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【ワダツミの誘い】吐夢

 塩分の含んだ風がしっとりと海沿いを歩く青年の頬を撫でて行った。先程までは3人で楽しく時間を過ごせていた。  それが今や1人で海沿いを歩く羽目になったのは、親友と彼女であった少女の言葉に痛く胸を引き裂かれてしまったのだ。 「みんなで楽しかったのに、チクショー」  恨み言を漏らして深い溜息を肺いっぱいに吸い込んだ息を全て吐き出す。そして肩を落としとぼとぼと海沿いを歩いた。  少し歩くと落ち込んでいた気持ちが怒りに変わる。バイト代で皆と旅行すると決めたのは数ヶ月前で、一緒に来た親友は学業優先で親にバイトを止められていたし、彼女に至っては自分が出そうと必死に働き3人分を貯めたのだ。 「感謝こそあれ、アレは無いだろう...クソが」  少しでも溜まった怒りや鬱憤を外へと逃がそうと足元に転がる石を蹴りあげて、ハッと我に返った。  人に当たったらヤバイ!慌てて石を蹴りあげた方を確認すると、初老の男性がこんな夏には不釣り合いなスーツを着て立っていた。  だが当たったか、どうかは確認もできないし、そんな素振りもない。無視してしまおうかと一瞬通り過ぎようと足を進めたが、どうにも気になってその場で足を止めた。  2人が互いに逆を向いて並んで立つというシュールな2人が出来上がった。 「あのっ、石...当たらなかったっすか?」 「あぁ、君が蹴った石でしたか。車も通ってないのに変だなとは思いました」  そう丁寧な言葉使いで返答を返してきた男性は、低く張りのある初老とは思えない声質を持っていた。 「あっ、当たりましたか?」  青年は変な汗を流しながら、男性に体を剥き直すと男性はスッと手の甲を上にして、少年の前に差し出した。  赤く腫れた手の甲、そこに当たったのだろうと青年は慌てて男性の手を取った。 「うわ、すみません!落ち込んでて思わず蹴ったんです」  理由を告げれば男性は、その青年の手を強く握った。 「えっ?」 「大丈夫、すぐに治りますので...それよりも、貴方の心は深く冷たい海底のようだ。ひとつ、アルバイトを頼まれてはくれないだろうか?」  いきなりの申し出に青年はキョトンとした顔を向けたが、初老の男性は表情すら変えずに青年を上から下まで値踏みをしているかのように見た。  白い半袖と7分丈のジーンズで、普段着の自分が恥ずかしいとでも言いたそうな表情を見せた青年に、男はポンポンと肩を叩いて伝えた。 「少しだけでいい...貴方の愚痴を私の知り合いに言ってくれるだけでいいんだよ。それだけでアルバイト代金は弾みますから」  旅費3人分を支払って、少しだけ手元にあった額を思い返す。もう諭吉が1枚財布を温めてるだけで、今月は切り詰めなくてはと思っていただけに、ありがたい話だしましてや初老の男性の手に石を当ててしまった罪悪感もあって、頷いた。  男に誘導され向かったのはプライベートビーチ。入る前に私有地につき立ち入り禁止と書かれた看板が目に入った。  ヤバイ人ではないのか?割のいいバイトと言いつつ、実のところそんな美味しい話が転がっているはずは無い。  そう思いつつも、ついて行くと海の中にパラソルが立っていて、机も椅子もある風景に目を疑った。 「えっ、あれ...なんですか?」 「ほら、人がいるでしょ?その人と話をして欲しいだけなんですよ...頼みましたよ?」  そう言って諭吉3枚を無造作に握らされて、青年はその札の量に驚き、目を上げれば初老の男性は姿を消してしまっていた。  何度か札と辺りを交互に見渡したが真っ黒なスーツでそれでなくても目立つ男性は見つけられず、これから相手をする男性にでも返そうと砂浜を歩いた。  サクサクと歩いて行き、目の前の海に白いスーツの胡散臭い男性が座っているのを見て、さらに驚いた。