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【送る人】蜜鳥

「ごめんくださーい! 誰かいませんか?」  なけなしの体力を振り絞って大声をあげた。  最寄りのバス停から徒歩三十分、隣家まで推定五百メートル。畑の真ん中にある古い日本家屋の入口で、僕は途方に暮れていた。  夏休みを利用して遊びに来たのは、元祖父母の家だ。  病気で倒れた祖母が返らぬ人となり、その後を追うように祖父も亡くなった。二人が他界してからもう十年もたつ。  思い出がつまっていて売りたくない、でも田舎すぎるから住みたくはない、と主張する人たちのお陰でこの家は残されていた。そこに三年前から住みだしたのが、父の兄弟姉妹の中で一番年下の嶺二(れいじ)さんだった。  午後に到着予定、と伝えてもらったはずなのに。その肝心の現家主ははどこにいるんだろう?  この炎天下を帽子もかぶらずに歩いてきたのは無謀だったのかもしれない。でもまさか留守だなんて。  ミーン、ミンミン...  ジャワジャワジャワ......  セミの大合唱が頭に響き、強烈な西日で世界が黄色く見える。あーあ、死ぬ時に見る風景ってこんなんなのかな。 「あれ、来るの今日だっけ?」  くらくらする頭を抱えて玄関わきに座り込んだ僕の後ろから、気だるげな声が聞こえた。 + 「嶺二さん、ご飯は?」 「三時に昼飯食ったの、あとツマミと酒とタバコがあるから。つか飯は殆どつくってねーから、朔人(さくと)の分は自分で何とかしてな」  そうなのだ、子供の頃は時間になると誰かが作ってくれたご飯が出てきてたけど、こっちが大人になるとそうはいかない。  持ってきたのは仏前に備える菓子と、多少の食料。近くに店はない、とは聞いていたけどここまでとは。  でも子供が遊びに行くのと、大人になって行くのでは随分勝手が違うことに今更驚いた。  家にあった野菜と嶺二さんがつまみ用に買っておいた鯖の缶詰を炒め、どうにかおかずらしいものをつくった。それを朝ごはん用に買ってきたパンに挟んだのが僕の晩飯になった。  裏の畑から失敬してきたエンドウ豆を台所で茹で戻ってくると、嶺二さんは縁側でタバコをふかしていた。  町だと電子タバコばかりで、煙草の匂いを嗅ぐのは久しぶりだ。  ハーフパンツから出る脚は毛も薄くて妙に艶めかしい。うっかり突っ立って見ていると、先に気付いた嶺二さんが「座れ」とでもいうように隣を叩いた。  ザルを挟んで縁側で横並びに座ると、庭から虫の声が聞こえる。  ふぅ、と突き出した赤い唇から流れる煙が暗闇に溶けてゆく。 「蒸し暑いね」 「夏だからな。脱げばいいじゃないか。そうすれば蚊が全部お前のところに行く」 「意地悪だなぁ、ここって虫避けの薬はないの?」  縁側の端に置いた蚊取り線香からは頼りなさそうな煙が一筋立ち上っているだけ。 「ははっ、そんなもんねーよ。そうだ、寝床はどうする? 俺と一緒でよければ蚊帳が吊った部屋があるけど」  そういえば嶺二さんのところには蚊が寄っていない。なぜか僕ばかり刺されているのだ。  縁側の柱には、今の天井からそのまま引っ張ってきた白熱球がS字フックで雑に吊り下げられている。そのぼんやりりとした光に浮かぶ横顔は、湿度も温度も感じさせないのが不思議だった。 「あ、不束者ですが、いびきはかかないので、一緒の部屋でおねがいします」 「...だよな、分かった」  エアコンのないこの家では、窓という窓は全開になっている。網戸を全部して目ているのに、気が付くと蚊が入り込んでいた。いったいどこから入り込んでくるのか。耳元で不快な音を聞くたびに、痒いところが増えていた。 「暑ぃな...」  嶺二さんが頭を柱に預けて目を閉じた。上を向くと顎のラインが際立って見える。のけ反った首に喉仏が浮き出ている。ふう、とため息をついて脱力した身体が、なぜかやけに艶めかしく見えて目が離せない。  顎下のラインを上に辿ると柔らかい髪の間に白い耳。