜、私の部屋へおいで」  それだけ言うと、旦那様は一人立ち上がりテラスを後にした。青年は言われた言葉の意味をよく考え、自室に戻るとスマホであることを調べはじめた。  夕食後、調べた情報を元に、どうにか受け入れ準備とやらを済ませた青年は、寝巻き代わりに着ているタンクトップとハーフパンツという姿で、旦那様の部屋へと向かった。  ノックをして、どうぞと言われ踏み入れた寝室は、青年の借りている部屋よりもよほどシンプルで、シックであった。  ベッドの上で脱がせた青年を探って、おや綺麗にしてきたの、と旦那様は嬉しそうに笑った。青年は男性とのそういった行為が初めてであることを告げ、もしも自分とすることが気持ち悪ければ、無理はしないでほしいと頼んだ。 「君こそ、怖くはないのかい」  日に灼けた青年の肌とはまったく別物の、陶器の色をした旦那様の素肌を見ても、青年は怖さも気持ち悪さも、覚えなかった。ただ同性であるのに、欲を感じて、それが恥ずかしかった。  はじめての行為を考慮してくれたのか、旦那様はとても優しく、青年は内臓を押すような異物感にモヤモヤしたものの、前を弄られてすぐに果てた。旦那様に求められたのは一度きりで、無理強いをされることもなかった。  シャワーを浴びて戻ってきた背中を見たときに、旦那様の腰にわずかに残る男の手形に、青年は気づいてしまった。  わかってはいたが、やはり自分は暇つぶしの遊びだったのだ。旦那様が普段は、自分にしたようなことを、他の男に与えられているのだと思うと、勝手に嫉妬心が沸いた。  このままここで休んでいけというのを、青年は嫉妬と恥ずかしさに耐えられず、与えられた自室へと逃げ帰ってしまった。  翌日以降、旦那様は姿を現さず、青年は仕事らしい仕事のないまま日が過ぎていった。  いよいよ明日で最後という日、久々に夕食の席に姿を見せた旦那様の部屋を、青年は夜になって訪れた。ほとんどが給料泥棒のような仕事であった、最後の夜に話でもしようと思ったのである。  ノックをした部屋で、どうぞと言われ中へ入る。旦那様は一人で大きなグラスに入れた琥珀色の酒をたしなんでいるようだった。  陶器の色した肌がほんのり染まり、常より緩い微笑みを浮かべた旦那様に、勧められるままに酒を飲む。青年は酒に弱いというほどでもないのだが、色を感じさせる旦那様に脳が痺れるように酒が効いていくのを感じていた。 「いよいよ明日で仕事がお終いになります、お世話になりました」 「こちらこそ、世話になったね。短い時間だったが楽しかったよ」  桃色の頬、風呂にでも入った後なのかバスローブの襟元から覗く肌も、ほんのり桃色である。 「いや、俺こそほんとに、命まで助けていただいて……感謝してます」 「私こそ、退屈な日々に潤いをありがとう。……心から感謝を」  カチリ、と時計の針が動いた。青年は緩んだ頭で約束を思い出した。そういえば賭けをしていた、心からの感謝を受ければ勝ちだと。 「今ので俺も勝ち、ですか?」  青年がニヤリと笑った。ここでの暮らしでさらに日焼けした肌のせいで、歯だけが白く浮くようだった。 「なんの話だい」 「忘れたとは言わせない、賭けの話だ。俺も勝ちだろう。約束通り、あんたを抱かせろよ」  旦那様は一瞬だけ、虚をつかれたような顔をした。  だがすぐに「あぁ」と合点がいったように、旦那様が唇をほころばせた。  男が一人、笑っただけである。だが青年にはシャクヤクのつぼみが、ほころんで咲いたのが見えた気がした。  互いに酒に酔っていたのだろう、そういうことにしておこう。 「いいさ、抱くといい」  青年は目の前の男に獣のように覆い被さると、そのまま押し倒した。ベッドにも行かず毛足の長い、柔らかな敷物の上で犯した。  