確かに人は確認していたが、まだそんなに歳をとっていない人が話し相手なのだ。  初老の男性に頼まれたからと、勝手に高齢者だろうと思っていたものは見事に打ち砕かれた。 「あの...あのっ!」  何度か波打ち際で話しかけたが男は、気付いていないかの様に、遠い場所に視線を向けていた。  話し掛けても、振り向いてもくれないので、青年はジーンズの裾を捲りあげ、空席のある場所まで歩いた。  ヒヤリと冷たい海水が、足の下の砂まで攫っていく擽ったさに口元を緩めながら、椅子に座った。  何も話さない...一体どうしろと言うのか。そう、頭の中でグルグルと言葉を駆け巡らせていると、目がカチッとまるで嵌ったピースのような感覚に襲われた。 「名は?」 「とっ、智也(ともや)ですっ」  耳障りのいい澄んだ声質だった。歳は20代だろう。全身白づくめで帽子までも白い。 「智也...か、私は(りゅう)という」  簡単な自己紹介の後に龍から手を差し出され、素直に手を触れ合わせた智也。一瞬ではあったが相手の体温を手のひらに受け2人は視線を絡めた。 「しては、智也...ここはプライベートビーチだぞ?迷い込んだのか?」 「えっ?いや、あのっ黒スーツのオジサンがここに来て話し相手になれって言って金を渡されたんだ...しかも金額多いから、返そうと思ってて」  ポケットから、札を取り出してテーブルの上に置いた。風で飛ばされるだろうからと手はしっかりと乗せたままで。  心当たりがあったのだろう、男は切れ長の美麗な眉をピクリと揺らしてから、クククと笑った。 「ならば、返さずともいい、少し話し相手になってくれないか?」  そもそもプライベートビーチだって事にも驚きだが、こんな自分との会話でそんな楽しませられる自信もないと、智也は1枚だけ引き抜いて残りを差し出した。 「ん?なんだ?」 その行動に不思議に思ったのだろう。龍がひとつ首を傾げると、智也はここぞとばかりに言い放った。 「話し相手になるのはいい、が金が多すぎる。俺はそこまで人を楽しませられる技量もなければ、話題もない、残念ながら空想の話とかはまず苦手だ...それを考えたら返すのがいい、それを受け取らなければ俺は帰る!」  そう言いきって立ち上がった。そんな智也を見上げて、龍はすぐに視線を逸らした。 「ククク...その時点で面白い奴だと思うがな?」  そう言って残りの札を、智也の手から引き抜いた。その行動に智也もホッと胸をなでおろし話が始まった。 「へぇ随分勝手な友達だな?金を出したのはお前だろ?」  智也は先程の実体験をつらつらと話せば、楽しそうに龍は話を聞いて、続きを求められる。 「金を出す出さないは、最初にきめてたから...確かに気持ち的に引っ掛かりはあるけど、俺が出すって言ったし、そこは責められない」  智也が溜息を吐いて一気に話せば、龍は楽しげに笑った。 「彼女を奪われて、腹が立ったか?」  テーブルに両肘を付き、手の甲に顎を乗せ前のめりで話を聞いてくる龍の顔の近さに、智也は少し身を引いて話を続けた。 「...立たないやついないだろ」  頬が少し赤く染っているのは、恥ずかしいからなのかそれとも目の前の男に、視線が釘付けになったせいか。  顔があまりに綺麗すぎるのだ。整った全てのパーツ。スタイルも細すぎもせず、太すぎもせず、筋肉もついていそうな姿になんとも言えないむず痒さがあった。 「そうだな...で、智也はその2人に報復を願うのか?」  その言葉に智也は違和感を感じた。自分の気持ちと向き合い、自分はこれから彼らとどうして行きたいのか。それがわからないから今モヤモヤと気持ちを燻らせているのだ。 「わからない...けど、報復とか復讐とか、そんなんじゃない...ただ、ずっと仲良くやってたからどうしていいのかわからない」 「優しいんだな」  波が攫う砂が脚の裏で流れ、巻き上げられた砂が脚の甲に乗るから、指先を少し動かして払う。