光の加減だろうか、薄っすら光っているようにすら見える。  その光に吸い込まれるように僕は手を伸ばしていた。指先が、耳を隠す毛に触れる手前で、目を閉じていた嶺二さんが突然こっちを向いた。 「わっ、たっ、あのっ!すいません...」  行き場を失った手を引いた僕の目に、柔らかそうな唇がすうっと弧を描くのが見えた。  長すぎる前髪の後ろで、物憂げな色っぽい目が細められ、顔が近づいてきた。おでこがぶつかる! と思って目を閉じたのに、何も衝撃はなかった。  ただ、「先に、風呂入る」と耳元で響く声を残して、嶺二さんが部屋に入ってゆく気配がした。 +++  仕舞い風呂からあがると、居間に人の気配はなかった。薄暗い家の中に、空け放した窓からいろんな音が聞こえてくる。遠くの田んぼのカエルの声、庭で活動している見えない生き物の気配。ぬるい風が縁側から奥の台所まで抜けてゆく。田舎の空気だ。  この家は不思議な匂いがする。畳の匂い、蚊取り線香の匂い、嶺二さんの煙草の匂い、庭から入ってくる植物の匂い、家の前を流れる用水路の水の匂い。そんな全てが、どこか懐かしい記憶を擽っていた。  夏休み、突然思いたってここに来た表向きの理由は失恋だった。大学で初めての夏休み直前に、卒業式で告白されて付き合っていた彼女に振られた。同じサークルの人といい感じになって、はれて付き合うことにした。お盆には花火を見に行こう、と言っていた癖に。    ぽっかり空いた予定と、むなしい心の隙間を埋めるため、一人旅に行こうと決めた。  でも行き先にここを選んだのは、夏の始まりにこの匂いを感じたかったらかかもしれない。    電気のついている方に行くと、仏間の隣の部屋に子供の隠れ家みたいな謎の網が吊ってあった。庭から離れているせいか、やけにしんとした空間にぼぅっとしながら煙草を吹かす嶺二さんがいた。 「これが蚊帳?」  聞いたことはあるけど、実物を見るのは初めてだ。入口を探してぐるぐるしていると、中で煙草を吸っていた嶺二さんが笑い出した。 「ばーか、裾を持ち上げて入るんだよ」  言われた通り這いつくばって下から入り込むとテントみたいで意外と圧迫感もない。  ぴったりくっつけて並んだ、少し湿っぽいせんべい布団の上に座ってみた。  作務衣のズボンの丈が短いのか、嶺二さんの足が長いのか。立膝で座っていると太腿まで露わになっている。目のやり場に困って下を見ても、布団があるだけ。  布団は、寝るためのものだよな。うん、ぴったりくっつけて敷かれているのは蚊帳の中に収めるためだよな。分かってる、分かっているんだけど。距離が近いんだよ!  これじゃあ温泉旅館に来て、ご飯の後に襖を開けたら布団がくっついててお互いに照れる恋人同士みたいじゃないか。  意識し出すともうそれしか考えられなくて、ドキドキしてきた。 でも緊張していたのは僕だけだったみたいで、「これ、吸い終わったら電気消すから」という宣言通り、蚊帳に入って三分もしないうちに寝ることになった。  暗くなるとすぐに聞こえてきた寝息に少しがっかりしながら、僕も目を閉じた。 +  ん、あ…おしっこ? 寝ぼけた頭で尿意と勘違いしたぬるい感触は、どんどん腹の奥で高まってゆく。聞きなれない粘着質の水音がして、せり上がってきたそれが何なのか気付いた。  はっと目をあけた瞬間目に入ったのは、脚の間で上下する青白い肩だった。  驚いて上半身を起こすと、気持ちよく熟れあがった僕の中心を咥えたまま、服も下着も身に着けていない嶺二さんに上目遣いで笑われた。 「れい......あっ!、ちょっと!」  強く吸い上げながらゆっくり上に向かって口で扱かれた。ちゅ、と音がして口から出されると、心とは裏腹に物足りなさで腰が揺れた。嶺二さんの白い指が、唾液に濡れて光る筒に絡みついた。  あ、気持ちいい。止めないで。  僕の心の声が聞こえたのか、低く甘い声が夜の部屋に響く。 「俺の中、挿ってみる?」  背側に回したもう片方の手の先に視線をやって、挑発的な目で僕を見ている。  挿るって...