青年がどんなに激しくしても、目の前の男は嬉しそうに、気持ちが良いとよがってみせた。夢のような時間だった、実際には夢だったのかもしれない。  青年が目を覚ますと、ベッドの上にいた。隣には夕べ淫らに染まった旦那様が寝ていた。 ベッドから出るときに掛け布をめくると、陶器の色した肌の腰にはくっきりと青年の手形が残り、あらゆる場所に吸い付いて染めた痕が散っていた。そっと肩まで布を賭け、青年は寝ている顔の額にキスを落とし出て行った。  朝食後、いつものように海を歩く。贅沢なことだ、これがすっかり日常になってしまった。現実の世界に戻って、やっていけるだろうかと青年は一人苦笑する。 「もうすぐ行くんだろう?」  声を掛けられた振り返れば、いつもの白いスーツの旦那様が立っていた。 「仕事の契約は今日までだからな」 「そうか、仕事の契約か」と旦那様が言う。 「元気で」 「……君もね」  旦那様と会ったのはそれが最後だ。昼にタクシーが呼ばれて、駅まで乗って行った。  夢のような夏休みは終わり、元の生活に戻るのだ。  約束よりも多めの金額が振り込まれた銀行口座を確認して、青年は電話番号を鳴らした。3コールで出た声は、いつかの男性のものだった。金額のことを言えば、旦那様が大変楽しかったと喜んでおられましたので、と返事がきた。  電話を切って、もう遠い夢のようになってしまった夏休みを思い出す。  あの海、浜辺、白いスーツの男、あれは本当に現実のことだったのだろうか。  どうにもたまらなくて、青年は次の休みにもう一度あの洋館を訪れた。かといって洋館を直接訪ねる度胸もない、きっと何しに来たと追い払われておしまいだろう。  勝手に敷地に入っていいものかわからず、結局ぐるりと歩いて浜辺伝いに近くの海を歩くことにした。  裸足になり、砂を踏んで歩く。あの日々と同じ砂、少し離れたところに見える洋館。あれは夢のようではあったが、確かに存在した、現実の日々だったのだ。  なんとなくホッとして、青年はうつむいていた顔を上げた。 「あ、あんたは……旦那様」 「……君は、誰?」  かすかに傷ついた。身体の関係だってある、ほんの少し前の話ではないか。からかっているならわかるが、目の前の白いスーツの男には、そんな様子はまるでない。 「少なくとも、あんたと二回はセックスした男だけど」 「……ふぅん?」  青年は男のスーツよりも白い、陶器の色をした肌を知っている。 「最初にあんたが俺を抱いて、次に俺があんたを抱いた。あんたすげーよがってたぜ」 「そうなの……ねぇ、話を聞かせてくれる?」 「話を聞かせたら、礼をくれるか?」 「礼?」 「あんたを、抱かせろよ」 「いいさ、好きにするといい」  青年は戻るべきではなかった。  どこか噛み合わない白いスーツの男が、なぜ噛み合わないのか気づけ、というほうが無理であろう。  白いスーツの男は、現実世界を一日ごとに逆行して生きているのだ。人々が初めて男に出会うとき、それは男にとってはその人物との最後のときを示す。  話を聞き終えた白いスーツの男は、そのことを青年に実に軽く伝えた。さっきそこで猫が昼寝をしていたよ、と話すのと同じような感じで。 「それで、私を抱くの? それとも抱かれたい?」  嘘だとは思わなかった。  不思議なことが多すぎた。  自分は戻るべきではなかったと、青年はようやく気がついたが、もう遅かった。  逃げたい、とは思わなかった青年は「どっちも」とだけ返事をした。  白いスーツの男が笑った。それはまるで、シャクヤクの花が今が盛りとほころんだような微笑みだった。

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