水の力と脚の力で砂は落ちていく。 「ははっ優しくないですよ、俺は俺のやりたいようにやってる...優しくしようなんて思ってない」  パシャと水音を立てて龍は脚を組んだ。 今まで、動かなかった龍の動きに、智也が視線を上げれば、テーブルの上にはいつ運ばれてきたのか、オレンジ色のジュースがグラスに入っていて、皿の上には果物が乗っていた。  皿の下には氷が敷かれていて、その上に一房の葡萄。 「お食べ...」  房から1粒を取ると、皮を剥いて智也の口元へと運んで来た。 「ちょ、いや、自分で出来ます」  その行動に驚いた智也は、背もたれにめいいっぱい背を預けるが、龍はそれを見越してか立ち上がり、テーブルに手を置いて差し出して来た。 「私の剥いたのは食せないと?」  薄く微笑んだ龍の雰囲気に押され、思わずゆるゆると口を開けば、その口の中へと果実の甘みが広がり、指で中まで押し入れられた果肉が智也の舌の上に乗せられた。 「ふふっ...君の中は温かいね」  とてつもなく妖艶な笑顔に智也は、果実を噛む事も忘れ喉を通した。完全に呆けた顔をしているだろうと自覚したのか、慌てて龍の手を払い腕で自分の口を拭った。 「とても楽しかったよ...」  そう一言龍が口にすると、穏やかだった波が急に白波をたて、泡だった海水が盛り上がって智也を飲み込んだ。  海水に飲まれ溺れないようにと智也はもがいたが、上下さえ分からずに意識が遠のいた。何が何だかわからないままに智也の身体は砂浜に横たわっていた。 「ぅ...っ、ここ、どこだ?」  何があったのかと、目覚めて辺りを見回したが、先程まで話していた男の姿も、黒いスーツの男も見当たらずに慌てて立ち上がった。  そこはただの砂浜で、日は落ちかけていて真っ赤な太陽が、ジリジリと最後の光を放っていた。時間が経過していたのは確かで、自分の手の中には札が3枚握られていた。 「結局返せなかったのかよ...てか、受け取った記憶が無い...なんなんだよ」  深く息を吐いても、その人は今ここにはいないのだ。もし次に会う機会があれば、そう思いながら智也は帰りの電車に乗った。  友を、彼女を、同時に失った悲しみはまだ心を燻っていたが、あの変な出来事がそれを上手く隠してくれているかのように気持ちは軽くなった。  「あしたから、また...がんばるか」  トロトロと口から一言一言を大切に呟いて、目を閉じれば電車の揺れに身を任せて目を閉じた。  あれは一体なんだったのか...そんなことを考えるのも億劫になり、思考が夢なのか現実なのかわからない世界に入り込んだ。 「また、逢う日までな」  その言葉も本当に言われたのか、夢が勝手に作り出したのかわからないままに、自宅近くの駅までゆっくりと眠りについた。  家に帰ったのもわからないまま目を覚ましたのは、自宅であった。 「ぅ...」  ぼやけた思考をハッキリとさせていくのにベッドから足を下ろし、フローリングの冷たさに昨日の海の中を思い出した。  そして、これからどうしようかと考えた時だった。ピンポンとチャイムが鳴り家族が玄関で話してる声が聞こえた。  謝りに来たのか、それは友の1人だった。けれど様子が何かおかしい。 「智也ぁ!海行くぞー!」  その声を聞いて智也は、昨日持ち帰った荷物を見た。昨日の朝と何も変わらない。買ったばかりの海パンが履いたはずなのに、まだ買ったままのタグが付いていた。 「まさか...夢だった...のか?」  これから起こることを予知したのかもしれない。ただの夢だったのかもしれない... ただ、寝て起きた布団の中は足元が砂まみれであったことに気づくのは、智也が帰って来た後になった。 END

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