男となんかしたことはないし、そんなこと考えたこともなかった。挿る先を想像して一瞬固まった僕の上に嶺二さんがにじり寄った。  逃げようとする僕の肩を押え、腰の上に膝立ちになった。嶺二さんの身体は、例え中央で僕と同じものがそそり立っていても、滑らかで美しくて、この世のものとは思えなかった。  呆然としている僕に微笑みかけた唇の色が、目に焼き付いた。  嶺二さんは両手を後ろに回し、刺激を求めてだらだらと先走りを垂らす僕に手を添えた。そして、に僕のモノを収めて気持ちよさそうに腰を振り始めた。  色白な肌は冷たいなのに、嶺二さんの中は温かく、優しく僕を締め上げた。粘膜のうねりを感じているうちに理性はとうに消え、いつの間にか白い腰を両手で掴み、欲望のまま下から激しく突き上げていた。  一度出しただけではおさまらなかった僕の本能は、何度も嶺二さんの身体を求めた。体位を変え、躊躇いもなく身体をぶつけあっている中で、嶺二さんは言った。 「おかえり、朔人」と。 +  翌朝、目が覚めると僕は寝る前と同じようにTシャツと短パンをはいていた。夢にしてはリアルすぎるから、これはした後に着せてもらったのだろうか?    今からはテレビの音が聞こえる。顔を洗いながら、どんな顔をして会えばいいのかとさんざん悩んだのに、嶺二さんは普通の顔をして煙草をふかして座っていた。  ゆっくり寝たせいか、朝の健全な光のせいか、昨日散々あてられた気だるげな色気は消えていた。いや、雰囲気も全然違って見える。むしろ別人みたいだ。  やっぱりあれは夢だったのかな。欲求不満が溜まりすぎて、よりにもよってこんな時にあんな夢を見るなんて。おれのちんこ、節操なさすぎる。  それにしても、あれだけリアルな夢を見たのに夢精もしてなかったのは助かった。  インスタントコーヒーとトーストの簡単な朝食の後、仕事に出かけると言う嶺二さんに思い切って聞いてみた。 「ね、ところで嶺二さんっていくつ?」 「は?」 「なんか、勝手に想像してたより若いし」  嶺二さんは眉をひそめてから、大きく息を吐きだして人差し指で俺の胸をついた。 「あのさ、まあいいかと思ってスルーしてたけど、まずは名前間違えてる。俺は蓮二(れんじ)、お前の従兄。小さい頃さんざん遊んだのに、もしかして覚えてない?」 「はい? いやいやいや、嘘でしょ? この家に住んでるのは嶺二おじさんのはず……」 「嶺二おじさんって誰? そんな名前のやつは親戚にいねーだろ。お前何ボケてんの? あれ、もしかしてあれか、よく遊びに来てた近所の兄ちゃんが俺と似た名前だったけど……、つか、その人確か去年亡くなったはず」  それを聞いた途端、断片的に子供の頃の風景が蘇ってきた。  「嶺ちゃん、嶺にいちゃん」って抱き付いた青年の纏う空気。面倒くさそうな顔するくせに、優しい笑顔。  そして、他の従兄弟たちには内緒で、二人きりで遊びに行った森。グミを口移しして、先に潰した方が負けだって、ゲーム。グミと一緒に、柔らかいものが口の中に入ってきた感触。  川があって、泳ごうって話になって、嶺にいちゃんが僕の服を全部脱がせてくれたんだ。  そうだ、その時見た裸は昨日の夜の嶺二さんとそっくりだった。  その時に何を話したのかは覚えていない。ただ、楽しかった気持ちだけが残っている。  もしかしたら嶺二さんは、僕がまた遊びに来るのを、ずっと待っていたのだろうか。  今日はお盆の最終日。  送り火の煙にむせながら、見よう見まねで作った野菜の馬に乗ってる嶺二さんを想像してみた。作務衣で、トウモロコシの馬に跨っていたのに、途中から裸で腰を振っている色っぽい顔になって一人で赤面した。  ごめん、よく分からないけど帰ってくるの遅くなってごめんなさい。この馬でまた彼岸に戻って、どうか安らかに成仏してください。  僕はそこらじゅうを蚊にくわれながら、涼し気な顔をしていた彼のことを思った。 【完】

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